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 孫権様とお茶をしたあの日、曹操軍に大勝したと報せが城中を騒がせた。
 孫権様はそれを自ら私に教えに来てくれた。本当に、心から安堵しているのが伝わって、私もつられたのだろう、表情が僅かに和らいだ彼に、少しだけほっとした。

 これで、ようやっと婚儀を行える。
 そうなると、軍の帰還を待ちながらも、準備に色んな人達が忙(せわ)しなく城を駆け回る。
 曹操を打ち負かした戦功と、呉の主の祝言、二つの祝いを重ね盛大に騒ぎたいのだと、尚香が言っていた。

 でも、当の私は今になって尻込みしている。
 孫権様との結婚がいよいよ迫ってきて、怖じ気付いているのだ。私は、身代わりだから。

 油断ならない緊張から解放された孫権様は、私と毎日お茶をして過ごすようになった。
 彼が妻になる女性に誠実に向き合おうとすればする程、私は罪悪感が強まっていく。
 加えて、どうしてか胸の中に冷たい風が通るような、寂しい気持ちになるのだ。それは最近感じるようになったもので、どういう感情なのか、さっぱりだ。

 それをはっきりと分かりたくないと思うのも、よく分からない。私がその中身を知ることで、何か、悪いことが起きそうな気がするのだ。

 けど――――よく分からない感情に困らされる毎日に、唐突に終わりが告げられた。

 私に終わりを告げたのは、彼女自身だった。
 深夜、女官の格好をしているのに派手な化粧をして高そうな装飾品を身に着けて、私の――――いいえ、孫権様の妻の部屋に入ってきた。


「ね、姉さん……」

「久し振りね、○○。……って、何よその顔。ろくに化粧もしていないじゃない」


 姉は、私を見るなり嫌そうに顔を歪めた。


「あなたね、出来損なっても私の代わりなんだから、私と同じようになさいよ。これじゃあ孫権様にバレてしまうでしょう」

「それよりも姉さん……まさかこんな時間に、たった一人で来たの? 危ないわ」

「大丈夫よ。街の外で待機させているわ。明日になったら、お母様が回復なされたからとこちらに来る手筈になっているわ。あなたは街の外で明日の昼まで待って、帰る車に忍び込んで家に帰りなさい。良いわね。絶対に見つかっては駄目よ」

「……」


 すぐには返事が出来なかった。
 だけど私は姉に逆らえない。やおら頷き、姉と衣装を交換してすごすごと部屋を出た。
 それからは物影に隠れていた家の使用人に導かれ、城の裏手に停められた車へと連れてこられた。
 一瞬ヒヤリとしたけれど、にやにや笑う兵士に沢山のお金を手渡しているのを見て、納得した。

 私は使用人の案内で車の横を通過し、しんと静まり返った柴桑を急ぎ、教えられるままに何処かの林の中に身を潜めた。

 真っ暗な闇の中で息を殺して夜明けを待つ私は、全身が冷たくて、胸が重たくて苦しくて堪らなかった。
 これで私はお役御免。後はバレないことを願い過ごすだけだ。
 
 この感覚は、きっと不安だから。
 バレてしまったら、私の家は大変なことになる。
 北を制した曹操を撃退した呉の君主へ、姉が我が儘で身代わりに双子の妹を嫁がせたとなれば……当然父は呉から責められる。孫権様が曹操を敗った今、他の名士達の間で笑い者にされるかもしれない。

 姉も、きっと離縁されて帰されるだろう。

 私の案内兼監視役の使用人から、姉がやはり一度恋人と駆け落ちし、その数日後に飽きて嫌になって一人けろりと戻ってきたと予想通りの行動を聞いた。
 恋人は道途で一方的に捨て去り、以後どうなったかは分からないという、我が儘な姉らしい無責任な仕打ちだ。その恋人には、心から同情する。

 あんな人が、人の良い孫権様や尚香の身内になると思うと、少しだけ――――ほんの少しだけ、憎らしく思う。
 私だって、身代わりとして姉のふりをしていたのだかられっきとした共犯だのに、だ。

