※設定上、夢主の名前はほとんど出てきません。



 私は、昔から『使い勝手の悪い身代わり』だった。
 双子として生まれたのに、姉は私よりも優れていた。何でも上手くこなすことが出来た。

 私は、何だって下手くそで失敗ばかりで、取り柄が無い。
 私の唯一の長所と言えば、姉と瓜二つの綺麗な顔だけ。でもお化粧は苦手だから、いつも素の顔だ。つまりは姉も、化粧しなくても十分綺麗だけど、化粧をすればもっと綺麗になる。私も多分、そう。

 顔が似ているだけの身代わりなんて、意味が無い。
 だから、私の扱いはあべこべだった。

 体型を維持する為に姉と同じ食べ物を食べるけれど、部屋の中は粗末なものだ。調度品はその辺の家から安く仕入れたから、全てが古びて使いにくい。
 姉のようにきらびやかな装飾品や、手触りの良い美しい衣も、まとうことは許されない。

 そんな私が、生まれて初めてそんな豪奢な物をまとったのは、本当に姉の身代わりとしてだった。
 先方に正体が知られぬように入念に着飾られ、仕種も癖も嫌になるくらい教え込まれた。
 私はいない。
 私でいてはいけない。
 ここに、私の居場所は無いのだ。


『私、あの人に嫁ぐのは嫌だからあなたが私の代わりに嫁ぎなさい』


 否も応も無い。私に拒否権は最初から与えられていない。
 私は、意思を訊ねられる程の存在でないから。
 ……私だって家族、の筈なのにね。

 姉の嫁ぎ先は呉の孫権様。
 父が勝手に決めてきた縁談で、姉は最初から乗り気でなかった。
 姉にはすでに将来を誓い合った殿方がいる。勿論両親には秘密。はしたなくも、何度も身体を重ねた仲だと言う。こんなこと、両親に知られたら大騒ぎだ。結局は許されるのだろうけれど、二人は二度と会うことは出来ない。
 もしかすると、私が代わりに孫権様に嫁いだ後、二人は悠々駆け落ちするのかもしれない。

 ……でもきっと、すぐに帰ってくるに決まっているわ。あの人は贅沢に慣れきってしまってるから、不自由な生活に堪えられる訳がない。将来を誓い合ったと言ったって、暮らしやすい環境に戻りたくなれば、男を捨てて私とまた入れ替わるに違い無い。
 だから私はそれまで姉のふりをしていれば良いの。

 私は、姉の身代わり。出来損ないの身代わり。出来損ないなりに、身代わりを勤めなければならない。私はそれだけの存在なのだから。

 半ば投げ遣りな気分で私は偽りの花嫁として孫権様に嫁ぐ。勿論供は限られた人数しか連れていない。

 孫権様が現在の拠点にしていると言う柴桑は、色んな物があった。
 貿易が盛んな町なればこその雑多な彩りに満ちた市場には色んな人間が行き交い、密集し、車の中から見ているだけでも息苦しさや熱気を感じた。
 でもそれが新鮮に思えて、私は楽しかった。少しで良いから見て回ってみたい。心からそう思った。駄目だけど。

 柴桑城の城門には、文官や武官、武将達が粛々とした佇まいで列を成していた。
 江東では非常に名の知れた名士である父の娘をめとることで支配を安定させたいと、呉の思惑が見て取れるようだった。
 孫権様の兄孫策様が呉の四姓に属する陸康様と彼の一族の大半を殺めた為に、江東では孫家に対して反感が強まったままだ。
 それを、何とか、少しでも緩和させたいのだろう。

 父もまた、そもそもは弱小豪族に過ぎなかった孫家に最愛の娘を嫁がせるなんて気が進まなかった。
 けれども、孫策様と違い名士との関係を重んじた彼らの亡き父君孫堅様の代からお仕えしている武将と親しくしている縁と、後々の戦乱の変化を考え、ご決断なされたようだ。
 それでも、私が姉の身代わりになったことに、心から安心していた。私なら、別に構わないのだった。

 私は車から顔を出さず、供と呉の臣下との会話を聞いているだけ。
 それによると、孫権様は今故あって都督と共に留守にしているらしい。
 私は一瞬、羨ましいと思った。

 私は自分の意思で外を歩けたことが一度も無かったから。

 私は結婚相手の顔も知らないまま、城の奥への立派な部屋へと案内(あない)された。
 私が部屋に落ち着いた途端に帰った供を不審に思われたけれど、そこは父に言われた通り、母が臥せっていて、看病するにも、人手が足りないのだと、言っておいた。信用されたかどうか、怪しいところだ。

 仮に私が身代わりだと知られたとして、私は離縁されるだけでなく家族からも見限られて切り捨てられそうだ。ただでさえ役立たずで何の取り柄も無い私が、家族に不名誉を与えて私自身の価値を落としたらもう救いようが無い。

 でもいっそそうなった方が、楽かな。
 何も考えなくて、感じなくて、心を動かさなくて良くなるのだ。

 それは、ある意味では解放なんだろうって、思う。
 私自身に、自発的にそんなことをする勇気なんてこれっぽっちもないのだけれど。
 それにきっと、いざそうなったら、今みたいに解放されたとは思えないし、全然喜べない。ただただ絶望するんだろうな……。

 ひとまずは、孫権様がお帰りになるまで、姉の身代わりだと悟られぬよう、部屋から出ずに息を殺さなければ。

 帰って来た後のこともちゃんと考えなければならない。
 思案に没頭する時は、一人の方が良い。考え込みすぎると、声は出さないけれど口が動いてしまう癖があるから。読唇術を心得た人間に悟られてはならない。
 それに、姉にこんな癖は無かった。

