ライコウ
※付喪神夢主です。
私は、姫様に大事に大事に使われた。
『あなたはわたくしの大事な鏡。母上とわたくしを繋げてくれる唯一の宝です』
姫様のその言葉が、何よりも嬉しくて嬉しくてたまらなかった。私の誇りだった。
母君を早くに亡くした哀れで美しい姫様。
姫様が笑えば花は負けたとばかりに俯き、笑い声を漏らせば鳥達が合わせて歌い出す。
姫様の繊細な指は、それはもう素敵な、筆舌に尽くしがたい甘く心を揺さぶる清廉な歌を幾つも生み出す。その歌を見た殿方は、それだけで姫様に敵わぬ虜囚(りょしゅう)となってしまうだろう。
姫様は私の自慢の主。
幸せになって欲しい。いや、絶対になるべき人だ。
あの方を不幸にする方がいれば、私は必ずやその愚か者を誅滅する。
それが私の役目だ。
私は姫様の為に在る。
私は姫様を守らねばならない。
私は――――私が、私が、私が!
そう、私は赦(ゆる)さない。
姫様を不幸に《した》あの男を赦さない。
殺してくれる。
殺してくれる。
殺してくれる。
逃がさぬ。
決して逃がさぬ。
逃がしてなるものか。
あの男は私の姫様を殺したのだ。
弄(もてあそ)ぶだけ弄び、姫様の純粋な心を汚し、踏みにじり――――嗚呼、なんとおぞましい男だ。
生かしてはならぬ。姫様の無念を晴らさねば。あの魯鈍(ろどん)な男を殺さねば、己の罪深さなど到底理解出来ぬであろう。
姫様はもっともっと生きて良かった存在だ。
あんなに清らかで才に満ち溢れ、誰からも愛されるべき尊い方だった。
それをあの男は!
おお、おお、いと憎し、あな赦し難(がた)し!!
姫様、姫様。
どうか力無き私をお赦しあれ。
あなたを守れなんだ無力な鏡をお赦しあれ。
今、あの男を誅します。
ですからどうか、どうか、心安らかにお眠り下さいまし。
私には、あなたの憂いの元を殺すことでしかあなたに償うことが出来ませぬ。
私などに、あなたの来世の幸せを祈ることは畏れ多くて出来ぬのです。
ですからどうか心が救われるように、あの男を殺すしか無いのです。
嗚呼、私は、無力。
私を愛してくれた主に何もしてやれぬ無力な鏡。
あの男を殺した後は、私は孤独の中消えていくのだろう。
「――――止まれ、アヤカシよ」
‡‡‡
アヤカシ。
言われた瞬間私の中で怒りがうねり狂った。
違う。
私はアヤカシではない。
魑魅魍魎などとは異なる。
私は姫様の鏡だ。
姫様が大事に大事に愛して下さった鏡だ。
美しい姫様のご尊顔を映し出すことを許された鏡なのだ!
それをアヤカシだと呼ぶなど赦せるものか!
私は身体を反転させ相手を睨み据えた。
そこには男が二人いる。
手前の長身の男は私に太刀を向け、ずしりと重い殺気を漂わせている。奥の男は彼とまるで正反対の優男だ。だがその微笑の崩れぬ様は、得体が知れぬ。
ああそうか、そうか。
「お前達はあの男の仲間だな。嗚呼、憎らしいことよ」
「いいや。君が殺したい人に頼まれて護衛をしているだけの関係だよ」
私の言葉に反論したのは奥にいる優男だ。
「ならば仲間ではないか。守るというなら、お前達はあの下衆の仲間だ。あの男は私の姫様を殺めておきながら、のうのうと生きている。罪を罪と思わずこれより後も生きようとする。嗚呼、憎らしいことよ。姫様の苦しみを知れ。お前達も知れ! 私に誅されろ!!」
「宮……やはり、」
優男は長身の男の声を手で遮り、隣に並んだ。
「君は、鏡が魂を持った存在だ。大切にしてくれた姫君を助けなかった彼を憎む気持ちは、理解は出来る。でもね、このまま彼を殺してしまったら、俺達は君を壊さなければならなくなるんだ」
「なれば先に私が殺めるまで。いや、そうでなくともお前達は殺めるべきである。姫様を侮辱したあの下衆の仲間なら生かしてはおかぬ。お前達も同罪ぞ。誅するべき。誅するべき」
「ここまで相思相愛なんて……だからこそ、悲しいね」
「宮」
優男は私に歩み寄る。長身の男が止めようとしたのを視線だけで制す。
この二人、主従の関係のようだった。
だが私にはそんなものどうでも良い。
私の全ては姫様だ。今も、これからもそう。
姫様がいたから、姫様が愛してくれたから私は生まれた。
姫様こそが私の存在理由。
姫様に与えられた魂という大事な宝物は、ただ姫様の為だけに在った。
姫様のいない世に、私の存在する意味は無い。
だからせめて、姫様を殺した男に報いるのだ。
だのにこの男達が邪魔をする。
あの男の仲間だから、私を殺そうとする。
悪いのはあの男だ。私じゃない。
あの男は罰を受けなければならない。
汚い命で償わなければならない。
「邪魔を……私の邪魔をするなああぁぁぁっ!!」
私は叫んだ。
優男はただただ微笑するだけだった。
が、先程と違って目が私を憐れんでいる。
何故私が優男に同情されなければならない。
止めろ。その目を止めろ。
私を憐れむな!!
