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昔から、他人のことばかり気にかけて、気遣って、生きてきた。
小さな下らないものでさえ、自分から願望めいたことを言ったことも無かった。
俺は、居ても困るだけの末娘。しかも父に似てしまって、姉達のように綺麗で愛くるしい小柄な女でなく、骨張った肩は広く、背も高い。吊り目がちの顔は男寄りに中性的で、胸もまあ無いことは無いけど服を着れば分からない。
それでいて、嫁いで幸せそうに暮らす姉達よりも女として裁縫や楽器の才に長けているのは、何とも皮肉なことだ。
嫁ごうにもこんな男めいた娘など誰も娶(めと)るまい。
父も母も俺のことは持て余していた。
いっそ武人に────そんな発想もただの幻想。見た目は父に似ても、俺に武術の才は受け継がれなかったのだと知った時の彼の落胆振りは、今でも記憶に鮮明に残る。
ただでさえ俺の存在自体が厄介なのだ、二人の迷惑にならぬよう、一人部屋の中に閉じこもり、暗鬱(あんうつ)と毎日を過ごした。
男物を着て、男のような口調になったのは、いつの頃だったか。幼い頃だったのは間違いない。
酒の入った父が『お前が、男なりせば……』とぼやいたのを見て、短絡的にそれらしく振る舞うことに決めたのだ。振る舞いは所詮振る舞い。それで父の思うような人間になれる筈もあるないに、幼い俺は周囲に何を言われても頑(がん)として改めようとしなかった。
そんな俺を娶ろうと言う男が現れたのは、衝撃的だった。よしや、天地がひっくり返ったって有り得ないと分かっていたのに。
どんな男だろうと面を合わせて、ああそういうことかと理解した。
賈栩と言うその男は、成り行きに任せて俺を娶ることになったのだ。
彼と父の会話を聞いている様は、まるで板に水が流れるよう。賈栩殿は無表情に、実に淡々と喜々とする父の言葉を聞いていた。一応言葉は受け止めているものの、すぐに放り捨てて行くような、至極淡泊な態度だ。俺に対しての挨拶も、薄っぺらく、抑揚に欠ける。
見目は良いから、多分流されたか、縁談を断る口実か何かに利用する為にたまたま俺との縁談を選んだ、そんなところなんだろう。
落胆は無かった。
むしろやっぱりそうだったかと安堵めいた感覚を得た。
賈栩殿に嫁いで数年、彼は俺に触れたことも、俺のと話したことも、あまつさえ俺の部屋に近付いたことも無い。
賈栩殿が劉備軍の捕虜となった今では、完全に存在を忘れ去られているだろう。
劉備軍は戦闘能力の高い十三支の集まりだというのに、情け深い性分であるという。賈栩殿の同僚の方がぼやいているのが、たまたま庭を散歩している際に壁の向こうから聞こえた。
それが本当なら、多分賈栩殿は生かされている。何度か主を変えている彼は、今度は劉備軍の軍師してこれから生きていくのかもしれない。
ならばと、俺は実家からたった一人ついてきてくれた侍女の蔡蓮々と共に屋敷を出た。
旅に出て誰も知らない場所でひっそり暮らすのも、俺らしくて良いかもしれないと考えたのは、賈栩殿に嫁ぐ、ずっと前。
そうすれば、両親も賈栩殿にも迷惑をかけることはあるまい。……縁談が、また賈栩殿に押し寄せてくるかもしれないが、俺を妻としておくよりも、絶対ましだ。
それに、現状を考えれば、俺は曹操軍に殺されるかもしれない。
賈栩殿が劉備軍に与(くみ)すれば、曹操軍にとって俺は裏切り者の妻なのだから。賈栩殿に対する見せしめで処断されるだろう。でも、賈栩殿にさしたる痛手でもないと、分かり切っていることだ。
運動不足の弱い身体では鈍重な旅路になることは簡単に予想がつく。ややもすると曹操軍が何かしら勘ぐって俺を連れ戻しにくるかもしれない。妻である以上は、一応、人質としての価値はあるだろうから。