 私は綺麗な部屋を見渡し、重たい心を持て余して溜息を漏らした。



‡‡‡




 彼女が部屋を訪れたのは、その二日後だ。
 何とはなしに空を眺めていたところ、扉の向こうから控え目な声が聞こえてきた。


『あの……秀鈴様。入っても、よろしいでしょうか』

「え? ああ……どうぞ」


 「失礼致します」そう言って中に入ってきたのは、私より幾らか若い姫君。守ってあげたくなるような可憐で儚い雰囲気の子だった。
 椅子に腰かけていた私は立ち上がり、頭を下げた。

 すると姫君は慌てて、


「あ、あの……! どうかお顔を上げてください!」

「いえ、そう言う訳には……」

「将来義姉になられる方にそんな真似をさせてしまったとなると、お兄様に怒られてしまいますから」


 私は瞠目した。


「まあ……では、あなたは孫権様の……」

「はい。妹です。この度お兄様の奥となられる方がいらっしゃったと侍女に聞き、居ても立ってもいられず……本当は昨日、お訪ねしたかったのですが、まだお疲れかもしれないと注意されてしまって」


 縁談が持ち上がった時から、私、とても楽しみにしていたんです。
 心底嬉しそうに、私の両手を取る。

 私は罪悪感を覚えた。
 この姫君は純粋に兄の縁談を喜んでいる。
 でも、私は姉の我が儘で――――。
 私は何も言えずに曖昧に笑うしか出来なかった。
 でもきっと、私達が入れ替わったとしても彼女は気付かないだろう。

 ここではずっと、姉の外面を真似して、過ごすから。
 身代わりの私は、私があってはならないのだ。


「まだご祝言を迎えられてはおられませんが、あなたのことを、お義姉様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

「え……? あ……わ、私は、別に構わないけれど……」


 戸惑いながらも頷くと、妹姫は本当に可愛らしい笑みを浮かべた。
 私の胸中は複雑だ。

 姉だったらきっと、胸中で自分の方が綺麗だと嘲笑うことだろう。私から見ると、この姫君の方が可愛らしくて素敵に思える。

 ……そんなこと、姉に言ったらぶたれるだけじゃ済まないかな。

 彼女の名前は尚香と言った。
 尚香は私を義姉として、「お義姉様」はにかんで呼んだ。

 尚香は余程、兄が妻を迎えることが嬉しいらしかった。
 毎日のように部屋を訪れ、お茶や異国の菓子を振る舞っては世間話や、呉について語ってくれた。

 私は新鮮な話が聞けて嬉しかったけれど、反面居たたまれなさを感じた。
 このまま接していると、いつか私と姉が入れ替わった時、尚香にバレてしまうような気がした。そうならない為に、本音は彼女と過ごしたくはなかった。
 危機感が増していく毎日に、寒気を感じる。

 でも、雑じり気の無い好意を露わにしてくる尚香の訪問を体良く断る言い訳も思い付かなくて、彼女の好きにさせてしまっている。
 姉だったら平気で仮病を使うだろうけど、私は嘘が昔から苦手だった。どうしても、すぐにバレてしまう。

 そんな風に、来たばかりでもだもだしていると、とうとう孫権様が城に戻ったらしい。
 私が来たことは臣下の方々から帰城直後に聞かされたようだ。
 その足で、私の部屋を訪れた。

 私が扉を開けて迎えた孫権様は、尚香と良く似ていた。
 けれど、物静かと言うか……堅すぎる印象が強すぎて、緊張してしまう。


「秀鈴殿。到着された折の不在の無礼、まことに申し訳ない」


 律儀に頭を下げた孫権様に私は慌てた。


「あ、いいえ……こちらこそご不在とは知らず、ご迷惑を……」

「いや、あなたが近々お出でになると分かっていながら、私は周瑜と共に国を離れた。あなた方に非は無い」

「悪いが、こっちは今大事な問題を抱えててな」

「あの……だから、私は特に不快に思っておりませんから――――」


 ……え?
 孫権様の後ろに立つ殿方を見上げ、私は固まった。
 ……耳……猫の耳が、頭の上に生えているわ。
 え、でもこの人は人間、よね? 猫の耳が生えている以外は人間の男性とほぼ変わらないのだし。

 私が耳を凝視していることに気付いた彼は、苦笑を浮かべた。


「アンタ、もしかして猫族を見るのは初めて?」

「まおぞく……?」

「十三支って言った方が分かるか?」

「じゅうざ……」


 まおぞくや、じゅうざって何ですか?
 そう問いかけると、大層驚かれた。


「あの、知らなければいけないことなのでしょうか? でしたら、申し訳ありません。私、あまり部屋から出ないので、物を知らなくて……」

「いや……まさかオレ達のことを知らない人間がいるとは思わなくてな」


 視線を逸らされ私はひやりとした。
 ああ、これはマズイ。
 私は即座に頭を下げ謝罪した。


「あー、別に良いって。猫族のことを知らないならその方が良い」

「ですが……知らなければおかしいことなのでしょう?」

「おかしいって程のことじゃないさ。ただ珍しいってだけ。だから、気にするなって」


 それでも私がまた謝ると、困った顔をした。


「そんな悲しげな顔ばかりじゃ可愛い顔が台無しだろ?」

「えっ……かわ……え!?」

「……周瑜。秀鈴殿を困らせるな」

「このくらいは良いだろ。堅物のお前に嫁いでくれる子なんだぜ?」

「だからこそだ。この婚姻の意味を考えれば、彼女に無礼な振る舞いは出来ぬ」


 私を見、孫権様は断じる。
 私は恐縮し、頭を下げた。

 ああ、どうしよう。
 私は姉の身代わりなのに。
 本来この人達がこんな風に接するのは私ではなくて姉なのに。

 この人は、良くも悪くもとても真面目な性格のようだ。
 けれども『まおぞく』の周瑜という男の人は飄々としているけれど、何処か油断が出来ないように感じる。
 ……バレないように、しなければ。
 姉と入れ替わった時、不審がられないようにしなければ。

