趙雲
幽州は右北平。
外れの丘に、その飯店はあった。
毎日昼夜常連客で賑わう飯店の存在を趙雲が知るところとなったのは、偶然助けた翁(おきな)を助けた縁であった。
快晴の今日は日差しが強く、翁は飯店に向かう道途で眩暈に襲われ道端にうずくまっていた。
飯店に行くのが日課になっているからどうしても帰る訳にはいかないと言い張る翁は、趙雲が背負って連れていった。
翁の目指した飯店の存在を、趙雲は聞いたことが無い。
数年前までは人気の飯店が右北平の外れの何処かにあったとは噂に聞いたが、店主が亡くなり空き家になったとのことだ。件の店は、同じではあるまい。
翁の道案内に従い、緩やかな上り坂を進んでいくと、一件の家屋が見えてきた。
看板らしき立て札がある。
あれが贔屓にしている飯店だと、翁が安堵して言った。
店舗は相当年期が入っているようだが、壁や屋根には所々修復された後が見られる。
翁を椅子に座らせるまでと、引き戸に手をかけた趙雲は、次の瞬間店内から轟いた男の悲鳴に引き戸を勢い良く開いた。
「なっ……!?」
愕然。
店内は三列二台の計六台の机それぞれに四脚の椅子が備え付けられており、正面奥が厨房になっている。
悲鳴を上げたとおぼしき男は、左奥の机に、こちらに背を向け突っ伏していた。酒の入った杯が倒れ、突っ伏した衝撃で皿から料理が溢れてしまっていた。
尋常でない男の有り様に、趙雲は翁を下ろして駆け寄った。
声をかけようとし、隣の席の、無精髭で口も隠れた男が、赤ら顔で止めた。
「良いんだよ、そのまんま寝かせといても」
「しかし、これは明らかに……」
「兄ちゃん、その料理一口食ってみな。そしたら倒れた理由が分かる」
朗らかに机に備えられた箸を手渡され、趙雲は困惑する。
だが、何度も促され、仕方なく言われた通りに料理を口に運んだ。
咀嚼(そしゃく)し――――固まる。
脇から差し出されたお茶を乱暴に受け取り料理諸共一気に飲み下した。
これは……不味い。
形容しがたい程に――――否、この世に存在するどの味にも属さぬ全く新しい不味さだ。
こんな味を生み出すことの出来る料理人は、ある種の天賦の才を持ち合わせているのでは……本気で、そう思ってしまった。それくらいに不味い。
趙雲は口に押さえよろめいた。
「大丈夫っすか、お兄さん」
「あ……すまない」
お茶を差し出したのは、少年だ。十五・六と見受けられる。
柔和な雰囲気をまとい、丸い顔には垂れ気味の大きな目、小さな鼻、薄い唇。女のようにも見えるこの少年、しかし背丈は趙雲よりも少しばかり高かった。
少年は愛想の良い笑顔を浮かべ、「どうぞ口直しに」ともう一杯お茶を差し出した。
「ありがとう」
改めて飲むと、まろやかな味と芳しい香りが口内に広がり、精神に落ち着きをもたらした。
料理はお世辞にも食べれるものではないが、このお茶は存外にも非常に美味い。あの料理の後だから、そう感じてしまうのかもしれない。
少年は趙雲から飲み干した湯のみを受け取ると、歩いてきた翁に会釈した。
「いらっしゃい、蓉爺(ようじい)。いつもの席、空いてるぜ」
「おお、すまんのう。王玲(おうれい)や。今日は、この若者も一緒に良いかぇ」
「オレは良いけど……お兄さん、胃腸は強い方? 弱いならお勧めしないっすよ 」
ここ殺人的料理しか出さない店だから。
真顔で言い、王玲は首を傾けた。
「いや、俺は……」
趙雲は難色を示す。
さすがに、料理を口にした直後にここで食事をする気にはなれない。
が、かと言って翁の厚意を無下にも出来ぬ。翁はどうやら、この飯店の料理が好きらしい。毎日通う程。