俺と違って可愛い顔をしているくせに男を負かす程武術に長けた蓮々が先導し、夜の闇を足早に進む。ばさばさと外套を捌(さば)いて悠然と歩く蓮々のなんと頼もしいこと。対して俺はちょっとした段差でも足を取られて転びそうになる。普段から歩かないからこういうことになる。
「○○様。もう暫し歩けば、川がございます。そこで、休憩しましょう」
「悪い、蓮々」
「いえ。お気になさらず」
蓮々は、俺がどんなに隠そうとしても、何でも見透かしてしまう。両親にだって気付かれたことは無いのに、彼女は俺のことは何だって察してしまうのだ。
転んだ際に痛めてしまった足を必死に隠そうとして、努めて普通に歩いていたのすら、こんな暗がりでも気付いてしまう。
蓮々には、本当に頭が上がらない。
蓮々の言う通りに、到着した川の畔に座って一息つく。
細剣を抜き俺の横に立って周囲の様子を警戒してくれる蓮々を見上げ、苦笑する。
「俺も、蓮々みたいに武術に長けていたら、父様も母様も安心出来ただろうにな」
「何を仰いますか。ご両親の目は節穴ですわ。○○様の良さを理解出来ない者など虫以下です」
「……いや、さすがにそれは言い過ぎだって」
やんわりと否定する。
が、今度はこちらが否定された。
「言い過ぎではありません。わたくし、同性ですが○○様のこと心からお慕いしておりますのよ。○○様の良さを見ようともしない賈栩なんて今頃死んでいますし、ようやっと○○様を独り占め出来ますと、もう、胸が熱くて熱くて……」
「……は、はは」
蓮々は、こういう奴だ。
俺に対して何の幻想を抱いているのか、昔からこういう奴だ。
たまに反応に困ることもある。が、とても良い子であることには間違いない。……少なくとも、俺の前ではそう。俺のいない場所でどのように振る舞っているのかは、さすがに俺でも分からない。
「出来るだけ距離を取っておきたいところではございますが、女二人では、さすがに暗闇の中を歩き続けるのも難儀。身を隠す場所を探して、そこで一夜を明かしましょう」
「ああ。俺は何も分からないから、蓮々に従うよ」
「お任せ下さいまし」
蓮々は、頭を下げ、俺を近くの木の影に隠れさせてから、颯爽と歩き去った。仕種だけで顔まではよく見えなかったけれど、どんな男でもたちどころに虜にしてしまいそうな愛くるしい笑顔を浮かべていたことだろう。
女の子らしく、また武術も体得している蓮々を、俺は羨ましく思う。
この口調も振る舞いも、身に染み着いて、逆に戻してしまうことに嫌悪を抱いてしまう俺には、どう足掻いたっても無理なことを、蓮々は全て持っている。
持っているのに、こうして俺に仕えてくれる。……まあ、そこにある感情は考えないとして、本当に良く出来た娘だ。
こういう子の方が、武将なり軍師なり、男は妻としたいと思うんだろうな。
俺みたいなのは、逆に嘲笑の的にされてしまいかねない。賈栩殿もそうだったに違い無い。
俺は木の幹に寄りかかって、長々と溜息を漏らした。
‡‡‡
蓮々の帰りが遅いと思っていたまさにその時、蓮々は戻ってきた。
駆け足で、やけに慌てている。あの細剣も、持っていないようだ。
不穏を感じて俺は立ち上がって蓮々に歩み寄った。
「蓮々。どうした?」
「○○様。急いでここから離れましょう。今すぐに!」
「何を言って……?」
パキ、と音がした。
それは俺が踏んだのではなく、蓮々が踏んだのでもなかった。
つまり、第三者がいる、ということで────。
「へえ……あいつの奥方だから、よっぽど器の広い女だとばかり思ってたが……旦那のいないところで別の男と逃避行か。意外と、大胆なんだな」
「……何者」
暗闇の中、ぼんやりと浮き上がる影。発せられる声から男だとは分かる。
俺は俺を庇おうとする蓮々を背に庇い、努めて背筋を伸ばした。
影は、俺を鼻で笑う。
「男が、女に隠れ家を探させるなよ」
「……何者か、訊いているのだが」