 私は、姉の身代わりなのだ。
 改めて、私は自分に言い聞かせた。



‡‡‡




 孫権様は、律儀な方だ。
 毎夜必ず私の部屋を訪れる。
 訪れると言っても挨拶くらいで会話らしいことは無い。

 今、呉は河北を制した曹操という雄の脅威に脅かされている。そう、周瑜殿に教えられた。
 だから私との結婚どころではない筈なのに、彼は寡黙ながら、私への配慮を忘れなかった。

 それが、私の中の危機感を増幅させる。
 真面目に妻になる娘に接してくれるのはとても良いことだ。姉が蔑ろにされることはない。だけど私にとっては厄介極まりない問題だった。
 ますます、姉との入れ替わりが難しくなってきた。

 どうしよう……。ここ数日、完璧に姉と同じく振る舞えていないことは私自身良く分かっている。
 このままじゃ――――このままじゃ襤褸(ぼろ)を出してしまいそうで恐ろしい。


『秀鈴殿。私だ。……少し良いだろうか』

「! あ……は、はい! 今開けます!」


 孫権様の声に、私は弾かれたように立ち上がった。

 珍しい。
 咄嗟に窓を確認して、私は軽く驚いた。
 まだ、昼だ。
 いつも夜に来る筈の孫権様のご訪問に少しだけ戸惑った。どうしたんだろうか。まさか……いや、そんな筈はない。まだ襤褸は出していない、と思う。

 何事かと恐々としていると、孫権様は私に謝罪して、椅子に座った。
 それから私を見つめ、何か言いたげに口を開いて、すぐに閉じてしまった。

 私の中で危機感は強まっていく。

 どうしよう……バレていて、帰れと言われてしまったら……。

 ざわりと身体が寒くなる。


「……」

「あの……孫権様?」

「……、……あなたに一つ、訊ねたいことがある」

「え……」


 孫権様は意を決したように私を見据え、口を開いた。


「……じきに、大きな戦が始まる。未熟な私も、あなたのことを気にかける余裕も無くなるだろう」

「そ、そう、なんですか……それは、大変ですね。私には、難しいことでお力にはなれないと思いますし……きっとお邪魔になってしまいます。私のことはどうか、お気になさらないで下さいまし」


 唐突な戦の話に私は辿々しく返す。
 遠回りして、いつ核心を突くか私の反応を見ているのだろうかと、猜疑(さいぎ)が浮かぶ。

 多分そんな人じゃない。そう思うのだけれど、やっぱり不安ばかりが先に出てしまう。
 私は孫権様に促され、彼の正面に座った。顔が見れない。俯いてしまう。

 孫権様はまた暫く沈黙して、


「……こちらに来てくれたあなたには、我が国のことでご迷惑をかけてしまい、申し訳なく思っている」

「あの、本当に、気にしていませんから……」


 そこで、口を噤む。
 孫権様が探るように私を見てきたからだ。うっと言葉に詰まり私は口を閉じた。


「……秀鈴殿は、それが普段のお姿か」

「え……っ」


 私は多分、見ても分かるくらいに顔色を変えてしまっただろう。
 ひきつる顔を上手く引き締められないし、笑い飛ばして誤魔化すことも出来ない。

 どうしよう。どうしよう……!
 バレてしまった? そんな……。
 本当に、私って何も上手くこなせない。

 私は胸の前で拳を握り、身体を固く強張らせた。
 呼吸が乱れた。
 何て言ってかわせば良いんだろう。ああ、駄目だわ。良い言葉が思い付かない。
 でも、それでも、何とか誤魔化さなければ……。


「あの……ど、どうして、そのようなことを……?」

「いや……私の気の所為ならば、それで構わない。私はあなたのことを良く知らない。それ故に、あなたの言動に、何かがずれているような違和感を感じてしまうのだろう」


 ……いけない。
 これは、いけない。
 私は無理矢理に笑みを浮かべ――――実際笑顔になっていたかは、私には分からない――――震える声を絞り出した。


「も、申し訳ありません……実は、私……あ、朝から何だか体調が優れなくて、休ませていただいてもよろしいでしょうか」


 孫権様は、瞠目して少し慌てた様子で立ち上がった。
 大股に私に歩み寄り、背中を支えて立たせた。顔を覗き込みながら寝台まで連れていってくれた。
 また孫権様に支えられながら横になると、謝罪と共に側に畳まれていた寝衣を広げて身体にかけてくれた。額に手を当てられた。


「……すまなかった」

「い、いえ……」

「後で医者を呼ぼう」

「そんな……ご迷惑をおかけする程ではありません。ただ一日休んでいれば、きっと大丈夫です。大事な戦の前に、申し訳ありません、孫権様」


 孫権様は静かに首を振り、そっと寝台を離れた。
 もう一度謝罪の言葉を口にして、退室した。

 その後ろ姿を見つめ、私は扉が閉まると同時に身体を丸めた。
 段々と痛くなる頭と胸。
 あってはならない事態になりつつあることに私はただただ困惑した。下手くそな私の咄嗟の嘘を見抜かれていないことを願うばかりだ。

 嗚呼……どうすれば良いのか、分からない――――。



‡‡‡




 あれから孫権様は一度も私の部屋を訪れなかった。
 代わりに、私の体調を心配した尚香が、毎日私の見舞いに来る。
 だけど、彼女も今、呉に迫る危機に気が気でない様子で、ままに呉のこれからを不安がっているような発言が出た。
 私は、さすがに余所者だから何も言えず、静かに聞き手に徹していた。

 彼女の話では、軍はすでに陸口に陣を張り、曹操軍も対岸の烏林に着陣しているそうだ。
 でも、北の軍勢なら水軍はいない。如何に屈強でも、船上の戦いでは実力を思うように発揮出来ない筈。荊州の兵を取り込んでいても、限られた時間での訓練はきっと不十分だろう。

 数で威圧してきているそうだが、それも満足に戦えないなら意味が無い。物量で士気を削げば容易いけれど、数が多ければ多い程、崩された体勢を建て直すのは難しい。指示も円滑に伝達されない。
 混乱も大きくなるのは必定だ。