結局、翁の屈託の無い誘いを断れず、趙雲は翁と同じ机につき、注文も翁に任せることとなった。
王玲は注文を受けるも、心配そうに趙雲を見下ろしてくる。
「食べた後で苦情を言ったって、オレらは何もしませんからね」
立ち去り際、彼はそんな言葉を残した。
それだけ、ここの料理は殺傷能力が高い……ということ。幸い、死人は出ていないようだが。
趙雲は自身に気合いを入れ、翁との談笑に応じながら、『殺人的料理』を待った。
すると、先程悲鳴を上げた男が、顔を上げた。
「あー! まっず!」
思い切り貶しているが、声音は明らかに笑っている。
不味い不味いと繰り返していると、厨房の方から怒声が飛んできた。
「うるっさいわボケェ!! 毎度毎度不味い言うんだったら来んな!! 二度と来んな!!」
鼓膜を壊さんばかりの大音声であった。
咄嗟に耳を押さえるが、遅かった。キィンと痛み、趙雲は顔をしかめた。
目の前に上から落ちてきたのは、天井の破片だろうか。
翁は趙雲の様子に懐かしげに笑った。
「儂も、初めて来た時は、あんたのような反応をしとったなあ」
「翁、今の怒鳴り声は……女性のもののようだったが」
「この店の店主だよ。王玲の姉で、王○○と言ってねぇ。先月から飯店を始めているんだが、何とも不味い料理しか作れない子でなぁ……」
「蓉爺、悪口あたしにもきっかりしっかり聞こえてるんだけど」
不機嫌な声が降ってくる。
はっと耳から手を離して顔を上げると、王玲と良く似た面立ちの少女が、顔をしかめて翁を睨め下ろしていた。
趙雲に視線を移すと、にっかりと歯を剥いて笑った。
「悪いね、お客さん。驚かせちまって」
「いや……だが、とても大きな声だったな。驚いた」
「これがあたしの自慢なんだ」
○○は片目を瞑ってみせ、手にしていた菜箸をくるりと回した。
「ってか蓉爺。あんた身体大丈夫なのかよ。もうよぼよぼなんだから、無理してこんな所まで来たら、どっかで倒れても誰も助けてやれないんだからな?」
「いやぁ、毎日ここの料理を食べんとどうも生きた心地がせんでのう……」
これに、隣の席の男が苦笑混じりに口を挟む。
「ここの料理を食べてても生きた心地はしないけどなぁ」
「なら食いに来るな」
「いや、何か中毒性があって。何を仕込んであるのか分からないけど」
○○が片手に拳を作って見せると、
両手を挙げて、食事に戻る。不味さに噎(む)せた。
○○は鼻を鳴らし、厨房に足早に戻って行った。
その後ろ姿を見送り、男と翁は顔を見合わせ、小さく噴き出した。
「○○、蓉爺が遅いって随分心配していたよ」
「しっかし本当に不味いなこれ……」鮮やかな赤が食欲をそそるだのに、男は不思議そうに料理を見下ろして言う。
「王壬(おうじん)さんの作り方そのままなんだろう? なら、もうちょっと味が良くたって良いような気が……」
「なに……まだまだ、料理に慣れていないのさ。この店を始める少し前まで、山賊じゃったそうでなぁ。手の込んだ料理なんてもの、今まで知らんかったんじゃろうて」
「山賊……?」
趙雲は眉根を寄せ厨房を見やった。そこでは調理に戻った○○と王玲が忙しなく動き回っている。
「姉弟で?」
「ああ。何でも生まれてすぐに捨てられていたところを、山賊の頭に拾われ育てられたそうじゃ。数年前に、その頭が死んで別のもんが束ねることになったが、馬が合わなかったそうでなぁ……強引に抜けてここまで逃げてきたそうな。それを助けたのがこの飯店の前の主人さ」
それで恩義を感じ、店主が亡くなった後店主の残した調理法を基に姉弟二人で切り盛りしているそうだ。
などと鷹楊に語る翁に男は渋面を作った。
