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奇異なる現象は、○○だけに留まらなかった。
曹操軍は、果たして猫族を襲撃しなかった。
気味が悪い程に順調に江陵に至り、そこでようやっとその理由を知る。
曰く、曹操軍の進行を阻む異形の化け物が未明に現れ、軍を蹂躙した後いずこかへ消え去ったらしい。
黒く、猫にも見える巨大な四つ足の化け物――――。
思い付くのは一人。
○○である。
諸葛亮が見失ったあの後に彼女は曹操軍を襲っていたのだ。
だが○○は、猫族や新野の民を混乱させ、恐怖に騒がせたが、誰一人として傷つけていなかった。
報せに来た男も、あれは化け物となった○○に驚き転倒し、側に埋まっていた岩に頭をぶつけていただけ。
衣服だって、元々曹操軍の偵察隊との交戦でぼろぼろになっていただけだった。
○○は、自分達を傷つけず、曹操軍を害した。
その事実に、穏やかな猫族は未だ捨てきれぬ○○への同情心から生易しい憶測を立てた。
○○には、猫族の置かれた状況も微細に話してある。
だから、自ら獣化して曹操軍を撃退してくれたのではないかと。
そんな筈がない。
ならば何故彼女は私から逃げた?
猫族の為の行動だと言うのなら逃げる必要は無かった。曹操軍を撃退した後に戻ってくるのではないか?
何故、何故――――○○はここにいない?
自分の勝手な感情は、いつまでも○○に執着する。
だが、時の流れは、無情なものだ。
諸葛亮に○○を思う暇を与えなかった。
江陵に落ち着いた猫族は、南の大国呉と同盟を結び、曹操の再来に備えた。
けれど――――曹操は、沈黙したまま南征を再開する気配を見せなかった。
その理由は、やはり黒く獣だと言う。
○○だ。
暫くは、痛手を受けた曹操軍は動けまい。
だが、いつまで経っても○○は諸葛亮の前に現れなかった。
やはり、ただの偶然だったのだ。
都合の良い願望の混じった憶測は、諸葛亮は即座に切り捨てた。
猫族達も、次第に○○のことを話題に出さなくなった。
今や気にかけているのは劉備と関羽だけ。
諸葛亮自身も諦めていることを、この二人は今でも案じ、探していた。
そして――――江陵のとある村で、黒い巨大な獣を見たとの情報を得て諸葛亮を無理矢理に連れ出した。
「劉備様……いつまで○○のことに拘(こだわ)るおつもりですか。曹操軍はもう、体勢を整えつつある。いつまた南征を再開するか……」
「分かってるよ。でもだからこそ、今のうちに○○を見つけてあげたいんだ」
曹操軍が到来した時、いつまた黒き獣が、現れるか分からない。
曹操もきっと、そのつもりで対策を練っている筈だ。
黒き獣は○○である可能性が限り無く高いのだ、彼女が危険に晒されるのは、何としても避けたい。
それはあくまで、○○を引き入れた猫族の長としての判断だと本人は断じる。
されどもきっと、その影には諸葛亮に対する思いやりも籠っている。
諸葛亮は、やおら溜息をついた。
「大丈夫よ。何かあればわたしが対応するわ」
「……」
「そ、そんな目で見なくたって良いじゃない!」
○○は、関羽と同じ混血の娘だ。
それを知ったのは、彼女の目を見て驚いた関羽に教えられてから。
関羽が○○を気にかけるのは同じ混血だからなのだろう。
……関羽が一番、最悪の事態に対応しきれない気がする。
諸葛亮は、これ見よがしに嘆息した。
黒き獣が人の目に触れたのは村から然程離れていない小山の中だ。村人が頻繁に出入りする為か、目撃情報は複数あった。
村人は皆、黒き獣を恐れてはいなかった。むしろ、やや好意的だ。
聞けば姿を現しても、敵意も何も無くじっとこちらを観察しているだけで何もしてこないし、崖から足を滑らせた子供を小山の麓まで運んでくれたこともあったそうなのだ。
黒き獣は、猫族が江陵に居着いた頃に目撃されるようになった。
何故今まで報せなかったのか、それは討伐されるのではないかと不安があったからだった。
江陵の村々は猫族の祖劉光に対し好意的で、それ故に、猫にも見える、村の子供を助けた黒き獣に対し、無体な仕打ちが出来なかったのだ。
やはり、黒き獣は――――○○は、暴走した訳ではなかったのではないか。
これを聞いて、関羽がほっと胸を撫で下ろした。
三人の中で最も張り切っているのは、彼女かもしれない。
「ほら、劉備も諸葛亮も早く!」
「……」
「……まあまあ。諸葛亮。関羽は、同じ混血の○○のことだけじゃなくて、諸葛亮のことも心配なんだよ」
「ご冗談を」