 孫権様は周瑜殿の――――呉の水軍の力を心から信頼している。だから、自らは柴桑で華々しい戦果を持って帰還する時を待っているのだと、尚香は言った。
 それでも、やはり余裕は無いのだ。信じていても、心の何処かでは不安や疑心が、あるのかもしれない。

 そんな風に思って尚香の話に耳を傾けていた私は――――……。

 ……。

 ……。


 ……気付けば何故か、孫権様の部屋の前にいた。


 手には盆と、淹れたてのお茶……。
 私、いつ部屋を出て、いつこんなお茶を用意して、いつ孫権様のお部屋に来たのかしら。
 全く記憶が無い。

 自分でも不可解極まる行動に、ただただ困惑する。

 私、こんなことしようなんて思っていなかったわ。
 ただ……ただ、ほんのちょっとだけ、大変なのねって思っただけ。
 それがどうして――――。


「……か、」


 ……帰りましょう、今すぐに。
 そうよ。バレたかもしれない人に自分から接近するなんて馬鹿だわ。襤褸を出してしまうかもしれないのに。

 私はそうっと部屋から離れ、きびすを返した。

 ……が。


『そこに誰かいるのか』

「いいいません!」


 馬鹿な言葉を返したのは完全に反射だった。
 私は青ざめその場から一目散に逃げた。
 途中女官に見つかって呼び止められたけれど、逃げなければとそれだけで頭が一杯で、弁解する余裕は無かった。

 それがいけなかったと頭を抱えるのは、その翌日のことだ。

 悶々寝台の中で恐々とする私を、彼は訪れたのだ。
 その時の私は、きっとこの世の終わりを見たような顔をしていたに違いない。

 体調不良で回避しようかと思ったけれど、昨日あんなに走って逃げ帰った私だ。不自然に思われてしまうかもしれない。

 恐る恐る扉を開けると、いつも通り無表情の孫権様が。

 これはマズイ。私は顔をひきつらせた。
 彼の用は昨日の《あれ》だろう。
 私は肝を冷やしながら、努めて平静を装って笑顔を繕った。


「孫権様。戦のことを気にしておられたのでは……」

「……昨日、あなたが私の部屋へいらしたのは、私に何か用でもあった為ではないかと。あなたとすれ違った者が、茶を携えていたと」


 何か、あなたにとって不愉快なことでもあっただろうか。
 孫権様の言葉に私は視線を逸らしてしまう。
 孫権様と言い、尚香と言い、私の罪悪感に満ちみちた胸を容赦無く抉ってきてばかりだ。

 私は首を左右に振り、「ただ、道に迷ってしまっただけですから」と謝罪と共に扉を閉め、それ以上の気遣いを拒んだ。

 孫権様に対して失礼だったけど、姉は平気でこんなことは出来る筈。だから、問題は無い。
 私は姉の身代わりだ。

 なのに私は、一体何をやっているんだろう。

 私は頭を抱えて深い溜息をつかずにはいられなかった。


「……何処まで私は、無能なのよ……」


 今まで何一つ上手くやれた試しの無い自分自身に辟易(へきえき)する。



‡‡‡




 孫権様は次の日にも私の部屋を訪れた。
 どうしてか尚香に背中を押され、強引に部屋に押し込まれる形で。

 困惑する私に尚香は、孫権様の背中をぐいぐい押して座らせると、両手を腰に当ててこれ見よがしに嘆息した。


「聞いて下さい、お義姉様! お兄様ったらお義姉様が心から心配なくせに、何にもなさろうとしないんです!」

「え……はい?」


 憤って何を言うかと思えば、そんなこと。


「戦のことも気がかり、お義姉様のことも気がかりなら、まず身近な気がかりに相対するべきだと思うんです。お兄様、周瑜も、くれぐれも将来の妻と仲良くするようにと言っていたでしょう!」


 熱弁する尚香に孫権様はこめかみを押さえて溜息をついた。


「……尚香。秀鈴殿は、」

「体調が回復されたばかり、でしょう? でもお義姉様は病み上がりのお身体で、お兄様にお茶を持っていかれたのです。それないお兄様と来たら……!」

「……」


 ……尚香に、まるで違う解釈をされている。
 違うの、と否定しようと口を開いた瞬間、部屋に数人の女性達が入ってきた。尚香専属の侍女だ。

 皆、お茶とお菓子をてきぱきと並べると、そのまま足早に退室した。
――――尚香と共に。


「あ、あの、尚香さん……!?」

「ではお兄様、しっかりなさって下さいね」


 尚香は孫権様に両手を握って力んで見せ、扉を閉めた。

 沈黙が、気まずい。
 私は置かれたお茶を凝視しつつ身体を固くする。頭の中では『どうしよう』が沢山、沢山ぐるぐる回っている。


「秀鈴殿。妹が失礼した。勝手な勘違いもして、困らせた」

「い、いえ……勘違いされてしまうようなことを、私がしてしまったのですから……」


 顔を上げられない。
 失礼な態度だけれど、孫権様は気を悪くした様子も無い。基本的に寡黙な彼はまた黙り込み、お茶に手を伸ばした。
 こくりと、液体を嚥下(えんか)する音がいやに目立つ。

 緊張に心臓を絞め付けられるかのようだ。生きた心地がしない。

 このまま無言で、そのうち帰ると言い出してくれないかと密かに願っていると、不意に、


「……秀鈴殿」

「あ、は、はい」

「何か、望みがあれば言ってくれないか」

「望み?」


 思わず顔を上げると、孫権様は静かに頷かれた。


「私は、女性の機微(きび)に疎い。あなたのことを良く知らぬ故に、何をすればあなたが心地好く過ごせるのか……全く思い付かない」

「お気遣いなどなさらなくて構いません。孫権様にも尚香さんにも、良くしていただいています。私は、今のままで十分ですから、どうかそこまで悩まれないで下さいまし」


 姉だったら、ここぞとばかりにこんな服が欲しい、あんな装飾品が欲しいとつらつらと要望を並べるだろう。
 だけども、私は化粧や衣服のことにはとんと疎い。だからこれは、姉のようには出来ない。