「蓉爺さん、それほいほい口にして良いことじゃないよ。何処で公孫賛様のお耳に入るか……今は二人共、もう足を洗ってるんだからさ」
「なに、あの子達もあっけらかんと言うておることさ。儂が言わんでも、問われればあっさりと認めるだろうて。それに、腕っぷしは強い方だと自慢しておったぞい」
翁は飄々と笑う。
趙雲は何故かひやりとした。
この翁は趙雲が公孫賛に仕える武将だと分かって言っているのではないか、一瞬だけそんな、妙なことを思った。
趙雲自身、顔は広い方だと自覚している。
知らぬうちに知られていることもままにある。
だが翁は趙雲が見つけた時、まったき初対面の反応だった。それに今までそういった流れにならなかった為に、彼に名乗っていない。あれが演技だとは到底思えなかった。演技だったとするなら相当な役者である。
つい探るように見ていた自分に気付き、慌てて視線を逸らした。
と、男が食事を終え、世間話を始めた。
彼としては、久し振りの一見客だそうで、趙雲の《まともな》反応を見て帰りたいらしい。
最近、盗賊が周辺の村に出没しては血が流れていることが主な話題だった。
これに関しては、すでに公孫賛も討伐隊を結成しており、今その為に情報収集に奔走している。
この店の常連は全て付近の村に住んでいるので、男は誰かが犠牲になってしまうのではないかと案じていた。
それはきっと、この店を営む姉弟も同じだろう。
そう思うと、早く討伐して平穏を取り戻せねばならぬと使命感が生じる。
何か情報は仕入れることは出来ないか会話に興じていると、王玲が料理を持って現れた。
「蓉爺。はいよー」
王玲はにこやかに机に料理を並べる。
料理の脇に、しっかりお茶がそれぞれ二杯置いてある。
「おお、すまんなあ」
「ほら、お兄さんも。マジで食べるなら気を付けて。匂いは普通でも味は最低っすから。命の危険を感じたら即食事を止めてお茶飲んで下さいよ」
「おーい王玲ー。今なら無料で首を一息に折ってやるけど?」
「わー、唯一の肉親殺せるとか何あの女超鬼畜ー。だから嫁げないんだ――――」
カコンッ。
厨房から飛んできた菜箸が王玲の後頭部に当たる。先程○○が持っていた菜箸だろうか。
王玲は殴られた箇所を撫でて厨房から睨んでくる姉を睨み付け嘆息した。ぶつぶつ文句を垂れる。
「ほんともう……義理果たすんなら義父さんの言ってたように良い人に嫁いで子供産んで幸せになれってんだ」
「王玲。年齢的に丁度良い人ここにいるけど」
男は趙雲を指差してにんまりと笑った。
思わぬことで趙雲は反応が遅れた。
「え……」
「いや、この人一度限りかもしんないじゃないっすか。それにこれだけ顔が良ければすでに恋人いるっしょー」
「いや、そういった相手はまだだが……」
「ほら狙い目」
「だから……」
王玲は苦笑を浮かべた。
厨房で鍋を振るう○○を見やり、肩をすくめた。
「興味無いってさ」
「勿体無い、勿体無い」
翁は残念そうに溜息をついた。
「もう二十も超えとると言うのに……」
趙雲は我が耳を疑った。
「二十? 彼女は、もうそんな年齢だと……?」
「そう見えないだろ? 王玲も今年で十九」
「オレら二人揃って童顔が悩みなんすよー」
王玲が両手を挙げて言った。
同時に、新しい客が店に入ってくる。
彼は……常連ではなさそうだ。薄汚いボロボロの服の下から晒された太い腕はこんがりと日に焼け、筋肉の凹凸がくっきりと見える。
厳つい四角形の顔は粗雑そうで、中の様子を小馬鹿にしたような笑みが非常に不愉快だ。
山賊か、盗賊か――――明らかに善良な人間ではない。