 解放感も安堵も無い苦しい夜が明けるまでに、何度溜息をついたか分からない。
 朝日が顔を出したのを見計らって、私は車が通ると言う道に案内された。

 そして、車を待つ――――。


「……申し訳ありません」

「え? ごめんなさい、今何か言っ――――」


 使用人を振り返ったその一瞬。
 視界に、銀色の線が斜めに走った。

 私は声を上げて咄嗟に腕を振った。痛い!
 銀は私の片腕をすうっと静かに、滑らかに裂いた。押さえるとぱっくりと割れ、止めど無く赤い液体を溢れさせる自分の腕にぞっとした。

 斬られた。
 斬られた。

 私が、さっきまで私を案内していた使用人に。
 あの細い短剣で……。

 私は悲鳴を上げた。


「あ、あなた、何故……!?」

「申し訳ありません! 旦那様のご命令なのです。どうせ、あなた様には秀鈴様のふりなど無理であろうと。であれば、その存在を消してあなた様の存在など最初から無かったものとしまえば良いと……!」


 鈍器で殴られたような衝撃。
 その衝撃に耐えられずに私はその場に座り込んでしまった。
 逃げなければと心は叫ぶのに、身体は微動だにしなかった。

 私は、がくがく震えながら使用人を見上げるしか無かった。

 使用人は申し訳無さそうにしながら、私に近付き、堅く目を瞑って刃を振り上げた。

 殺される!
 私は痛みと熱を放つ腕を抱き締めた。
 でも目は振り下ろされる短剣を凝視し、離れない。瞼が閉じれない。

 使用人の動きは異様なくらいにゆっくりだった。
 だけどその短剣は確実に私の頭へ突き刺さるだろう。

 私は最初から要らなかった。
 最初から姉の身代わりは無理だと見限られていた。
 じゃあ、私は何の為に生まれてきたんだろうか。

 嗚呼……嗚呼。

 そんな疑問、今更抱いたって答えは出せないじゃないか。

 どうせ、ここで終わるのだから。

 そこでようやく、私の瞼は降りた。


――――だけど。


「ぎゃあっ!」

「っ!?」


 使用人の短い悲鳴に私は目を開いた。

 唖然。

 使用人の手に短剣は無く、手の甲を別の短剣が貫いている。
 それは一体誰の短剣?
 声も出せず固まっていると、側に誰かが屈んだ。


「アンタ、大丈夫か!」

「……っ、あ……!」


 全身が一気に冷めた。
 私の背中に手を置いて焦った顔で見下ろしてくる青年の頭には猫の耳。
 周瑜殿、だ――――。

 周瑜殿は私に気付いて瞠目した。


「アンタは……!?」

「ああ……っ」


 私は怪我をしていることも忘れて彼を突き飛ばした。
 よろめいた隙に立ち上がり逃げ出す。

 けれどすぐに足がもつれて転倒した。

 痛みに顔を歪めている暇すら惜しくすぐに起き上がる。
 逃げなければ、そう強く思う私はしかしその直後に周瑜殿に捕まってしまった。もがくけど、男性の力でらをはびくともしない。


「い、嫌……っ、放して……」

「放してって……おいおい、腕怪我してるじゃないか。何でアンタがここにいて、襲われて、オレから逃げようとしてんだよ。孫権はどうした? 城で何かあったのか?」


 私は首を左右に振る。また暴れて逃れようとする。
 周瑜殿は私を放そうとしてくれなかった。怪我の手当てをさせろと、怒鳴りもされた。

 私はそれどころじゃなかった。最初から私を見放していた親から命を受けた使用人に殺されかけた衝撃で、精神は痛手を受け正常ではない。これは今すぐには平静を取り戻せないと、不思議なことに頭の隅で他人のように分かっていた。