 なるべく緊張が伝わらぬよう努めて穏やかに言うと、孫権様は私を見据え、また沈黙した。

 無口な方だから仕方の無いことなのは分かっている。
 でも私の顔を見て黙り込んでしまうのは止めて欲しい。とても気まずいし、本当は何もかも見透かされているのではないかと不安が首をもたげる。

 孫権様はお茶を置き、ようやっと口を開いた。


「何か、欲しい物は、」

「いいえ、今のところは、何も」

「行きたい所などは」

「……いいえ」


 一瞬間が開いてしまったのは、柴桑に来た時に見た市場の賑わいが丁度思い出されたからだった。一度だけで良いから行ってみたいな、なんて、今でもちょっとだけ思っていた。

 孫権様が反応したのに少しだけ焦ったけれど、幸い追求は無かった。

 代わりに、菓子を一つ取って私に差し出してきた。
 食べろということなんだろう。

 私は、それを一口頬張り目を丸くした。


「……美味しい」

「そうか……」


 孫権様は安堵した様子で目を伏せた。
 うっすら笑っていたように見えたのは、気の所為だろうか。
 まさか、彼が笑う人だとは思わなくて、私はつい孫権様の顔を凝視してしまった。


「……何か?」

「あ、い、いいえ……このお菓子、とても美味しいですね。上品な甘さはしつこくないですし、食感も不思議……」

「尚香が侍女に買わせた輸入品だ。秀鈴殿が気に入られたならばあれも喜ぶ」

「後で尚香さんにお礼を言わねばなりませんね」

「そうしてくれると、有り難い」


 ……あ、また笑った。
 今度ははっきりと分かるくらいの柔らかな微笑だ。
 見目が良い人だから、滅多に見れない――――私だけかもしれないけれど――――孫権様の微笑は、胸をつつかれるような……痛痒い感触を得た。

 知らぬうちに、また孫権様を凝視してしまったようだ。
 不思議そうな顔で名前を呼ばれ、はっとして俯き謝罪した。


「先程から、私の顔に何か付いているのだろうか」

「ち、違います。ただ、初めて笑われたなと」

「……そうか」


 孫権様は目を伏せ、何事か思案なさっているようだ。


「孫権様?」

「……そうだな。私には、愛想が無い」

「あ……そ、そう言う訳では、」

「あなたが素の姿でいられないのも、その所為かもしれない」


 どきり、と心臓が跳ね上がった。
 また、言われた。

 笑顔を取り繕ってそんなことはありませんと言うと、孫権様は「そうか」と沈黙した。

 それから口を開いたかと思えば、柴桑に集まる貿易品について話してくれた。

 私の態度については言及せず、ずっとそればかりだった。
 気を遣われているのだと分かっているから、私は新鮮な話に惹かれながらも落ち着かなかった。

 やっぱり、孫権様は気付いている。
 私が誰かのふりをしていることまでは分からないようだけれど、私らしく振る舞っていないことだけは察知されているようだ。

 嗚呼、どうしよう。
 考えたって、頭の悪い私に名案が浮かぶ筈もなかった。



‡‡‡




 孫権様とお茶をしたあの日、曹操軍に大勝したと報せが城中を騒がせた。
 孫権様はそれを自ら私に教えに来てくれた。本当に、心から安堵しているのが伝わって、私もつられたのだろう、表情が僅かに和らいだ彼に、少しだけほっとした。

 これで、ようやっと婚儀を行える。
 そうなると、軍の帰還を待ちながらも、準備に色んな人達が忙(せわ)しなく城を駆け回る。
 曹操を打ち負かした戦功と、呉の主の祝言、二つの祝いを重ね盛大に騒ぎたいのだと、尚香が言っていた。

 でも、当の私は今になって尻込みしている。
 孫権様との結婚がいよいよ迫ってきて、怖じ気付いているのだ。私は、身代わりだから。

 油断ならない緊張から解放された孫権様は、私と毎日お茶をして過ごすようになった。
 彼が妻になる女性に誠実に向き合おうとすればする程、私は罪悪感が強まっていく。
 加えて、どうしてか胸の中に冷たい風が通るような、寂しい気持ちになるのだ。それは最近感じるようになったもので、どういう感情なのか、さっぱりだ。

 それをはっきりと分かりたくないと思うのも、よく分からない。私がその中身を知ることで、何か、悪いことが起きそうな気がするのだ。

 けど――――よく分からない感情に困らされる毎日に、唐突に終わりが告げられた。

 私に終わりを告げたのは、彼女自身だった。
 深夜、女官の格好をしているのに派手な化粧をして高そうな装飾品を身に着けて、私の――――いいえ、孫権様の妻の部屋に入ってきた。


「ね、姉さん……」

「久し振りね、○○。……って、何よその顔。ろくに化粧もしていないじゃない」


 姉は、私を見るなり嫌そうに顔を歪めた。


「あなたね、出来損なっても私の代わりなんだから、私と同じようになさいよ。これじゃあ孫権様にバレてしまうでしょう」

「それよりも姉さん……まさかこんな時間に、たった一人で来たの? 危ないわ」

「大丈夫よ。街の外で待機させているわ。明日になったら、お母様が回復なされたからとこちらに来る手筈になっているわ。あなたは街の外で明日の昼まで待って、帰る車に忍び込んで家に帰りなさい。良いわね。絶対に見つかっては駄目よ」

「……」


 すぐには返事が出来なかった。
 だけど私は姉に逆らえない。やおら頷き、姉と衣装を交換してすごすごと部屋を出た。
 それからは物影に隠れていた家の使用人に導かれ、城の裏手に停められた車へと連れてこられた。
 一瞬ヒヤリとしたけれど、にやにや笑う兵士に沢山のお金を手渡しているのを見て、納得した。