抜き身の剣をちらつかせ威圧するその客は、適当な机に近付き、椅子に腰を下ろした。
「おい、何か料理出せや」
王玲が吐息を漏らして賊客に足を向けた。
が、それよりも早く、
「お客さん、悪いけどうちは見た目も性根も汚い奴はお断りなんだよ」
あんたに食わせる料理は無いからさっさと出ていきな。
○○が厨房から現れ、不機嫌そうに賊客に歩み寄った。
賊客は相手が若い娘と、いやらしい目を彼女に向ける。
「おいおい、嬢ちゃん。ここは店だろ。大事な大事なお客様はちゃあんと敬えよ」
「敬ってるよ。あたしが客と見なした奴はね。あんたは別だ。ここは人の口に入る物を扱ってるんだ、汚物を入れる訳にはいかないんだよね」
「……誰が、汚物だって?」
「あれまあ、自覚がないんじゃあ救いようが無い」
○○は、堂々と賊客を挑発する。そこに怯えなど無い。こちらが格上であると自信満々に構えている。
趙雲達の机の側から王玲が離れた。何処へ行くのかと思えば、厨房だ。
賊客が姉相手に色めき立っていると言うのに、どうして厨房に下がるのか――――不審に思う趙雲の鼓膜を賊客の怒声が殴り付けた。
趙雲は咄嗟に立ち上がり、○○のもとへ向かおうとする。
しかし男に止められた。
「このまま傍観しといて良いよ」
「しかしあれは――――」
「うるっせえんだよ雑魚が吠えんな見苦しい!!」
「ぐほぁっ!!」
ずうん。
石造りの床が揺れた。
雷鳴の如き怒声と共に冷たい床に叩きつけられたのは、あの大柄な賊客であった。
○○に頭を鷲掴みにされ起き上がることが出来ぬ。
……。
……。
……否。
あの賊客、ぴくりとも動かない。
まさか、と顔色を変えた趙雲をまたも男が止めた。
「大丈夫。死んでないよ。○○も王玲も、山賊だった頃から人を殺したことは一度だって無いらしいから」
「そうなのか?」
「その辺しっかり守ってるから心配しなくて良いよ。なあ、蓉爺」
同意を求められて翁は大きく頷いた。
○○は絶入した賊客を軽々と肩に担ぎ、大股に店を出ていった。
その際、客に屈託の無い笑顔を浮かべ、
「んじゃ、ちょっくら汚物捨てに行ってきまーす」
おう、行ってこい、早く戻ってきとくれよ、などと、彼女は常連客の笑顔に見送られた。
そう。常連客は皆笑顔であった。誰も怯えた様子が無い。
むしろ、慣れているといった風である。
「……ここでは日常茶飯事なのか?」
「それ程頻繁にある訳じゃないっすよ」
趙雲の問いに、戻ってきた王玲が答える。
その手には、小さな干菓子が。
「はいこれ、食事を邪魔してしまったお詫びっす。あ、これはオレが作ったんで味は普通」
「ああ、ありがとう」
彼はこれを取りに行っていたらしい。趙雲達にそれぞれ渡すと、他の客にも配りに行った。
「ここは、王壬の頃からやたらとならず者が寄ってきてのう……王壬も武芸に秀でておった故に、営むことが出来ておったんじゃよ」
何でも王壬は元々冀州の武将であったらしい。それが、老いの為に剣を捨て、こんな場所で飯店を始めたのだそう。
元武将が元山賊の姉弟を匿(かくま)い、自らの姓を与え子供にしたとは、不思議な話だ。
だが、二人が今真っ当に生きていられているのは、間違い無く彼のお陰だろう。
王玲の後ろ姿を見つめ、趙雲は「彼らは、真っ直ぐだな」呟いた。
これまでの生き方こそ肯定出来るものではないが、人は殺さないという主義を今でも貫き、義父への恩義に尽くす彼らは、真っ直ぐだと思った。
このまま真っ直ぐでいて欲しいものだと、この時彼は心から思った。
これが、王姉弟との、最初の出会いである。
‡‡‡
あれから、何度も不味い飯を食いに飯店に通っている自分がいる。