「それをあんたに言う必要は感じないな。オレに用があるのは、そっちの、曹操軍の元軍師、賈栩の奥方だ」
彼は、勘違いしている。
即座に否定しようとする蓮々を制し、更に影に問いかけた。
「では、その奥方に何用か」
「残念。これも、あんたに教える必要が無い。何も言わず、このまま彼女をこちらに渡してくれ」
「……ただただ怪しいだけの男に、託せるとでも?」
「じゃあ、仕方がない。強行突破だ」
「!」
連れ行かれると思って蓮々を押し飛ばしたその直後。
銀の光が視界を横切ったかと思うと、左肩に激痛が走った。蓮々の悲鳴が聞こえた。
咄嗟に押さえると、肩から胸元まで、服ごとぱっくりと割れているではないか。
驚いたのは、俺だけじゃない。
「あんた、まさか素人か?」
俺が避けられないのは、影にとっても予想外だったらしい。困惑している。
斬られたのだとようやく理解した俺は、歯を食い縛り影に突進して、避けられ、地面に倒れ込んだ。
未だかつて感じたことの無い激痛だった。でも蓮々が傷つかなかったよりはましか。俺が賈栩殿の妻だと分かっていたら、もしかしたら蓮々が斬られていたかも知れない。
無理矢理身を起こして蓮々に向かって叫ぶ。
「逃げろ!!」
「○○様! しかし!」
「悪いな。逃がすと諸葛亮が五月蠅いんだ」
どす、と音がした。
俺の目の前で影が蓮々の腹を殴りつけて昏倒させ、その小さな身体を軽々と抱え上げた。
「あんたは、まあ……処置が早ければ助かるだろ。このお嬢さんは諦めな」
「く……待てっ!!」
このまま誰かも分からない人間に、大切な侍女を連れていかせる訳にはいかない。
その言動から、曹操軍ではないのだろうけれど、連れ去られた後で何をされるか分かったものではない。
俺が立ち上がると、影は呆れた様子で溜息をついた。しかし、それ以上俺を傷つけることは無く、すぐに駆け出してしまう。
「待て────待って!!」
久し振りに、高い声を出したような気がする。
影が立ち止まる気配は一瞬だけ。すぐに、見る見る離れていく。
俺は数歩進んで、激痛にまた膝をついた。
「蓮、れん……」
追わないと、いけないのに。
身体が、言うことを聞いてくれなかった。
‡‡‡
賈栩は、その娘を目にした時、胸の奥が冷めるような感覚を得た。それが何なのか、彼には分からない。
けれども、話を聞いているうちに、溜息が漏れてしまう。
その様子を、娘は憎らしげに、猫族は不安げに見つめている。
やがて、一言。
「彼女は、俺の妻ではないよ」
「は?」
「その、軟弱な男が俺の妻であり、この娘はその侍女だ」
「はあ!?」
「だから何度も言っているでしょう! わたくしは○○様の侍女だと!! あなたが斬ったのがわたくしの愛する○○様だったのですよ!! 女性の身体を、○○様の身体を傷つけるなんて!!」
憤懣やるかたなしに、娘────蓮々が金切り声を上げる。
されども……まあ、間違えるのも無理はない。
拐かした者を睨めつける諸葛亮とて、きっと彼女を見れば女だとは思うまい。
「周瑜……」
周瑜は、苦虫を噛み潰した顔で露骨に視線を逸らした。冷や汗が流れている。
「……悪かった。けど多分、本物の奥方は生きてる。……ま、まあ、処置が早ければ」
「処置が早ければって……! おいおい、それってヤバいだろー!」
「人の妻殺すとか、最悪」
「しょうがないだろ! がたい良いし、声は威圧感があったし、あれで戦えもしない女と思えってのが無理だ!」
「開き直るのですか! 本っ当に外道ですわね!!」
騒ぎ立てる娘と猫族を見ていると、心の奥底が、どんどん冷えていく。どうしてか、落ち着かない。
賈栩は背を向け、大股に歩き出した。
それにいち早く気付いた関羽と張飛が、後を追いかけた。
賈栩の足取りは、異様に早かった。
勿論彼にその自覚はない。
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