 私は使用人の案内で車の横を通過し、しんと静まり返った柴桑を急ぎ、教えられるままに何処かの林の中に身を潜めた。

 真っ暗な闇の中で息を殺して夜明けを待つ私は、全身が冷たくて、胸が重たくて苦しくて堪らなかった。
 これで私はお役御免。後はバレないことを願い過ごすだけだ。
 
 この感覚は、きっと不安だから。
 バレてしまったら、私の家は大変なことになる。
 北を制した曹操を撃退した呉の君主へ、姉が我が儘で身代わりに双子の妹を嫁がせたとなれば……当然父は呉から責められる。孫権様が曹操を敗った今、他の名士達の間で笑い者にされるかもしれない。

 姉も、きっと離縁されて帰されるだろう。

 私の案内兼監視役の使用人から、姉がやはり一度恋人と駆け落ちし、その数日後に飽きて嫌になって一人けろりと戻ってきたと予想通りの行動を聞いた。
 恋人は道途で一方的に捨て去り、以後どうなったかは分からないという、我が儘な姉らしい無責任な仕打ちだ。その恋人には、心から同情する。

 あんな人が、人の良い孫権様や尚香の身内になると思うと、少しだけ――――ほんの少しだけ、憎らしく思う。
 私だって、身代わりとして姉のふりをしていたのだかられっきとした共犯だのに、だ。

 解放感も安堵も無い苦しい夜が明けるまでに、何度溜息をついたか分からない。
 朝日が顔を出したのを見計らって、私は車が通ると言う道に案内された。

 そして、車を待つ――――。


「……申し訳ありません」

「え? ごめんなさい、今何か言っ――――」


 使用人を振り返ったその一瞬。
 視界に、銀色の線が斜めに走った。

 私は声を上げて咄嗟に腕を振った。痛い!
 銀は私の片腕をすうっと静かに、滑らかに裂いた。押さえるとぱっくりと割れ、止めど無く赤い液体を溢れさせる自分の腕にぞっとした。

 斬られた。
 斬られた。

 私が、さっきまで私を案内していた使用人に。
 あの細い短剣で……。

 私は悲鳴を上げた。


「あ、あなた、何故……!?」

「申し訳ありません! 旦那様のご命令なのです。どうせ、あなた様には秀鈴様のふりなど無理であろうと。であれば、その存在を消してあなた様の存在など最初から無かったものとしまえば良いと……!」


 鈍器で殴られたような衝撃。
 その衝撃に耐えられずに私はその場に座り込んでしまった。
 逃げなければと心は叫ぶのに、身体は微動だにしなかった。

 私は、がくがく震えながら使用人を見上げるしか無かった。

 使用人は申し訳無さそうにしながら、私に近付き、堅く目を瞑って刃を振り上げた。

 殺される!
 私は痛みと熱を放つ腕を抱き締めた。
 でも目は振り下ろされる短剣を凝視し、離れない。瞼が閉じれない。

 使用人の動きは異様なくらいにゆっくりだった。
 だけどその短剣は確実に私の頭へ突き刺さるだろう。

 私は最初から要らなかった。
 最初から姉の身代わりは無理だと見限られていた。
 じゃあ、私は何の為に生まれてきたんだろうか。

 嗚呼……嗚呼。

 そんな疑問、今更抱いたって答えは出せないじゃないか。

 どうせ、ここで終わるのだから。

 そこでようやく、私の瞼は降りた。


――――だけど。


「ぎゃあっ!」

「っ!?」


 使用人の短い悲鳴に私は目を開いた。

 唖然。

 使用人の手に短剣は無く、手の甲を別の短剣が貫いている。
 それは一体誰の短剣?
 声も出せず固まっていると、側に誰かが屈んだ。


「アンタ、大丈夫か!」

「……っ、あ……!」


 全身が一気に冷めた。
 私の背中に手を置いて焦った顔で見下ろしてくる青年の頭には猫の耳。
 周瑜殿、だ――――。

 周瑜殿は私に気付いて瞠目した。


「アンタは……!?」

「ああ……っ」


 私は怪我をしていることも忘れて彼を突き飛ばした。
 よろめいた隙に立ち上がり逃げ出す。

 けれどすぐに足がもつれて転倒した。

 痛みに顔を歪めている暇すら惜しくすぐに起き上がる。
 逃げなければ、そう強く思う私はしかしその直後に周瑜殿に捕まってしまった。もがくけど、男性の力でらをはびくともしない。


「い、嫌……っ、放して……」

「放してって……おいおい、腕怪我してるじゃないか。何でアンタがここにいて、襲われて、オレから逃げようとしてんだよ。孫権はどうした? 城で何かあったのか?」


 私は首を左右に振る。また暴れて逃れようとする。
 周瑜殿は私を放そうとしてくれなかった。怪我の手当てをさせろと、怒鳴りもされた。

 私はそれどころじゃなかった。最初から私を見放していた親から命を受けた使用人に殺されかけた衝撃で、精神は痛手を受け正常ではない。これは今すぐには平静を取り戻せないと、不思議なことに頭の隅で他人のように分かっていた。

 錯乱状態に近い私に、周瑜殿は舌を打った。


「……仕方がない。ごめんな、秀鈴」


 姉の名で呼ばれた刹那、うなじに重い衝撃が落とされた。




‡‡‡




「……さて、どういうことか説明してもらうぜ。本物の秀鈴殿?」


 目の前の女は忌々しげに周瑜を睨んだ。「十三支が……」嫌悪を露わにするこの女、本物の秀鈴だと言う。

 当然のように偽の秀鈴に宛がわれた部屋で寛(くつろ)いでいた彼女は、周瑜達が偽の秀鈴を運んで飛び込んできた時、大層驚いた。一斉に騒ぎ出した彼女らを捕らえる騒動まで起こり、室内は一時騒然とした。
 その後、蘇双が放った短剣を掌に受けたあの使用人が、関羽達に手当てを受けながら神妙に一連の事実を話した。彼自身、従いたくなかったのだろう、止めたことを感謝していた。

