関羽


※男主は天使と人間のハーフ。



 庇護している娘の気配が、世界から消えた。
 今、あの人と一緒にいると幸せだと笑っていた小さな小さな、■■の守護していた大事な一族の生き残りが、この世界から突如失せてしまった。
 ■■は即座にイーデンデルへ向かう。

 消える間際、迷悲(ミィベイ)の気配も一瞬現れ、消えた。
 考えられるのは迷悲と共に異世界に飛んだという可能性。
 ならばネクロマンサーの女はどうした?
 あの娘が母と心から慕うあの女を置いて逃げるがない。

 もしや、死んだか……?

 ならば人間達に襲われて、異世界に逃げたのか?
 嗚呼、あの子達は無事なのか。
 やはりネクロマンサーに託すべきではなかったのだろうか。あの子の願いを聞き届けるべきでは────。

 後悔は尽きぬ。

 とにかく急げと白い翼を羽ばたかせ、■■はイーデンデルへ飛ぶ。

 が────。


「見つけたぞ、忌まわしき混血」


 視界に己のものではない白い翼が視界に映った瞬間、■■の視界は赤く染まる。



‡‡‡




 長閑(のどか)である。
 何処か、鳥が鳴き、獣達が縄張りを主張し合い吼える、唸る、或いは雌雄が睦み合う。
 その向こうで囁いているのは川のせせらぎか。
 枝葉が擦り合う木々の梢(こずえ)の隙間から落ち葉に埋め尽くされた地面にこぼれ落ちる日の光は一定せず、舞うが如く揺らめき形を変える。
 栗鼠が木漏れ日を受けて落ち葉を蹴り上げて健気に赤い花を天へ向けて咲かせる一輪の側を駆け抜けていく。
 その下を、黒く丸い虫が落ち葉の下へ隠れようともそもそ動く。

 湿った森林独特の匂いを吸って、■■は腐葉土を踏み締め歩く。
 時折鳥獣から挨拶を受けるのに片手を挙げて応じてみせる。

 今の彼の背に、分厚い白翼は無い。
 木々の間を抜けるのに邪魔になるからと、身体のうちに隠しているのだ。
 忌まわしい血故の独自の変化ではあるのが憎らしいが、そのお陰で《こちら側》の生活に紛れられるのは有り難いことだと、無理矢理に思い直すことにしている。

 木漏れ日が降り注いでいるとはいえ、我も我もと日差しを求めて枝葉を伸ばす木々に森の中は薄暗い。
 人もほとんど踏み入らぬ故、この辺りは実り豊かだ。
 時折人間の口に入れられる茸(きのこ)や山菜などを摘んで腕に抱え、■■は森を進む。

 森の出口が見えてきた頃に、右手の斜面から悲鳴が聞こえた。
 ■■は視線を横にやり、二歩後退した。

 ややあって、目の前に何かが転がり落ちてくる。
 ■■はそれを認め、溜息を漏らした。
 それは、彼にとっては見慣れた人物であったのだ。


「……何をしているんだ、張飛」

「ってて……足を滑らしちまって……」


 手を貸さずに呆れた眼差しで見下ろしていると、斜面を降りてくる中性的な少年が。
 彼にも、張飛にも、頭に猫の耳を持っている。人間の耳殻は無い。


「危ないって言ったのに」

「言うのが遅ぇんだよ!」

「……あ、■■。山菜採ってたんだ。お疲れ。世平叔父なら家にいると思うよ」

「ああ」


 蘇双に片手を挙げ、■■は張飛の横を通過する。

 もう、誰もが■■の存在を受け入れている。
 その現状は有り難い筈なのに、今でも違和感を覚えてならぬ。
 元の世界では、いつも命を狙われていたからだろう。

 ■■は、高位天使と人間の間に生まれたハーフである。

 人間────父親になるのだが、この男がただの男ではなかった。悪魔を何匹も喰らった魔女の腹から生まれた、人間でありながら魔に堕ちた存在であったのだ。
 聖と邪を一つの身体に併せ持った■■自身に秘められた力は聖邪互いに反発し合い、厖大(ぼうだい)に膨れ上がった。聖の力と邪の力、誰よりも強い双方を巧みに操れる。
 汚れた混血が神をも凌駕するとなれば神も寛大ではいられない。

