夏侯惇





「お帰り下さい」


 その十三支は面の下で冷たく言い放った。
 肩まで切り揃えた髪は赤土の色。肌の一切、手先さえも大きく長い袖で覆い隠した真っ黒な衣服を身に纏うこの十三支、魚のような、奇妙な顔の面で顔を覆っている。くぐもった声は小柄な身体の割に低く、一見少年と間違えてしまいそうだ。
 だが、辛うじて見て取れる胸やくびれ、腰の起伏は女性らしく丸く細いもの。首も、少年と言うにも細すぎる。

 夏侯惇は、武器を抜いた自身に臆面も無く丸腰で対峙するこの奇抜な十三支に、一種の感服を抱いていた。

 彼女の立ち姿は武将然とした堂々たるものだった。背筋を伸ばし、分かりやすく無防備に隙をこちらに晒している。
 剣を抜いている夏侯惇の後ろにずらりと並んだ兵士達の、重苦しい脅迫じみた威圧感を受けても、逃げる素振りどころか悠然と向き合っている。そこに緊張は全く無く、常なる振る舞いで以て曹操軍と対話していた。

 一瞬だけ関羽という十三支の女が浮かんだが、彼女とはまた違う。
 その後ろにとても大きいものを、沢山背負ったような佇まいだった。緑など、身形(みなり)には一切無いというのに。奇異なことである。

 戦えないのは事実だろう。だが、油断は出来ない。
 十三支と言えども、下手に蔑むことも出来なかった。
 この村の者達は皆十三支を長のように扱っている風に見受けられる。放浪の弱者が寄り集まっただけの、長の存在しない小さな村であると言っていたが、この女が立派に長代わりを勤めているようだった。それ故に彼女を誰も十三支と厭っていない。むしろ家屋の中から女を心配そうに見つめていた。子供などは、両手に石を持ち、いつでもこちらに投げつけられるよう身構えている。


「……聞こえませんでしたか。お帰り下さいと申したのです。ここは、あなた達のような、戦の中で生きる者達の来て良い場所ではありません。私達は、誰にも利用されず、強いられず、蹂躙されず、ただ普通に生きていたいだけ」

「……」


 ここまで軍を拒絶する理由は、夏侯惇も察しが付いていた。

 石を抱える子供には酷い火傷の後がある。
 家屋の側に杖を突いて立っている若い少女には左足が無い。
 少女に寄り添う母親も、顔の半分を包帯で覆い隠している。

――――戦渦に巻き込まれ傷ついた者達が、最後の拠り所として住み着いているのだった。

 外との関わりを絶って、細々と、それでも平穏に生きていきたい。
 そんな者達が身を寄せ合い、傷を舐め合って暮らしているのだ。
 きっとこの十三支も、故あってこの村に住み着いたのだろう。肌を徹底的に隠すのも、戦禍の痕跡を隠す為。

 確かに、彼らを見れば税金を取ることは出来まい。毎日をぎりぎりで食い繋いでいるのだろう。

 だが、それと任務とは話が別だ。


「この荊州は曹操様のものとなった。荊州に村を作ったお前達には、従属してもらう」

「堅くお断りします。私達は、もう誰の国にも所属したくないのです。長く苦しい旅の果てに、ようやっと誰も踏み込めぬような隠れた場所に落ち着いた私達を、どうか放っておいて下さい。もう、軍を持つ方に関わりたくはありません。ここは死者の村であるとご認識下さい」


 十三支は頑なだ。
 もう話すことは何も無いと、夏侯惇に背中を向け、ゆっくりと村の中へ戻っていった。
 その細い背中は対峙していた時よりももっと無防備で。その無防備さが却(かえ)って挑発的だった。

 今、ここで彼女を斬りつければ自分達が負けだ。
 村の者達から蔑まれ、罵詈雑言を浴びせられる。最悪戦禍に苦しむ者達を、戦を起こす自分達が殺めることになるだろう。
 夏侯惇としても、その罪を背負うことは矜持が赦(ゆる)さない。

 小さな村の中央まで至ると、堪えきれなくなった村人達が十三支に駆け寄っていく。
 五体不満足な身体で必死に十三支に近付いていくのに、彼女はそれぞれに「無理をしないで」と焦ったような声をかけた。