 彼と、本物の秀鈴に話を聞き、今まで柴桑にいたのは自分ではなく双子の妹だったことが発覚。ただの身代わり以外に何の役にも立たない価値無き娘だと、秀鈴は言った。
 本来は姉が自分の妻になる筈だったのだと聞かされた孫権は、眉間に深い皺を刻んだ。

 婚姻を軽んじられたことはどうでも良い。
 ただ、姉の口から妹を役立たずの身代わり、価値が無いと蔑まれたことが、腹立たしかった。
 秀鈴と思って真摯に向き合ってきた妹のことを、まだ良く知らない。

 けれども彼女の口から飛び出したその悪口が、不愉快だった。


「……どうも、アンタらの親は、この婚姻なんざどうでも良いらしいな」

「当然でしょう。孫家なんて、元は私の家よりも弱小の豪族じゃない。私みたいな江東でも広く知られた名士の家に生まれた極上の女が、格下の男になんて嫁いで良い訳無いわ。まあ、あの曹操を負かしたから夫としてはそれなりに認めてあげるけど? だから戻ってあげたんだし。むしろあなた達、私が認めてあげたことを喜ぶべきじゃなくって?」


 自分の立場をまるで分かっていない、堂々とした愚かしい物言いに、後ろの猫族らも呆れ果てている。
 彼女はさぞ、《大事に》育てられたのだろう。自分が世界の中心にいると信じて疑わない、自己中心的な性格は言葉だけでなく、その傲慢な態度からも見て取れる。双子の妹を身代わりに立てたことを知られても、自分に非があるとは全く認めていない。

 こんな女が嫁いで来るのだったら――――。


「――――あの妹のままでいてくれた方が、何百倍もましだな」


 この売女は質が悪すぎる。
 孫権の胸中を代弁するように、周瑜が吐息混じりに、しかし強い侮蔑を込めて言う。

 蔑みに秀鈴は即座に反応した。


「ちょっと、何を言っているのよ。下賤な種族が人間になんて口を利いているのかしら。はしたない」

「はしたないのはどっちだ。見ただけで分かる。アンタ、すでに男を知ってるだろう。名士の姫君が自分の双子の妹を身代わりに嫁がせといて余所の男とはしたなく享楽に耽っていたとなれば、アンタの親は良い笑い者だな」

「言葉に気を付けなさい、十三支。私はね、高貴な女など一生抱けない可哀想な男に温情をかけてやったのよ。私の処女を手に入れたことは、命潰えてもなお誉れとなるでしょうよ」

「……」


 彼女に、高貴な姫としてのまともな貞操観念は無いのか。自分のしたことが家の恥にならないと、どうして思える。
 周瑜はもう、かける悪口も無いようだ。

 勘違いもここまで甚(はなは)だしいと、興味深く思う。どうやったら、双子でこんなにも違いが出るのだろう。

 周瑜が女性に対して辛辣な言葉を放つのは非常に珍しいが、口をついて出てくるのも、仕方の無いことだ。

 たった一瞬生まれるのが遅かっただけの、共に同じ胎(はら)に宿った実の妹を自らの我が儘の為に利用し、それが親から命を受けた使用人に殺されかけたと知っても、彼女は命令通りに妹を殺せなかった使用人に対して苛立ちを露わにした。

 双子はめでたい存在。
 だのに、彼女も両親も、ただ要領が悪いだけの娘を駒か何かのように扱う。
 そして当然のように、自由勝手に妹に押し付けた孫権の妻の座に居座ろうとする。

 秀鈴の精神が、孫権には理解出来なかった。

 このような娘を、私は妻に迎えられるか?
 悪びれの無い秀鈴を見つめ、孫権は自問する。

 周瑜に視線を移すと、嫌そうな顔をしていた。

 ……私も、彼女には嫌悪を抱いている。
 だが、妹姫には、どうだろうか。


「……」

「孫権。どうする。望むなら、強く抗議して双子諸供送り返したって良い」

「いや、お帰りいただくのは秀鈴殿と、その供の者達だ」


 私は、このまま妹君を妻に迎えよう。
 己も驚くくらいの即答である。


「なん、ですって?」

「妹君が、気儘にすぎるあなたよりもいじらしく好ましいと思った。父君にもそのようにお伝え願いたい」


 孫権は顎を落とす秀鈴に背を向け、足早にその場を辞した。

 後ろで、女の怒鳴り声が聞こえたが、黙殺した。



‡‡‡




 私は、柴桑の城の中で目を覚ました。
 もう見慣れてしまった部屋の寝台に横たわり、尚香が側に立っていて――――私が目覚めたのに気付くなり泣き出してしまった。
 驚いて起き上がろうとした私は、腕の痛みに寝台に沈んだ。

 ああ、そうだった。
 私、姉と代わって、車が通るまで身を潜めていた時使用人に殺されかけたんだわ。
 それから、それから―――。


 そう、周瑜殿が私を助けて、くれた。


「……っ!」


 ぞっとした。
 あの後気絶させられて、この部屋に連れてこられたんだ。
 なら、もう私と姉のことは孫権様達に知られている。

 どう、しよう……!