 錯乱状態に近い私に、周瑜殿は舌を打った。


「……仕方がない。ごめんな、秀鈴」


 姉の名で呼ばれた刹那、うなじに重い衝撃が落とされた。




‡‡‡




「……さて、どういうことか説明してもらうぜ。本物の秀鈴殿?」


 目の前の女は忌々しげに周瑜を睨んだ。「十三支が……」嫌悪を露わにするこの女、本物の秀鈴だと言う。

 当然のように偽の秀鈴に宛がわれた部屋で寛(くつろ)いでいた彼女は、周瑜達が偽の秀鈴を運んで飛び込んできた時、大層驚いた。一斉に騒ぎ出した彼女らを捕らえる騒動まで起こり、室内は一時騒然とした。
 その後、蘇双が放った短剣を掌に受けたあの使用人が、関羽達に手当てを受けながら神妙に一連の事実を話した。彼自身、従いたくなかったのだろう、止めたことを感謝していた。

 彼と、本物の秀鈴に話を聞き、今まで柴桑にいたのは自分ではなく双子の妹だったことが発覚。ただの身代わり以外に何の役にも立たない価値無き娘だと、秀鈴は言った。
 本来は姉が自分の妻になる筈だったのだと聞かされた孫権は、眉間に深い皺を刻んだ。

 婚姻を軽んじられたことはどうでも良い。
 ただ、姉の口から妹を役立たずの身代わり、価値が無いと蔑まれたことが、腹立たしかった。
 秀鈴と思って真摯に向き合ってきた妹のことを、まだ良く知らない。

 けれども彼女の口から飛び出したその悪口が、不愉快だった。


「……どうも、アンタらの親は、この婚姻なんざどうでも良いらしいな」

「当然でしょう。孫家なんて、元は私の家よりも弱小の豪族じゃない。私みたいな江東でも広く知られた名士の家に生まれた極上の女が、格下の男になんて嫁いで良い訳無いわ。まあ、あの曹操を負かしたから夫としてはそれなりに認めてあげるけど? だから戻ってあげたんだし。むしろあなた達、私が認めてあげたことを喜ぶべきじゃなくって?」


 自分の立場をまるで分かっていない、堂々とした愚かしい物言いに、後ろの猫族らも呆れ果てている。
 彼女はさぞ、《大事に》育てられたのだろう。自分が世界の中心にいると信じて疑わない、自己中心的な性格は言葉だけでなく、その傲慢な態度からも見て取れる。双子の妹を身代わりに立てたことを知られても、自分に非があるとは全く認めていない。

 こんな女が嫁いで来るのだったら――――。


「――――あの妹のままでいてくれた方が、何百倍もましだな」


 この売女は質が悪すぎる。
 孫権の胸中を代弁するように、周瑜が吐息混じりに、しかし強い侮蔑を込めて言う。

 蔑みに秀鈴は即座に反応した。


「ちょっと、何を言っているのよ。下賤な種族が人間になんて口を利いているのかしら。はしたない」

「はしたないのはどっちだ。見ただけで分かる。アンタ、すでに男を知ってるだろう。名士の姫君が自分の双子の妹を身代わりに嫁がせといて余所の男とはしたなく享楽に耽っていたとなれば、アンタの親は良い笑い者だな」

「言葉に気を付けなさい、十三支。私はね、高貴な女など一生抱けない可哀想な男に温情をかけてやったのよ。私の処女を手に入れたことは、命潰えてもなお誉れとなるでしょうよ」

「……」


 彼女に、高貴な姫としてのまともな貞操観念は無いのか。自分のしたことが家の恥にならないと、どうして思える。
 周瑜はもう、かける悪口も無いようだ。

 勘違いもここまで甚(はなは)だしいと、興味深く思う。どうやったら、双子でこんなにも違いが出るのだろう。

 周瑜が女性に対して辛辣な言葉を放つのは非常に珍しいが、口をついて出てくるのも、仕方の無いことだ。

 たった一瞬生まれるのが遅かっただけの、共に同じ胎(はら)に宿った実の妹を自らの我が儘の為に利用し、それが親から命を受けた使用人に殺されかけたと知っても、彼女は命令通りに妹を殺せなかった使用人に対して苛立ちを露わにした。

 双子はめでたい存在。
 だのに、彼女も両親も、ただ要領が悪いだけの娘を駒か何かのように扱う。
 そして当然のように、自由勝手に妹に押し付けた孫権の妻の座に居座ろうとする。