どうも、中毒性があるというのは本当らしい。
尤(もっと)も、それは料理でなく、店主の姉弟なのだけれども。
あの山賊に育てられながら快活で直向きな姿は、とても好ましい。
○○は、料理の腕こそ地を這うが、問われれば山賊時代の武勇伝を自慢げに話すなど、裏表の無いあっけらかんとした性格は、ついついこちらも心を許してしまう。一体何度、己が公孫賛に仕える武将であると、うっかり漏らしてしまいそうになったか。
客と店主の友好的な関係を崩したくなくて、趙雲は『子龍』と名を偽り、己の素性をひた隠す。
知られてしまったら○○に警戒され、出入りを拒絶されるのではないか、不安に思った。彼女の性格を考えるに、杞憂だろうが……もしも、が趙雲の口を閉じさせる。
「常連皆に言えることっすけど、子龍さんも、大概強いっすよねー」
店主姉弟ともすっかり打ち解けて、食事中に王玲と談笑することも増えた。
○○はほとんど厨房から出ないので、ままに出てきた時に挨拶を交わすのみだが、初めに来た時よりも気安くなったように思う。
今日も、厨房で調理する○○を眺めながら、王玲と話をする。
「三日に一回は必ずここで姉ちゃんの料理食ってくとか。初めて来た時、倒れたじゃん」
「ああ……あれは、だいぶ強烈だったからな。今では慣れてしまったよ」
「ここで働いていて、慣れの恐ろしさを痛感したの何度目だっけ」
王玲はぼやき、肩をすくめる。別の客に呼ばれて机を離れた。
王姉弟は愛想が良い。常連の中は皆料理はおまけで、この姉弟に会いに店を訪れている。蓉爺と呼ばれ慕われるあの翁もそうだし、自分も、そうだ。
厨房で汗を拭う○○を見やり、趙雲は小さく笑った。
直向きに頑張る人間を見守るのも、なかなか悪くない。
‡‡‡
親しい右北平の住民に、川魚を貰った。
趙雲はすぐに、あの反転へ向かった。
だいぶ毒されている。
○○に調理してもらおうと思い立ったのだ。
涼しい気候だとはいえ、生物だからと気も急いて、小走りに坂を上った。
店は、もう閉まっている頃だろうか……。
見えてきた飯店は、やはり閉まっているようだ。
落胆したが、ならばせめて、姉弟に食べてもらおうと扉を叩く。
ガタン、と中から音がして、ようやっと扉が開けられた。
現れた怪訝そうな○○の顔が、拍子抜けしたように弛む。
「ああ……子龍さんか。どうかした?」
「知り合いから川魚を貰ったんだ」
「川魚……それは嬉しいね。ありがとう」
礼にこれで料理を作ってやるよ。
○○は突然の訪問にも関わらず、快く趙雲を招き入れた。
店内奥の机に王玲が突っ伏している。どうやら寝ているらしい。
○○は彼の脇を通過して厨房に入った。
その時一瞬、彼女の影に隠れた何かを見たような気がした。が、敢えて見なかったふりをした。
調理道具の奏でる軽快な音と、火に焼かれ踊る食材の音が聞こえ始める。
店内に客は趙雲一人だ。気に入りの店を貸し切ったようで、非常に気分が良い。
○○の姿を見ている間に、王玲は起きた。顔を上げ、寝惚け眼で趙雲を捉えると、暫し間を置いてから大袈裟に驚いた。
「し、子龍さんっ? え、さっきまで弁柁(べんだ)の奴が来てたんじゃ――――」
「いつまで寝惚けてるつもりだよ、玲」
呆れた様子で○○が言う。
王玲はポカンとした。店内をゆっくりと見渡し、顎を落とした。
「あー……。うん、分かった。今までがっつり寝てたのが分かった」
「ああ、涎」
「うっそ!?」
「本当」
口の端を拭い、王玲は大急ぎで厨房に駆け込む。
埃が立つと○○があの大音声で怒鳴りつけた。
○○は舌打ちし調理に戻る。
料理が完成した頃、王玲は戻ってきた。
