夏侯惇


【夏侯惇のベタ惚れな両片思いの相手(夢主)がもし記憶喪失になったら】
※注意
※ファンタジーパロ



 ここは、酒と料理の匂いと、鼻が曲がるような体臭が立ち込めていた。
 廃れた雰囲気の居酒屋は、如何にも蛮行を好む無法者達で大いに賑わう。


「でさぁ、泣く声もまた可愛いのよ」


 カウンターで安酒を煽り下卑た笑みを酔顔(すいがん)に浮かべた無法者が、隣で安い赤ワインの入ったグラスを傾ける青年の肩を強く叩いた。

 青年は隻眼を細め、無法者を無言で一瞥(いちべつ)するのみ。

 無法者は酒も入って機嫌が良く、彼の冷たい眼光に気分を害した様子も無く楽しげに言葉を続ける。


「『申し訳ありません』『申し訳ありません』ってずーっと婚約者に謝っててよ。それでもあそこは濡れに濡れててな、オレの大きいのをすんなり受け入れて、イっちまった」

「……」

「あの娘、温室育ちの生娘のくせに物凄い淫乱だったな。口では嫌だ嫌だと言いながら、しっかり感じて顔赤くして息荒くして、オレのに絡み付いてくるんだよ。あんな姿、婚約者が見たら、どんな顔をするだろうな」

「それは、お前が媚薬を原液そのまま飲ませたからだろうが」


 新しい肴を無法者の前に置いた店主が、呆れ顔で指摘する。


「普通なら精神崩壊してもおかしくないレベルの薬なんだぞ、アレは。一体何処で手に入れたんだ」

「オレ達みたいなのが暮らしてる世界じゃ、金を積まなくても簡単に手に入れられるんだよ」

「つまり所有者を殺して奪ったんだな」


 店主が溜息をついた。一瞬だけ、青年の様子を窺(うかが)う様子を見せた。
 無法者は気付かない。口笛を吹きそうなくらい上機嫌に店主にまた別の酒を注文する。


「ありゃ上物だったなあ。逃げられちまった時出ていなかったら追いかけていったのによ。今からでもまた攫(さら)いに行ってくるかな」


 本気と分かった店主が何故か青年を見て顔色を変え、慌てて咎める。


「止めとけ止めとけ。深追いしてたら殺されてたぞ、絶対」

「けど、未婚の令嬢が婚約者以外の男で処女貫通しちまってたら、あの国じゃ罪になる。婚約破棄は勿論、即座に修道院送りになるんだから、オレが助けてやった方が遥かに幸せじゃねえか?」

「いや、絶対に地獄だろ」


 その時、ガタリと音がした。
 青年が立ち上がったのだ。

 店主は青ざめるも何も言わず、溜息をついて背を向けた。


「お? もう帰んのかい?」

「……ああ」


 青年は素っ気無く返した。
 飲みすぎたかよろめくようにして無法者に身を寄せてから、店主に片手を挙げてカウンターに金貨を置き、颯爽と店を出て行った。

 ややあって。

 無法者の身体が横に傾(かし)いだ。
 カウンターに手をつくことも無く、そのままどうと床に倒れ込む。

 店主は振り返らない。
 無法者の身体の下から真っ赤な血が広がっていると知っていても、店主はグラスを拭いていつも通りの仕事をこなす。

 無法者が集まる秩序無き居酒屋。

 喧嘩も殺しも日常茶飯事である。



‡‡‡




「お帰りなさいませ、夏侯惇様」


 屋敷に戻って早々、可憐な花のような愛らしい微笑みで迎えてくれた少女に、隻眼の青年は穏やかな笑みを浮かべた。


「ああ。○○」


 名を呼び、近付いてきた彼女の頭をそっと撫でると、ふっくらとした頬がほんのりと赤く染まり、弧を描く小さな紅唇が控えめに嬉しさを滲ませる。
 昔と変わらない穏やかな愛くるしさが、夏侯惇の心を優しく按撫してくれる。