 秀鈴の精神が、孫権には理解出来なかった。

 このような娘を、私は妻に迎えられるか?
 悪びれの無い秀鈴を見つめ、孫権は自問する。

 周瑜に視線を移すと、嫌そうな顔をしていた。

 ……私も、彼女には嫌悪を抱いている。
 だが、妹姫には、どうだろうか。


「……」

「孫権。どうする。望むなら、強く抗議して双子諸供送り返したって良い」

「いや、お帰りいただくのは秀鈴殿と、その供の者達だ」


 私は、このまま妹君を妻に迎えよう。
 己も驚くくらいの即答である。


「なん、ですって?」

「妹君が、気儘にすぎるあなたよりもいじらしく好ましいと思った。父君にもそのようにお伝え願いたい」


 孫権は顎を落とす秀鈴に背を向け、足早にその場を辞した。

 後ろで、女の怒鳴り声が聞こえたが、黙殺した。



‡‡‡




 私は、柴桑の城の中で目を覚ました。
 もう見慣れてしまった部屋の寝台に横たわり、尚香が側に立っていて――――私が目覚めたのに気付くなり泣き出してしまった。
 驚いて起き上がろうとした私は、腕の痛みに寝台に沈んだ。

 ああ、そうだった。
 私、姉と代わって、車が通るまで身を潜めていた時使用人に殺されかけたんだわ。
 それから、それから―――。


 そう、周瑜殿が私を助けて、くれた。


「……っ!」


 ぞっとした。
 あの後気絶させられて、この部屋に連れてこられたんだ。
 なら、もう私と姉のことは孫権様達に知られている。

 どう、しよう……!

 私、大変なことをしてしまったわ。
 今から孫権様に乞えばどうにかなるだろうか。
 ああ、そう、そうだわ。私の首を落としてそれで帳消しにならないかしら……!
 尚香が医者を呼びに行った隙に、私は、腕に負担をかけないように起き上がり、扉に近付いた。

 その時だ。


『尚香。私だ』

「ひ……っ」


 咄嗟に漏れた悲鳴は、口を押さえてももう彼に聞こえてしまっている。

 数歩後退すると、ゆっくりと扉が開かれた。


「!」

「あ……そ、孫権様……」

「……起き上がっては傷に障る」


 孫権様は語気を強めて言い、私の怪我をしていない方の手を取って寝台の方へ導いた。
 横になるよう言い聞かされて従うと、彼は寝台に腰かける。私には背を向けている。


「尚香が、あなたを看ていたのでは?」

「尚香さ……様なら、先程お医者様をお呼びに行かれました」

「そうか」

「あの、孫権様。姉は……」

「あなた達への対応はすでに決めた」


 私は、全身が冷えた。また起き上がろうとして怪我に負担をかけてしまう。
 孫権様が慌てて身体を支えて寝かせてくれた。

 その袖を掴み、私は懇願する。


「全ての責めは私が負います。私の首を落としても構いません。ですからどうか、姉と、家のことは……!」


 孫権様は、つかの間沈黙した。顔は、私には向けられない。


「……ならば、私の言葉を、真摯に受け入れてくれるか」

「はい。どのような罰でも、構いません」


 寝たままで言っても説得力は無いけれど、それでも。
 私は孫権様の後ろ姿を見つめ、すでに決まったと言う処遇を待った。

 孫権様は、なかなか言わない。何処か、躊躇っているように見える。でもどうして躊躇いが生じるのか分からない。
 まさか、まだ私達のことを気遣って……? いや、まさかそんなことは無い。私は、孫権様達を騙したのだから、気遣われる筈がない。

 そう、思っていた。

 思っていたのに―――。


「この件については、こちらにも非を否めぬ故に、強く責めはしない。だが、秀鈴殿には供の者達とお帰りいただく」

「え……」


 そこで、孫権様は立ち上がる。私に向き直り、静かに言った。


「あなたが許してくれるなら、私はこのまま、あなたを妻としてめとりたい。無論、家族との接触は禁じることになるが……」

「な――――」


 開いた口が塞がらない。
 何故、どうして、私をめとるなんて……?
 彼の意図が分からなくて、私は眦を下げた。
 これが、無礼を働いた私達に対する処罰……?
 そんな、まさか。