「ったく……起こしてくれたって良いじゃないっすか?」
「すまない。日頃から疲れているだろうと思ってな。ところで、弁柁というのは? 常連か?」
何気無く問うたつもりだった。
けれども王玲は気まずそうに視線を逸らし、言いにくそうに唇を引き結ぶ。
趙雲の問いに答えたのは、○○であった。
「昔の仲間さ。新しい頭になったから、一応、その挨拶にね」
もうあたしらは関係無いのにさ。
遠い目をしつつ、腕を振るう。
姉を何か言いたげに見た王玲は、不意にぎょっとして厨房に駆け込んだ。
「ばっか!! 姉ちゃん手元! 手元!」
「え? え――――だぁぁあ!?」
「どうした!?」
趙雲は厨房に飛び込んだ。
王玲が掴んだ○○の手には赤い筋が親指の付け根から手首にまで至っていた。まだ、肘に向かって伝い落ちている。
趙雲は慌てて己の袖を引き裂き傷口に押し当てた。
○○がぎょっと腕を引こうとしたのを王玲が止める。
その間に、血を拭い傷の様子を確認する。
何がどうしてそうなったのか。
親指の付け根の側面の肉が綺麗に削がれている。包丁で誤って斬り落としてしまったようだが、包丁を扱っていてこんな傷を作るなんて……素人でも難しいのではないだろうか。
それに、○○本人に痛がる様子が全く見られないのだ。
まるで、痛みを感じていないかのように――――。
「ああもう! 姉ちゃん、気を漫(そぞ)ろにしてるからー! 痛み感じないんだから人より気を付けろって言ってるだろ!? オレが代わってやっぞ!?」
「え……」
「十日振りだろ! それに、大袈裟な怪我でもないしさ」
趙雲は辟易した様子の○○を見下ろし、王玲の言葉を繰り返した。
「○○……お前は痛みを感じないのか」
「そうなんすよ。おまけに味覚も無いから料理にはま全っっ然向いてないってのにこの人やるって聞かないもんで……」
「……」
「あ、これ蓉爺とか、親しい常連さんは知ってるんで。別に隠してることじゃないんすよ」
あの殺人料理を頻繁に食べれる程の器の人間だ、○○の欠点を知ったとて何の非難もあるまい。むしろ、納得し同情を寄せたのではなかろうか。
特にあの翁などはそうだろう。
○○は肩をすくめ、また調理に戻ろうと背を向けた。
それを王玲は慌てふためいて止めた。
「ああ、こらこら姉ちゃん! 料理はオレがやるって! さすがにそんな傷で作業させられねえよ」
「えー……」
「『えー』じゃねえってば! 子龍さん、この人お願いしますよ」
○○の背中を押し、趙雲に強引に押し付ける。
趙雲もそれを拒まず、己の座っていた場所の椅子の隣に座らせた。
○○も観念し、神妙に腰を下ろした。
「無痛ってのは、どうもいけない。気付いたら大事な料理が真っ赤になってるってのもざらでさ」
「それでも、この飯店を?」
○○は頬杖を突き、自嘲するように口角を歪めた。
「味が分からない温度も感触も分からないで、普通は料理人は勤まらないよな」
「いや、責める意図は無かった。ただ、王玲が料理を、お前が接客を担っても良かったのではないか。それなのに何故、と思ってな」
「さあ、何でだろうね」
彼女は、そらとぼけた。
その理由は言えぬのだ。
ならばそれ以上追及すまいと趙雲は話題を変えた。
「しかし、凄い。そんなに不自由しておきながら、それでも料理人として飯店を営むなど……苦労もあっただろうに」
「今でも苦労してるよ。元々料理なんて生まれてこのかた一度もしたことが無いもの」
○○は屈託無く笑い、あっけらかんと言う。