 私、大変なことをしてしまったわ。
 今から孫権様に乞えばどうにかなるだろうか。
 ああ、そう、そうだわ。私の首を落としてそれで帳消しにならないかしら……!
 尚香が医者を呼びに行った隙に、私は、腕に負担をかけないように起き上がり、扉に近付いた。

 その時だ。


『尚香。私だ』

「ひ……っ」


 咄嗟に漏れた悲鳴は、口を押さえてももう彼に聞こえてしまっている。

 数歩後退すると、ゆっくりと扉が開かれた。


「!」

「あ……そ、孫権様……」

「……起き上がっては傷に障る」


 孫権様は語気を強めて言い、私の怪我をしていない方の手を取って寝台の方へ導いた。
 横になるよう言い聞かされて従うと、彼は寝台に腰かける。私には背を向けている。


「尚香が、あなたを看ていたのでは?」

「尚香さ……様なら、先程お医者様をお呼びに行かれました」

「そうか」

「あの、孫権様。姉は……」

「あなた達への対応はすでに決めた」


 私は、全身が冷えた。また起き上がろうとして怪我に負担をかけてしまう。
 孫権様が慌てて身体を支えて寝かせてくれた。

 その袖を掴み、私は懇願する。


「全ての責めは私が負います。私の首を落としても構いません。ですからどうか、姉と、家のことは……!」


 孫権様は、つかの間沈黙した。顔は、私には向けられない。


「……ならば、私の言葉を、真摯に受け入れてくれるか」

「はい。どのような罰でも、構いません」


 寝たままで言っても説得力は無いけれど、それでも。
 私は孫権様の後ろ姿を見つめ、すでに決まったと言う処遇を待った。

 孫権様は、なかなか言わない。何処か、躊躇っているように見える。でもどうして躊躇いが生じるのか分からない。
 まさか、まだ私達のことを気遣って……? いや、まさかそんなことは無い。私は、孫権様達を騙したのだから、気遣われる筈がない。

 そう、思っていた。

 思っていたのに―――。


「この件については、こちらにも非を否めぬ故に、強く責めはしない。だが、秀鈴殿には供の者達とお帰りいただく」

「え……」


 そこで、孫権様は立ち上がる。私に向き直り、静かに言った。


「あなたが許してくれるなら、私はこのまま、あなたを妻としてめとりたい。無論、家族との接触は禁じることになるが……」

「な――――」


 開いた口が塞がらない。
 何故、どうして、私をめとるなんて……?
 彼の意図が分からなくて、私は眦を下げた。
 これが、無礼を働いた私達に対する処罰……?
 そんな、まさか。

 世の中女の身分は低い。
 夫の悪口を影で言っただけで手酷く罰せられる正妻だっている。
 まして夫や、これから夫となる男以外の他者との姦通は大罪だ。女は貞淑であらねばならぬ。

 私は、異性との経験は無いけれど、姉が見過ごされるとは思えなかった。だから、自分の首を差し出す覚悟だったのに。


「どうして、そのような温いことを……」

「この数日接してきたあなたのことを、私は憎みきれない。それに、尚香はあなたに良く懐いている」

「え……た、たったそれだけの理由で?」

「不足だろうか」

「不足って……」


 言葉を失う。
 妻にすると言うことは、その女性に自分の子孫を生ませるということ。
 だから女性はきちんと精査し選ばなければならない。

 だのに。


「ど、どうして……」

「分からない」

「え?」

「あなたを憎みきれない理由も、秀鈴殿があなたを役立たずの身代わりと評した時に憤った理由も。自身のことながら、分かっていない」


 私をじっと見据え語る孫権様の顔は、いつものように感情が現れない。
 けれど瞳には、明らかに困惑の色が宿っていて。
 嗚呼、この人、本当に自分でも分かっていないんだわ。

 じっと見上げていると、彼は右手を持ち上げ、すぐに下げた。


「……あなたの名前を教えてくれないか」


 それは、その行動を誤魔化しているように思えた。
 私は、彼の手の動きを追っていた視線を孫権様に戻し、少し躊躇って今までほとんど誰にも呼ばれなかった名前を告げた。

 すると、孫権様は微笑んで私の名を呼ぶのだ。彼自身気が付いているか分からない微妙な嬉しげな響きに、私はますます困惑した。


「○○殿の処遇についてのみは、数日しか与えられないが、あなたが受け入れるかどうか考え、出した結論を尊重するつもりだ」

「……」


 孫権様は、背を向けた。
 そしてそのまま部屋を出ようと――――。


「っ!」

「あっ……!」


 無意識だった。
 無意識のうちに私は身を乗り出して孫権様の服を掴んでしまっていた。
 理由は、全く分からない。

 私はぱっと手を離し、彼に背を向けて横臥(おうが)した。胴の下敷きになって腕の怪我に負担がかからないよう、横たわりながら壁に手を差し出すみたいな格好になってしまった。

 孫権様は、驚かれていた。


「○○殿?」

「……っ」


 呼ばれても絶対に振り返らない。
 暫くして、彼は静かに寝台に腰かけた。衣擦れの音と、ぎしりと軋み微かにたわむ感触に私は息を詰めた。
 勘違いをされたんじゃないか、でも私にも理由が分からないんだったら勘違いを正しようが無い。
 ばくばく鼓動の激しい胸を押さえ、私はぎゅっと目を伏せた。

 そんな私の心中など知らない孫権様は、


「○○殿が眠るまで、ここにいよう」


 私は頭を抱えたくなった。
 馬鹿な人、私に温情をかけ続ける孫権様に、そう心の中で呟いた。

 お人好し。この人達は本当にお人好しだわ。
 きっといつか後悔する。後悔して、私をまた処罰する。
 そうに決まってるわ。
 自分に、強く言い聞かせる。

 けれども――――自分の名を彼が口にしてくれるのが、擽(くすぐ)ったくて嬉しくもあった。
 そんなことは、口が裂けても誰にも言えない。

 孫権様は、尚香が医者を連れてくるまで、ずっと私の寝台に腰かけていた。
 一言も話さず、ただ、側にいるだけだった。

 何処まで優しい人なの、この人は。
 私はその嫌ではない沈黙の中、どうしてか泣きたくなった。

 すると、孫権様は無言で私の頭を撫でるのだ。
 その感触に胸が震えた。

 ……願わくは、また私の名前を呼んで欲しいと思うのは、どうしてだろう――――……。



.

- 5 -


[*前] | [次#]

ページ:5/88