 世の中女の身分は低い。
 夫の悪口を影で言っただけで手酷く罰せられる正妻だっている。
 まして夫や、これから夫となる男以外の他者との姦通は大罪だ。女は貞淑であらねばならぬ。

 私は、異性との経験は無いけれど、姉が見過ごされるとは思えなかった。だから、自分の首を差し出す覚悟だったのに。


「どうして、そのような温いことを……」

「この数日接してきたあなたのことを、私は憎みきれない。それに、尚香はあなたに良く懐いている」

「え……た、たったそれだけの理由で?」

「不足だろうか」

「不足って……」


 言葉を失う。
 妻にすると言うことは、その女性に自分の子孫を生ませるということ。
 だから女性はきちんと精査し選ばなければならない。

 だのに。


「ど、どうして……」

「分からない」

「え?」

「あなたを憎みきれない理由も、秀鈴殿があなたを役立たずの身代わりと評した時に憤った理由も。自身のことながら、分かっていない」


 私をじっと見据え語る孫権様の顔は、いつものように感情が現れない。
 けれど瞳には、明らかに困惑の色が宿っていて。
 嗚呼、この人、本当に自分でも分かっていないんだわ。

 じっと見上げていると、彼は右手を持ち上げ、すぐに下げた。


「……あなたの名前を教えてくれないか」


 それは、その行動を誤魔化しているように思えた。
 私は、彼の手の動きを追っていた視線を孫権様に戻し、少し躊躇って今までほとんど誰にも呼ばれなかった名前を告げた。

 すると、孫権様は微笑んで私の名を呼ぶのだ。彼自身気が付いているか分からない微妙な嬉しげな響きに、私はますます困惑した。


「○○殿の処遇についてのみは、数日しか与えられないが、あなたが受け入れるかどうか考え、出した結論を尊重するつもりだ」

「……」


 孫権様は、背を向けた。
 そしてそのまま部屋を出ようと――――。


「っ!」

「あっ……!」


 無意識だった。
 無意識のうちに私は身を乗り出して孫権様の服を掴んでしまっていた。
 理由は、全く分からない。

 私はぱっと手を離し、彼に背を向けて横臥(おうが)した。胴の下敷きになって腕の怪我に負担がかからないよう、横たわりながら壁に手を差し出すみたいな格好になってしまった。

 孫権様は、驚かれていた。


「○○殿?」

「……っ」


 呼ばれても絶対に振り返らない。
 暫くして、彼は静かに寝台に腰かけた。衣擦れの音と、ぎしりと軋み微かにたわむ感触に私は息を詰めた。
 勘違いをされたんじゃないか、でも私にも理由が分からないんだったら勘違いを正しようが無い。
 ばくばく鼓動の激しい胸を押さえ、私はぎゅっと目を伏せた。

 そんな私の心中など知らない孫権様は、


「○○殿が眠るまで、ここにいよう」


 私は頭を抱えたくなった。
 馬鹿な人、私に温情をかけ続ける孫権様に、そう心の中で呟いた。

 お人好し。この人達は本当にお人好しだわ。
 きっといつか後悔する。後悔して、私をまた処罰する。
 そうに決まってるわ。
 自分に、強く言い聞かせる。

 けれども――――自分の名を彼が口にしてくれるのが、擽(くすぐ)ったくて嬉しくもあった。
 そんなことは、口が裂けても誰にも言えない。

 孫権様は、尚香が医者を連れてくるまで、ずっと私の寝台に腰かけていた。
 一言も話さず、ただ、側にいるだけだった。

 何処まで優しい人なの、この人は。
 私はその嫌ではない沈黙の中、どうしてか泣きたくなった。

 すると、孫権様は無言で私の頭を撫でるのだ。
 その感触に胸が震えた。

 ……願わくは、また私の名前を呼んで欲しいと思うのは、どうしてだろう――――……。



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