「包丁みたいな小さい刃物には全っ然慣れなくてさー……あたしも玲も頭を使うのも苦手なもんで、金勘定もろくすっぽ出来やしない。赤字がどう赤字なのか分からない。下手すりゃ赤字だって気付きもはしない体たらくさ。あれこれ四苦八苦してはどうにもならずに苛々してばっかだよ。……でも、」
○○は遠き日を思い出すように窓を見やり、焦点の定まらぬ目を細めて微笑んだ。
山賊にいた頃、頭の役に立って喜んでもらえた時と同じくらい、楽しくてねえ。
小さな声で、彼女は言う。
「だからだろうね。慣れないことに焦れったさを覚えても、料理人の座は弟にも絶対に譲れない」
また、屈託の無い笑顔を趙雲に向けた。
趙雲は思わず目を細めた。
彼女の笑みは、邪気が無かった。
○○はそれから、他愛ない世間話に話を変えた。彼女の話題は王玲が料理を持ってくるまで途切れず次から次へと変わっていった。
普段厨房から出ることの少ない○○と、こんなにも長く話したことなど、初めてではないか。
それが、趙雲には新鮮で、とても嬉しかった。
余談であるが、香り良い王玲の料理は、その香りを全く裏切らぬものであったことを、敢えてここに記しておく。
‡‡‡
○○を右北平の街中で見かけた。
見知らぬ男と並んで歩いていた。
つい気になってしまって声をかけようとした趙雲はしかし、二人の空気の異様さに動きを止めた。
二人共、後ろ姿だけでいやに殺気立っているのである。
穏やかでない。
趙雲は静かに彼らの後をつけた。
○○は男を睨み上げ、ままに背を向ける。
だがそれを男は忌々しそうに腰に手を回し引き寄せる。
よしや、喧嘩中の恋人だと言われても、とてもそう見えない。お互いがお互いを殺そうと機を見計らいながら並び歩いているとしか思えなかった。
まさか、山賊繋がりか?
よもや姉弟を山賊に戻そうとしているのでは……。
それは、困る。
自分だけではない。
彼女らの飯店を訪れる色んな人間が大いに困る。
街を出た直後、趙雲は○○を呼び止めた。
「○○。買い物か?」
すると、○○は一変、にこやかに趙雲を振り返った。
「ん? ああ……子龍さんか。いや、そのつもりだったんだけどさ、こいつに出会っちまって」
親指でぞんざいに男を示す。
彼が舌打ちして口を開きかけたのに先んじて、
「こいつ、仲間連れて公孫賛んとこに盗みに入るつもりでさー、あたしらに協力しろってしつこいの何の」
男は絶句した。
「お前……っ! 何バラして――――」
「これがあたしら姉弟の答えだ。あの人の守ってきた形を保っていないあんたらとは、もう縁を切ってる。あたしらが、あんたらに関わることは無いよ」
○○は片手を振って趙雲に歩み寄る。
「ほらほら、あんた公孫賛んとこの武将さんなんだろ、さっさと取っ捕まえちゃってよ、《趙雲》さん」
趙雲はぎょっとした。
「知っていたのか……!?」
「蓉爺があんたが武将だって感付いててね。裏が無いか調べさせてもらったよ。ま、杞憂だった訳だけど」
「……では、偽名だったのも」
「バッレバレ」
「……」
にしし、彼女は悪戯が成功した子供のように無邪気に笑う。
趙雲は苦笑を浮かべ、片眉を上げた。少し、肩が軽くなった。
○○を背に庇い、男を見据える。
「さて……そういうことだが」
「……っ! この裏切り者っ」
「裏切ったのは誰だ。頭が死んですぐに、頭の意に背きやがって」
あんたは昔から大嫌いだったんだよ。
吐き捨て、○○は舌を出す。
「あたしをめとったからって、賊を去った奴らは戻らないよ。むしろ反感を買うだけさ。あたしが好きで嫁いだんじゃないって、皆分かるだろうからね。あんたの賊は、もう終わりだ。……諦めな、弁柁」
「……っ、くそ!! 混血のくせに!」
……混血?