 しかし、村人達は止まらない。
 心から慕う十三支を心配し、その身に怪我が無いことを挙(こぞ)って確かめた。
 十三支が大丈夫だと声をかけて納得させれば、彼らはほっとして――――こちらに蔑視を向けた。憎悪の入り交じる目は鋭く、負に澱み、こちらを容赦なく威圧した。


「○○さまー!」

「○○様、何もされてない?」

「俺達の為に、危ないことを……」

「あいつらは悪魔だ。私達みたいなのは虫螻(むしけら)くらいにしか思ってない」

「どうせああして、俺達をいつ殺そうか考えているんだ。軍なんて、そんな汚ぇ連中ばかりなのさ」

「○○様。逃げましょう。あなた様が矢面に立たれることはないのです。私共のような婆や爺はここに残して、元気な子達だけでも新しい場所へ向かわれて下さい」


 蔑まれる十三支が好かれ、同族である人間の自分達が蔑まれているこの状況に違和感を覚えながら、その影で納得もしていた。
 民は、戦に何の関係も無い。だのに、戦えずに守られるべき彼らはひとたび戦が起こると、軍に蹂躙され、陵辱され、人間としての尊厳を無惨に踏みにじられる。

 同じく赤い血が通い、理性で制し、生きる生き物であるというのに。
 同族の中でも、弱肉強食は当たり前だった。なまじ知性と煩悩があるだけに、動物のそれよりももっとおどろおどろしい弱肉強食だ。

 この村にいる同族は、その果てに人間を見限り、世を捨てんとこの場所に隠れた。
 そっとしておくべきだろう――――心の片隅で誰かが囁いた。
 理性でも、そうすべきだとは思う。戦禍に見舞われた者達をまた害せば、曹操軍の格も下がってしまう。

 ひとまずは退こう。
 これ以上彼らを刺激したとて何の得にもなりはしない。
 夏侯惇は身体を反転させ、撤退を命じた。



‡‡‡




 二日の間を置いて、彼は単身村を訪れた。
 兵士を伴わなかったのは、村に軍を用いる程の脅威が無いからだ。夏侯惇からしてみれば、ここは弱者しかいない。有事の際にも自身の力のみで何とでも出来ると判断した。

 夏侯惇の訪問にいち早く気付いた老婆は、腰を抜かして掠れた悲鳴を上げた。

 夏侯惇は彼女に歩み寄ろうとして、得物を提げていることを思い出し、誰か別の村人を呼んだ。


「誰か、誰かいないか!」

「……あなたは、」


 家屋の影から小走りに現れたのは、あの○○と呼ばれていた十三支だ。
 夏侯惇の訪問に少なからず驚いているようだった。

 夏侯惇は老婆に駆け寄った彼女を見据え、大股に歩み寄る。
 若い男衆が庇おうとするのを手で制し、老婆を任せ○○も自ら距離を縮めた。
 剣を鞘に収めたまま差し出せば、首を傾けた。


「今日は俺一人。兵士は誰も連れてきてはいない。村の代表と再びの交渉を願う。これは、この村にいる間はお前達に預けよう。必要ならば身体を調べてもらっても構わん」

「……○○様」


 男衆が受けなくて良いと、視線で伝える。

 けれども○○は神妙に頷いた。声を上げて反対する村人達を宥め夏侯惇の手から武器を左手で受け取る。


「あなたの言葉を信じましょう。私の家でよろしいですね」

「ああ。お前達の意に従おう」

「では、こちらに。皆さん、この方が村を出るまで、私の家に誰も近付けぬように。もし不安なようでしたら、周囲の様子を少し見て回って下さいな」

「……○○様が仰るのでしたら」


 ぎ、と村人達は夏侯惇に厳しい目を向けた。
 幽州の十三支らに被った。この村での○○は、彼らにとっての劉備のような存在なのだろう。

 剣を抱えて背を向けた○○に従って、彼女の家を目指す。

 だが、○○は村を北に出た。

 そちらは天高く聳(そび)える断崖しか無い筈だ。
 罠……ではないだろう。何らかの理由で村人達とは別の場所で寝泊まりしているのか。

 ○○は細い坂道を上り、断崖へと至った。
 そこにはぽっかりと洞穴が開いており、奥が深いようで隅で塗り潰されたような闇が広がっている。
 彼女はそこに入り、暗い奥へと進む。