「止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろおおぉぉぉっ!!」
「うん。ごめんね。でも、君の姿を見ているとどうしても哀れに思えて仕方がないんだよ」
優男は、つ、と私を指差した。
「君は主に大事に愛されて生まれた鏡の付喪神。鏡であるが故に、君の今の姿は、君の大事な姫様の姿なんだろう? その姿で、苦しそうに怨んで、怒り狂うのは、あまりにも悲しいよ。君が姫君の顔を歪めているんだ」
私は衝撃を受けた。
私が、姫様の姿をしている?
そんなこと、初めて知った。
私は自分の両手を見下ろした。
人間の女の手だ。
かさかさで、傷だらけで、美しくも何ともない。
これが姫様と同じ手?
馬鹿な。そんな筈がない。
姫様はもっと綺麗な手をしていた。
こんな醜い荒れた手とはまるで違う――――。
――――そう。
私は姫様の姿を隅々まで知っている。
私は姫様の姿《しか》知らないのだ。
だから、そうなのだ。
今の私はあの男を殺せるように人間の姿をしている。
私の知る人間は姫様ただ一人。
私が写せる人間は姫様ただ一人。
そういうことなのだ。
私はその場に崩れ落ちた。
姫様は清らかな人だ。
姫様は怨む心を知らない。
姫様は怒る心を持たない。
姫様は、純真で、真っ直ぐで、愛情深くて、それが危なっかしくて――――。
嗚呼、私が今、姫様を汚しているのだ。
汚してはならない人を、この私が!
「あ……あぁぁ……あ……ぁぁ……っ―――――――ッ!!」
私は声にならない悲鳴を上げる。
あの男を憎み、罰を与えようとした私が、ずっと姫様を汚していたのだ。
赦されないのは、私だったのだ!!