 汚れた忌まわしい存在であると、執拗に命を狙った。

 数百年の間に何人の天使を殺したのか分からない。
 毎日毎日母と同じ天使に命を狙われながら、■■は母の守護していたとある種族を、最後の生き残りまで守っていた。

 今、ここにいるのも、彼女の為だ。

 ここは、■■のいた世界ではない。
 天使や神、悪魔などは一切存在せず、魔術の類いも全く普及していない。

 力の全てを失う覚悟で時空を歪ませ生き残りと、小さな孤独の異形の気配を追いかけてこの世界に辿り着いた。
 結果的に力は失わなかった訳だが、翼も気軽に出せぬ、力も振るえぬ、■■にしてみれば何とももどかしい、非力な世界だった。

 そんな世界で■■を拾ったのが、張世平という猫族の男だ。
 力を失わなかったとはいえ消耗が激しく、しかも怪我を負って気を失っていた■■を保護し手厚く看病してくれたその男は、■■の事情を聞くなり、村に置いてやると純粋な善意を見せた。
 曰く、親心に似た■■の強い思いに同調してのことだという。世界が違うだの、天使と人間の混血だのと、唐突に言われても信用出来ぬだろうに、解せない。

 お前の必死な目を見れば分かると、彼は訳の分からないことを言った。

 生き残りを捜す為の拠点として、半妖の猫族の村に身を寄せることとしたのだが、世平は■■のことを行き倒れていた異国から旅人であると偽り、猫族のことも知らぬはそれ故と誤魔化した。
 言語が通じるのは■■がそのように力を行使しているだけのことだが、最初は世平に言われ上手くこちらの言葉を喋れない風を装った。
 僅かな身銭も無法者に奪われ言語も稚拙な路頭に迷った異国人という人物像は、生来気性穏やかなお人好しの多い猫族にすぐに受け入れられた。実際■■が東大陸に似て非なるこの世界の文化に上手く馴染めていない姿は、信憑性を高めたと言える。

 猫族は、■■が無事にこの地でも暮らしていける十分な知識と備えを得るまでとして、拾った世平を筆頭にあれこれ世話を焼いた。

 そのお陰で、この世界に慣れているのだが、それを恩と感じてしまうと報いなければと思い始めてしまう訳であって。
 そうなると自ら己の行動を制限してしまう訳であって。


「あら、■■さん。今日も森に行っていたの?」

「……ああ」

「さっき趙雲が捜していたわよ。鍛錬の相手をして欲しいんじゃないかしら」

「分かった」


 朗らかに話しかけてくる若い娘達の脇を通過し、■■はほうと吐息を漏らす。
 報恩を大事と思っているのは、他でも無い大事に思う小さな少女の影響だろう。

 ■■ンはふと、足を止めた。
 快晴の空を仰ぎ、目を細めた。


『……神風(シェンフォン)。どうか、健やかに……』


 この世界に僅かばかり感じる彼女と、迷悲の気配。
 辿れる程のものではないが、生きている何よりの証である。
 生きているのならばせめて笑える環境であって欲しい。
 ■■を救った、あの口無き娘の、無垢な笑顔を失わず生きていて欲しい────。


「────■■?」


 呼びかけに思考を一旦中断する。
 振り返り、「ああ」と肩から力を抜いた。

 きょとんと首を傾げる娘がいる。先程の娘達ではない。
 黒い瞳に茶色の長い髪をしたその娘は、世平が父親代わりに育てた人間と猫族の混血児である。
 名を、関羽。


「村の真ん中でぼーっと立って、どうしたの?」

「……いや、考え事を、少し」

「また捜したいって言っていた子のこと?」

「ああ」


 首肯すると、関羽は何故か寂しそうに眦を下げる。

 今度は■■が首を傾げるとはっとしてかぶりを振り取り繕うように笑った。


「本当に大切なのね、その子のこと」

「ああ」


 あの少女は最後の、■■の生きる意味だ。
 本当に大切、なんて言葉だけで表せるかも分からない。
 ■■はもう一度天を仰いだ。


「■■!」

「あら、趙雲」


 関羽が視線を向けた先から、人間の青年が。
 自ら望んで、人間に十三支と蔑まれる猫族と共存する趙雲だ。

 彼が■■を捜していたと聞いたのはつい先程のことだ。


「オレを捜していると聞いたが」

「ああ。手合わせをしたいんだ。何か用事があるのなら構わないが」

「いや……これと言って用は無い。これを家に届ければ、」

「あ、それはわたしが持って帰るわ」


 関羽は気を利かせ■■から山菜や茸を受け取る。


「■■、ありがとう」

「いや……」


 関羽はさっきとは違う微笑を浮かべ、小走りに家に戻っていく。

 手持ち無沙汰になったからと趙雲を見やると、彼も微笑を浮かべ、関羽の後ろ姿を見つめていた。その双眸が熱っぽいのはいつものことだ。
 彼らの恋愛事情に興味を持たぬ■■は、趙雲をそのままに先に鍛錬場に向かった。