 長いこと歩くとようやっと行き止まりとなり、小さな居住空間があった。居住空間と言っても藁を敷き詰めて寝床とし、その側に焚き火の痕跡とそれを囲う粗末な席(むしろ)が三枚程度あるくらいで、他には何も無い物寂しい空間だった。吹き抜けになっており、光が真上から降り注いでいた。
 奥の席に座し、○○は手で正面の席を勧めた。
 それに従って鎮座すれば彼女は背筋を伸ばして確認するように訊ねた。


「今回も、従属しろと言う件でございますね?」

「ああ。だが今回は、前回とは内容が異なっている」

「……聞きましょう」


 ○○が軽く顎を引く。

 彼女ではなく奇妙な面に睨まれているようで、夏侯惇も表情を一層引き締め○○を強く見据えた。


「曹操様の庇護下に入れば、必要な物資を毎月届けさせ、なおかつ定期的にこの山の周辺の巡回も行う。――――これが曹操様のご意向だ。村には、一切の兵士を入れぬ。物資を届けるのも、山の麓までだ。運べる若者もいるのだろう。後は、好きに暮らせば良い」


 曹操の意向の証左として、彼がしたためた竹簡を手渡す。
 読めるかと問えば、文字を読むくらいの学はあるとのことだった。左手で持ち、口で器用に紐を解いた彼女は竹簡を冷たい地面に置き、転がすようにして開いた。


「右手は使えないのか」

「五本指全てを、切り落とされましたから」


 ぞっとするような拷問の過去を淡々と言う。
 夏侯惇は長い袖で隠してしまいながらも曹操の言葉を読む○○を見、眉間に皺を寄せた。

 面の紐が、千切れかけていた。
 本人は気付いていないのだろうか。あれでは何処かに引っかければすぐにでも面が剥がれてしまう。
 夏侯惇は手を伸ばし、千切れかけた部分に触れた。

 直後、○○は大仰なまでに反応した。
 夏侯惇を振り払おうと右腕を大きく振った。
 それにぶつかった指に引っかけていた紐が負荷に耐えきれず、ぶつりと切れた。


――――カラン、と。
 面が地面に落ちた。


 露わになる、○○の素顔。
 夏侯惇は言葉を失った。

 凝視する顔は見る見る青ざめ、恐怖に強ばっていく。

 ○○は打って変わってがたがたと震え「いや……っ!!」と袖で顔を隠した。
 何かに怯えて背中を向け、うずくまる。


「こ、来ないで……顔を、見ないで……っ!!」


 夏侯惇はその反応にはっと我に返り、面を拾い上げる。
 千切れた紐は、もう使い物にはなるまい。
 結び目を解き夏侯惇は剣を抜いた。袖を細く裂き、捻って面の穴に通す。

 穴から抜けぬようにキツく結び、○○に歩み寄った。
 両手の上から面を被せこめかみに紐を軽く押さえつけると掠れた声が漏れた。


「面を押さえていろ」


 ○○は怖ず怖ずと面の下から手を抜き面を顔に押しつけるようにして押さえた。
 それを視認し、紐を引き締めキツく結んでやる。

 手を離して面がズレないか確かめさせると、○○は夏侯惇から逃げるように距離を取った。十三支だからか、身のこなしはとても素早い。
 面で隠した顔を俯かせ、夏侯惇へ警戒心を露わにする。

 夏侯惇はそれを見、腰を上げた。剣を鞘に戻し、背を向ける。


「……三日後に改めて、意思を問いに来る。それまでに返答を用意しておけ」

「あ……」

「俺は何も見ていない」


 驚き戸惑う様子の○○をそのままに、洞窟を出た。

 途中転びそうになりながら、何とか外に出た夏侯惇は、壁に手を突き深呼吸を繰り返した。

 何も見ていないのは、嘘だ。
 しっかりと、この目は捉えてしまっていた。
 この世のものとは思えない、絶世の美貌を。

 相手は十三支だ。汚らわしい半妖の娘だ。
 だのに、身体が熱くて仕方がない。一瞬の美貌が頭にこびりついて、なかなか離れなかった。



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