趙雲は軽く目を瞠(みは)った。
振り返ると○○は笑顔のままだ。堂々として、否定も肯定もしない。
揺さぶりをかけたかったのだろうか、大した効果も無い。
弁柁は、憎らしげにこちらを睨め付け、身を翻した。逃げた。山賊なだけあって、非常に足が速い。
追いかけようとすると、○○に腕を掴まれた。
「追わなくて良いよ。これだけで十分」
「しかし……」
「あいつの態度で良く分かった。もうあいつらは駄目だ。自然消滅するか、討伐されちまうだろうよ。あたしらもこれで、何の痼(しこり)も無く店をやっていけるってもんだ」
大きく伸びをして、○○はきびすを返した。
弁柁の所為で中断させられた買い物に戻るそうだ。
その前に、趙雲は問いかけた。
「混血とは、まさかお前達は猫族と人間の?」
○○は足を止め、やや驚いた風情で趙雲を見上げた。
「へえ、十三支呼びしない人間とか、蓉爺以来久し振りー」
心底感心した彼女は、さらりとこめかみにかかる横髪を退け、本来人間の耳殻がある場所を晒した。
……無い。
「あたしも玲も、昔自分で切り落として頭にめっちゃ怖い雷喰らったよ」
それが、彼女の答えだ。
趙雲は顎を落とした。
だが――――決して嫌な感じはしない。
元々猫族に対して偏見を全く持っていなかったことも作用しているだろうが、きっとそれを抱いていたとしても、俺はこの姉弟に嫌な感情は持たない。
「じゃ、子龍さん。今度は店で」
「あ……」
快活な笑みを浮かべ雑踏に混ざっていく○○を見送っていた趙雲は、ふと弾かれたように足を踏み出し小走りに追いかけた。
「○○、俺も手伝おう。荷物持ちがいた方が楽だろう?」
「あ、マジで? ありがとう子龍さん。助かるよー。いつも荷物持たせる玲の奴昨日川に落っこちて風邪っ引きでさ」
まああたし一人でも十分なんだけど。
おどけて言う○○に確かにそうだと頷き、「しかし、」と。
「しかし、○○はこういう時に楽をして丁度良い」
「玲にも言われたよ。それ」
子龍さんにも言われるとはね。
○○は歩き出す。
趙雲も彼女の隣に並んだ。
こちらに気を遣っているのだろうが、素性を知られた今、偽名で呼ばれ続けるのもむず痒い。
趙雲は苦笑を浮かべ、
「○○。もう偽名で呼ばなくて良い」
「そうかい? じゃあ玲にもそう言っておくよ」
今後ともご贔屓に、趙雲さん。
初めて本名で呼ばれた瞬間、趙雲の胸の中で跳ね上がるものがあった。
それはほんの一瞬の異変で、どうして起きたのか分からない。
「趙雲さん?」
「!」
○○に顔を覗き込まれ、趙雲は驚きに一歩後退する。
不思議そうに首を傾げる彼女に、今度は全身の温度が上昇する。
「い、いや、何でもない。ただ、初めて本名で呼ばれたからだろう、少し、戸惑った」
「それじゃ、どっちが本名か分からないじゃないか。偽名を使っていたのはうちだけなんだろ?」
○○は呆れ、歩き出す。
華奢な後ろ姿を見送り、趙雲は胸を押さえた。
「……まさか……」
呟き、ほうと吐息を漏らす。
嫌ではないこの感覚は……きっと。
少し離れた場所で○○が趙雲を呼ぶ。
本名で呼ばれると、胸が膨らむようだ。
……嗚呼、そうか。
俺は、そうなのか。
趙雲は小さく笑い、○○を追いかけた――――……。
●○●
かなで様からのネタ提供『慣れない作業に四苦八苦する』でした。……あんまり、生かせてないですかね……(・・;)
ちなみに、飯店前店主は夢主達の実父です。二人は今でも全く知りません。永遠に知ることは無いでしょう。
そんな裏設定。
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