有り得ない、と切り捨てる。
劉備は、苦笑を浮かべた。
「でもきっと、○○を見つけたら真っ先に駆け寄るのは諸葛亮だよ」
「……」
「否定出来ないだろう?」
劉備は笑った。
「二人共!」
「分かってるよ、関羽」
関羽に急かされ、黒き獣が頻繁に目撃される地点に至る。
そこは日当たりの良い、急な斜面を多種類の花々にびっしりと埋め尽くされた花の匂い濃い場所だった。木々よりも、草花が多い。
斜面の下には人一人が通れる程の道と、川が流れている。向かい側には、劉備がやっと登れるくらいの段差があり、奥に洞窟と断崖が見えた。
あの洞窟は、村人が雨宿りなどで良く利用している場所だ。獣はなかなか寄り付かぬ。
「この辺を中心に、散らばって捜しましょう」
「待て。何故お前が場を仕切る」
「まあ良いじゃないか。僕はあっちを探してみるから、諸葛亮。少し上流を頼めるかい?」
「……分かりました」
「そこでわたしを睨まなくたって良いじゃない!」
関羽の抗議は、黙殺した。
‡‡‡
――――どうしてか、視界は空に埋め尽くされている。
思考が鈍い諸葛亮は、全身に走る鈍痛に顔をしかめた。
何がどうしてこうなったのか――――。
……ああ、そうだった。
少しだけ顔を上げる。
急な斜面に生えた木々。ある地点から一直線上の物な木々だけ枝が所々折れている。
落ちたのだ、私は。
近くで聞き覚えのある鳴き声を聞き、気を取られて。
足場が悪いことなど分かっていたのについ気を漫(そぞ)ろにして足を滑らせるなど……間抜けにも程がある。
腕も足も上がらない。頭も、枝か幹で打っているようだ。
これでは満足に起き上がることも出来ぬ。
諸葛亮は目を伏せ、長々と嘆息した。
痛みの所為で声も満足に上げられない。……いや、ここで助けを求めたとして、劉備達の耳に届くかどうか……。
だが、意識はやや朧気になりつつある。今助けを呼ばず、沈黙しているうちに気でも失えば、命は無いかもしれない。
……ぐぉおおん……
声が、聞こえた。
諸葛亮は、息を呑む。咽が痛んだ。
首を巡らせると、そこには漆黒の塊。
漆黒の――――猫のような大きな獣。こちらから距離を置いて様子を窺っている。
毛色と同じ色の目が、諸葛亮に向けられている。
○○。
諸葛亮は声も無く漏らした。
彼女は諸葛亮に歩み寄り、鼻を寄せた。
それはまるで、諸葛亮を案じているかのようで。
「……○○、なのか。お前は」
「……」
「……いや、そもそもこの名前は私が勝手に付けた名だったな。お前の名ではない」
名前然り、世話然り、私はずっと自分の善意を押し付けていたに過ぎないのだ。
人形のように物言わぬ彼女の意思など知らず。
諸葛亮は笑う。
「……私から逃げたのなら……要らぬ世話だったということだな……」
獣は何も言わぬ。
側に腰掛け、諸葛亮の顔を見下ろしてくる。
一瞬――――看取ってくれるのかと、それも良いかと思った。
けれどもすぐにそれはならぬと己を叱る。
だが身体は動かない。
「……立ち去れ。元々お前が回復すれば……安住の地を世話して……別れるつもりだった。自我を取り戻したなら……お前の好きなように生きれば……良い」
「……」
話した所為だろう。何気無い行為でも、この身体では体力を非常に消費する。
もう少し話せるかと思ったが、どうやら、もう……限界らしい。
諸葛亮は目を伏せた。
後は、一気に意識を遠くに飛ばすだけだ。
意識が完全に途切れる寸前、誰かが歌っていたような気がしたが、幻聴だろう。
‡‡‡
――――歌が聞こえる。
美しく、しかし何処か何処か逼迫(ひっぱく)した、こちらに訴えかけるような歌声だ。
劉備は、歌声に惹かれ、諸葛亮に頼んだ上流へ上った。
そして――――見つけた。
彼らがいたのは川ではなく、斜面の下だ。
「諸葛亮……!」
思わず叫んだ、その刹那。
血にまみれて仰臥した諸葛亮の傍らで歌っていた全裸の女性は、歌を止めた。
無表情に、劉備を見上げる。
‡‡‡
あれは、きっと、奇跡ではなかったと劉備は思う。
あの時、○○が諸葛亮の側で歌っていた。確かに、美しい声で、劉備に訴えかけていた。
○○が、諸葛亮の為に助けを呼んだのだと、疑わない。
だって、彼女は――――諸葛亮と共に保護された後は、以前の通り物言わぬ人形になってしまったのだ。
諸葛亮の窮地に於いての、彼女の恐らくは初めての行動。
加えて、彼女は運ばれる間、諸葛亮をじっと見つめていた。
自分の推測に間違いは無いと、思う。
江陵城に戻り、諸葛亮の本格的な手当てをする場に、○○を置かせた。