その場に埋まって頭を抱える。
なんて愚かな鏡だろう。
どうして気付けなかったのだろう。
……そうしなければ私の存在理由が無くなってしまうからだ。
もしあの男を憎悪していなかったら、私はそのまま消失していた。
姫様の仇を討とうと思えば、少なくとも仇を殺すまで私は存在することが出来る。
とどのつまり、私は消えたくなかったのだ。
姫様の死を悼(いた)んだ心に嘘は無い。
姫様を慕う心に嘘は無い。
けれどもそれを押し退ける程の、己の存在に対する執着が私にはあったのだ。
己自身に、絶望した。
私は……私は……なんて、浅ましい。
消えてしまえ。私など。
こんな愚かな鏡など、必要無い。
「……申し訳ございませぬ……姫様……申し訳ございませぬ……申し訳ございませぬ……」
「消えたくないと思うのは、悪いことじゃないよ」
君が生きていればそれだけ、君の中で姫君は生き続けることが出来るのだから。
優男の声が、見た目と同じ程に優しい声が、私へと降ってくる。
顔を上げると彼は目の前にいた。
私の頭をそっと撫でて、先程とはまた違う笑みを浮かべた。
そして、ゆっくりと口を開いて――――。
それに、長身の男が驚いた。
‡‡‡
琴の音がする。
まだまだ拙(つたな)いその音からは、弾き手の懸命な気持ちが感じられて好ましく思う。
私は弾き手をじっと見つめ、目を細めた。
私は、今、こんなにも心穏やかに過ごせている。
主を失った鏡は、また新しい主に愛されることを許された。
一生懸命に琴の腕を上げようと奮闘する、姫様と歳の離れた愛らしい姫君は、私を一目で気に入り、姫様のように大事にしてくれる。
見鬼の才を持たぬ彼女に私は見えない。
私の姿を見れるのは、あの優男と長身の男――――その同業の者達だけ。
彼らは人に害為す数歩手前だった私をこの小さな姫君に与え、それ以降も良くした。特に長身の男、源頼光はこの姫君の実兄であり、妹の様子見のついでに何かと私に話しかける。
姫君も私のことは見えずとも、私と会話をしたがった。とはいえ、出来るのは姫君の問いに対し、物を動かして肯定と否定を示す程度だ。
源が来れば彼を通じて会話が出来るから、彼の訪問を姫君は大層喜んだ。優男、和泉によれば今まで以上の喜びようだという。
新たな主を持ち、私は初め、元の主を裏切った後ろめたさがあった。
姫君は私にまず○○という名をくれた。何故かと言えば、その方が話しやすいからだと言う。
姫君は毎日元の主の話をせがんだ。肯定か否定のどちらかを答えるだけで済むように言葉を選んで問いかけてきた。
彼女に答える為に私は己の記憶を手繰る。
そうするうちに、まだ自分の中に残った思い出の中に、姫様が確かに息づいているのが分かった。
嗚呼、生きているのだ。
和泉の言った通り、姫様は私の中でしっかりと生きているのだ!
分かった途端、私の心が晴れ渡ったかのようだった。
汚れていない姫様が、私の中に残ってくれている。
汚してしまったにも関わらず、愚かな私をお赦し下さったかのように――――などとは、私の我が儘な捉え方だろう。
けれども私にはまだ姫様が残っている。
それでいながら、新しい主が私を大事にしてくれている。
なんと、幸せなこと。
――――と、琴の音が、止んだ。
「○○、お兄様がおいで下さいましたよ」
「ああ……あやつが……」
私の声は彼女には届かない。
しかし、それでも私は独り言と分かっていながら声を発する。姫君に、姫様に似た声を聞いて欲しいのかもしれない。
姫君が立ち上がって、私の本体を持って簀の子へ出る。
自然私も腰を上げて姫君の後ろに従った。本体の鏡が移動するなら私もそうしなければならない。
どすどすと簀の子を歩いてくる源は、姫君を見るなりうっと息を詰まらせ足を止めた。
その様子に、姫君は何を思われたのか。
一瞬足を止めたかと思うと、ずいっと実兄に詰め寄った。
大男が、小さな娘に気圧され仰け反る姿は、なかなか面白い。
思わず笑ってしまう。勿論、二人に気付かれぬように、だ。
「……お兄様。お約束のものはお持ちいただけましたか?」
「頼子……い、いや……それが、だな……」
「お兄様? わたくし、ちゃんとお願い申し上げた筈ですよ」
源は視線を逸らし弁明しようとしたが、やがて諦めたようだ。
気まずげに姫君に、懐から取り出した物を差し出した。
「まあ、これは……」
「すまぬ。拙者にはこのくらいしか、思いつかなかったのだ」
「……」
姫君は沈黙した。
源は、後ろに数歩逃げた。
「……仕方ありませんね。お兄様。これをお持ち下さいまし」
そう言って彼の手に持たせたのは私の本体だ。
それだと気付いた源は困惑を見せる。