 ややあって、慌てて趙雲が追いかけてくる。



‡‡‡




────今思うと、一目惚れだったかもしれない。
 夜遅く世平に連れられて家に現れたのは黒髪に青い瞳を持った長身痩躯の青年だった。何処か影のある顔の造作優れ、清らかな空気をまとう青年に、関羽は眠気も吹っ飛んで魅入ってしまった。

 目が合った瞬間鋭い槍で胸を貫かれたような衝撃と痛み、熱を覚え、暫し思考も停止した。
 初めて抱く耐えきれない熱に息苦しくなって俯いてしまって世平に心配された。

 男の■■に失礼かもしれないが、彼の存在自体を、今でも美しいと思う。
 その隣に立つことを許されるのは並の女ではない。
 けれどもし、もし見込みがあるというのなら、わたしがその場所に────何度、夢見たか。

 こちらの文化を教えるという名目で■■の側にいられるだけで満足すれば良いものを……恋愛とは人を貪欲にさせる麻薬だ。
 もっとと願えば更にもっとと願ってしまう。止まらなくなる。止められなくなる。

 だから■■の胸を占める存在が、疎ましくて仕方がなかった。

 ■■は、たった一人の少女を捜して、遙か異国からここまで来たのであった。
 どんな少女なのか訊ねても幼い頃から見ていたと言うだけで詳しくは教えてはくれないが、少女のことを思い出している時、滅多に動かぬ■■の顔は和らぎ、時には笑顔を浮かべることだってある。
 彼の少女に向けられた柔らかな表情を見るだけで心が燃えるようで苦しい。
 詳しくも知らぬ少女に強い嫉妬心を抱く程、関羽は■■に入れ込んでいるのだった。

 ■■は関羽を異性として見ていない。恋愛自体に興味を持っていない。
 だから関羽がどんなに想いを見せようと普段となんら変わらぬ態度で接する。

 彼にとっての一番は、わたしじゃなくてその子なんだわ。
 何度も何度も突きつけられる堅牢な壁。
 怖そうにも関羽は矮小すぎてヒビすら入れられない。怖そうと奮闘すれば自分が傷つくだけだ。はしたない、と軽蔑されてしまうかもしれない。

 関羽の溜息は、尽きぬ。

 ■■と同じ屋根の下で暮らしているのも段々と苦しくなって、夜中に起きては外を散策するようになった。
 ひんやりと冷たい夜気が、貪欲で我が儘で浅ましい関羽を嘲笑う。
 ……いいえ、どうかわたしを嘲笑って。
 そうして、この燃え尽きるを知らない苦しく醜い激情を消して。凍らせて、二度と出てこないようにしてちょうだい。

 自分の醜さを、これ以上知りたくないの。

 溜息を漏らし関羽は真っ暗な村の中を歩く。
 今日は月も星も雲に隠れ、まったき闇に世界は包まれている。
 風も無く、何もかもが寝静まった世界は死んだようにも思えて、そら恐ろしい。

 けれどこの恐ろしさも不安感も、胸を冒す手の施しようの無い熱に比べれば随分とましなもの。

 関羽はままに地面の凹凸に躓(つまず)きながらも、村の中を徘徊した。
 夜明けの兆しが見えて慌てて家に戻ると、


「あっ……」

「……関羽?」


 今日に限って……!

 丁度起きてきたらしい■■と、かち合ってしまう。
 関羽は冷や汗を流し口端を無理矢理つり上げた。世平に恩義ある■■は、世平が大事にしている関羽が怪しい行動をすると場合によっては世平に報告する。今回ばかりは、それは阻止しなければ。


「お、お早う。■■。早いのね……」

「ああ。……夢を見た」

「そう。夢……もしかして、あの子の?」

「ああ……」


 まだ、些細な幸福にも心から喜べていた頃の記憶だ。

 わたしは馬鹿だ。
 訊かなければ良かったのに、誤魔化す為に少女のことを出した。
 そして、今■■の顔に勝手に傷ついている。

 ■■は幸せそうな顔を消して、関羽の脇を通過した。
 その際、


「さすがに、そう何度も見逃せない」


 そっと、囁いた。

 夜中の徘徊が知られていたことに関羽は脱力し、同時に、痛む胸に下唇を噛んだ。


「……わたしの、大馬鹿」


 嗚呼、こんな感情、知りたくなかったわ。
 もっと、もっと穏やかで潤滑な恋愛だったなら良かった。

 だってそんな恋愛なら────。


 こんなにもわたしが醜くなることは無いし、こんなにも苦しくも痛くもならないでしょう?



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