するとやはり、彼女は、諸葛亮をじっと見つめる。
諸葛亮が目覚めれば、黒き獣が○○だと確証が得られるだろう。
彼女が諸葛亮の窮地を報せてくれたのだと教えたら、彼は喜ぶだろう。分かりにくく、冷静を装って。
諸葛亮は、今だ目を覚まさない。
頭を強打している所為だろう。あまり長引くと命に関わると医者が言っていた。
それは、駄目だ。
絶対に回避しなければならない。
だって、○○に助けられたのだ。
彼は、生きなければならない。
「諸葛亮、まだ目覚めないみたいだね。でもきっと、すぐに目を覚ましてくれるよ」
君に助けてもらったんだから。
暇を見つけて、諸葛亮の眠る部屋の隣室に住まわせた○○に話しかける。
関羽も頻繁に○○のもとを訪れるが、今日はまだ来ていない。
「君は諸葛亮のことをどう思っているんだろう。関羽も、気になって仕方がないみたいだ。君が目覚めたら、きっと暫くは、その話ばかりするんだろうね」
ああ、もしかしたら……他の子達も混ざって、君は困ってしまうかな。
そうなったら、助けるよ。
微笑みかけ、何気無く窓に目をやった。
――――その、時だった。
「――――夢、を」
夢を、見ていました。
不意に聞こえてきた小さな声に、心臓が跳ね上がった。
劉備は○○に視線を戻し、驚倒する。
「お母さんとお父さんが真っ赤になって、白が真っ赤になって、私が真っ赤になって……最後には真っ黒になって、私達を真っ赤にした母と同じ人達が真っ赤になっていました」
「……!」
――――話している。
○○が話しているのだ!
胸に沸き上がる感情は歓喜だ。
彼女の目はしっかりと開いていて、劉備を捉えている。
そして、物語を歌うように話すのだ。
「夢の中で、色んなものを見ました。声は聞こえないけれど、途中から、それがとても楽しくなって、長く続けば良いのになって」
「そうなんだ。それは、諸葛亮に出会ってから?」
「さあ……名前は教えられた気がしますが、聞こえませんでした。でも、私の側にずっといてくれていた、母と同じこめかみの方に耳がある男の人でした。その人が夢に出てきて、その後もずっと、ずーっと楽しかったんです」
諸葛亮のしたことは全て、無駄ではなかった。
劉備は我がことのように喜んだ。
「けれど――――赤い臭いがした時、黒い猫が夢の中に現れたんです。『また、こわしてしまうよ』って言うんです。聞こえないのに分かって、猫が恐くなって、逃げたんです。ずっとずっと逃げても逃げても、黒猫は私に追い付いて、『こわしてしまうよ』って囁くんです。恐くて恐くて、黒猫を懐かしく思えてしまうのも恐くて、いつの間にか夢は真っ黒になっていました」
恐らくは、黒い獣になっていた時のことだ。
もしかして……曹操軍を襲ったのは偶然だったのかな?
劉備は笑顔で、○○の話を聞き続けた。
「真っ黒で真っ黒で、恐くてずっと走っていました。あの人を呼んでもあの人は何処にもいなくて、黒猫が何処にいるかも分からなくて……何かに出会うこともありました。でも黒猫なんじゃないかと思って、逃げたんです。たまに、殴られて、泣いたりもしました。訳が分からなくて、殴ったりもしました。黒猫はずっと追いかけてきました」
「……そっか。一人でずっと、辛かったんだ」
「だけど、ふと白がいたんです。あ……白は真っ白な虎なんです。小さな頃からずっと一緒で、私の親友でした。その白が、猫を食べてくれたんです。そうしたら、目の前で赤まみれのあの人が現れて……白が歌ってくれっておねだりしてくるので、その人の側で、ずっと歌っていたんです。気付いたら白は何処にもいなくって――――」
そこで、彼女ははたと気が付いたように首を傾げた。
両手を合わせ、
「あなたも、夢にいました」
あなたは、どなたなんでしょう。
今更問いかける○○に、劉備は名乗ろうとし、止めた。
「もう少し待っててもらえるかな。君が真っ先に名前を知るべき人が、まだ起きていないんだ」
「そうなんですか?」
「うん。君を誰よりも大事に思ってくれている人だから、君に真っ先に名前を知って欲しいんだ」
「それは、とても嬉しいことですね」
だから、もう少し待っててともう一度頼むと、彼女は頷いた。
人形でない彼女の微笑の、なんと美しいこと。
早く諸葛亮が目覚めて欲しいと、劉備は強く願った。
諸葛亮が目覚めたのは、それから二日後のことである。
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