「これは……いや、拙者は、」
「この鏡を持って、外に出掛けて下さいな。でも鏡は絶対に今日中にお返し下さいね」
姫君は拒否を許さず源に言う。
実兄は妹の気迫に圧し負けてしまったようだ。
鏡を見下ろし、複雑そうな顔をして私を、そして姫君を見た。
私は、どう言うことなのかさっぱり分からない。
「……わ、分かった」
「それで良いんです。○○。お兄様が外の世界を見せて下さるそうです」
「外の世界を……?」
私が首を傾げると、私の声が聞こえる源が、
「その……前に、言っていただろう。外の、賑やかな人々の往来が見てみたい、と」
……ああ、確かに、言った。
だがそれは連れて行けと願うつもりで言った言葉ではない。ただ、姫様が見てみたいと仰っていたから、ほんの少しだけ興味があっただけのことなのだ。
まさかそこまで本気にされていたとは思わなかった。
「……源。人でない私になぞ、気を遣わずとも良い。私はただの付喪神故」
新しい主の手に渡り、名前を貰い、姫様が私の中に息づいていると分かった、それだけで良い。
それ以上のことを私は彼らに望むまい。
私は二人に背を向け、源にその意思を示す。
すると、源は私の意思を違えずに姫君に伝える。彼が残念そうな声音をしているのが、不思議だ。
私が強く望んでいないことを知った姫君も、とても残念そうだ。源に鏡を渡したまま、では中で話しましょうと私の脇を通過する。
私もそれを追おうとした。
だが、源に呼び止められる。
「○○殿」
「毎度同じ言葉を言わせるな。私は人ではない。従って私にそのような敬称をつける必要は無い」
「いや……こればかりは、拙者が慣れぬだけだ。付喪神と言えど、見た目は姫となれば……」
「お前、女性(にょしょう)に化けたアヤカシに簡単に骨抜きにされそうだな」
源は「な……」口を半開きにして固まった。が、すぐにそんなことは無いと否定する。
「さて、どうだかな」
「アヤカシとあなたは違うのだろう。ならば、同列に扱いなどしない」
「はて、アヤカシと同じであると和泉に警戒しろと諫めたのは何処の誰だったか」
私が姫君に贈られるその直前までのことを持ち出せば、源は黙り込む。
そう、恐らくは姫君に贈られた後も暫くこの男は私を警戒していた。
それがどうしてか、今、私にこのように気を遣う。何とも解せぬ男である。
「それで、何の用だ」
「あ……ああ……」
源は私の言葉にはっとして、懐から何かを取り出した。
差し出されたそれは、花だ。
何の花かは分からない。花は全くと言って良い程、私は種類を知らぬ。数えきれぬ花弁が密集した黄色の花が三輪、紙縒(こより)で束ねてあった。
それが、何だ。
訝(いぶか)って源を見上げると、
「外の世界を見せるという話になったのだが……拙者には、これしか用意出来ず……」
「……」
私は花をじっと見つめ、手を伸ばした。
摘んで顔の側に寄せる。
「これが花か」
「ああ」
「そうか。姫様の絵巻物に書いてあった物しか見たことが無かった。これが花と言うものか」
姫様は、これも直に見たいと言っていた。
それなら庭に出れば良かろうに……と思わないでもなかったが、姫様は良く整えられた庭には全く興味を持たなかった。
植物の自然な姿を見たいと言っていた。
姫様は作られた邸(やしき)の中よりも、外の世界に憧れていたのだ。
これを見せたら、きっと姫様は喜んだことだろう。
そう思うと、私も嬉しくなってきて、思わず笑みがこぼれた。
「感謝する、源」
「……」
「源?」
反応が無い。何故か顔が赤いし、目を剥いて私を凝視している。
気味が悪くて何度か呼ぶと、源はようやっと我に返った。すると更に真っ赤になって――――脆弱な人間は、斯様(かよう)に赤くなって命は大丈夫なのか――――慌てて首を左右に振る。
「い、いやっ! な、何でもない……気にしないでくれ」
「気にはしていない。ただ気味が悪いだけだ」
「……気味が、悪い……」
「ああ、気味が悪い。気味の悪い真似をして姫君を待たせるな」
私は源に言い、背後に回って背中を押した。鏡が動いてくれなければ、私は姫君のもとへ戻れない。
手が触れた瞬間に源の身体は大きく震えたが、私は構わず力の限り源を押して無理矢理進ませた。
ようやっと戻った部屋で、姫君は呆れたように源を見た。
妹の視線を受け、肩を落とした源の、なんと情けないこと。
これの何処が、女性のアヤカシに惑わされぬと言うのか……。
私は姫君の側に座り、溜息をついた。
途端、更に源の肩が下がったように見える。
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