 湧き上がる○○を抱き寄せたい衝動を抑え、夏侯惇は○○の背に手を添えてエントランスホールを歩く。


「先程、お城から使いの方がいらっしゃいました。曹操様から、戻り次第登城するようにと」

「そうか。分かった」

「このまま城に向かわれますか?」

「いや、その前に湯浴みをしておきたい。出先で少し汚れてしまってな」

「承知致しました。すぐに用意させますわ」


 ○○は夏侯惇に一礼し、足早に正面の階段を上る。
 メイドに指示をしに行くのだろう。

 この屋敷は公爵である夏侯惇の別邸ではあるが、規模の割には使用人の数が少ない。それぞれが多くの持ち場を持って忙しなく動いている為、用事を言い付ける際にはこちらから探さなければならなかった。
 加えて、ここには夏侯惇を除けば女しかいない。
 男手がいる時には○○の外出時に本邸から呼び寄せるしかない。
 辺境伯の令嬢である○○の身の回りの世話も満足に行き届かず、何かと不便が多かった。

 いいや。そもそも、未婚の○○が、同じく独身の夏侯惇と公爵家の別邸に同居していることこそおかしいのだ。

 何故、そんな生活を送っているのか。
 その理由は○○にある。

 夏侯惇は己に宛がわれた部屋にて武器を置き、長い長い溜息をついた。
 己の手を見下ろし、隻眼を細め忌ま忌ましそうに舌を打つ。
 ○○と離れた途端に心の奥底でどろどろした汚らしい激情が煮えたぎる。

 ……やっとのこと奴を見つけ出してこの手で殺しても、気は晴れない。
 簡単に殺さずに苦しませれば良かったか?
 醜い顔で汚らしい懺悔をする様を嘲笑い、一つ一つ斬り付けて、恐怖と絶望で狂わせていけば――――。

 いいや、無駄だ。
 どんな手段を使ったとて無駄だ。
 夏侯惇の心にかかった重い重い暗雲が晴れることは無い。

 元凶を殺しても、何も元に戻らないと分かっているから。


「……っ」


 夏侯惇は歯軋りしテーブルに拳を叩きつけた。


「……分かっている。あの男を殺したからと言って○○の記憶は戻らない」


 いいや、あんな記憶、一生戻らないほうが良いのだ。
 分かっていても夏侯惇は捜し出さずにはいられなかった。殺さずにはいられなかった。
 ○○の婚約者としての独占欲と嫉妬が、○○の処女を犯した男の存在を許せなかったのだ。

 ○○の復讐は、その次でしかなかった。

 小さな頃から婚約が決まっていた二人。夏侯惇が辺境伯のもとを訪れてはよく○○を外に連れ出し、街を一緒に歩いて遊んだ。
 年下の○○にとっては夏侯惇など兄のようにしか思っていないのだろうけれど、夏侯惇は子供なりに本気で○○を愛し、成人してからも彼女以外の女には一切の興味が無かった。一時流行った《恋愛ごっこ》に誘われてもにべもなく断った。

 一生の伴侶は○○以外に考えられなかった。

 だのに――――神はこの一途な男の何が気に食わなかったのか、夏侯惇を嘲笑うように○○を悲劇に落としたのだ。

 今から二年前のこと。
 辺境伯である父親が賊討伐でひとつき留守にしていた間に、○○が何者かにかどわかされた。傍にいた侍女も一緒に。
 侍女は翌日のうちに無残な遺体で発見されたが○○の行方は分からなかった。
 この知らせを聞いた夏侯惇の狼狽振りは尋常でなく、すぐさま辺境伯領へ飛んだ。
 夏侯惇の様子を見て、曹操が彼を気遣い諜報部隊を動かした程である。

 国王直轄の諜報部隊の仕事は迅速で正確。
 ○○はすぐに見つかった。
 辺境伯の屋敷からやや離れた山の麓、川の下流で岩に引っ掛かっている虫の息の彼女が保護された。

 諜報部隊の話では、真夜中に○○を発見した直後に彼女は身を投げたという。
 人目で乱暴されたと分かる傷や痣だらけのボロボロの姿で、夏侯惇に泣いて詫びながら。

 辺境伯邸で昏々と眠り続ける傷だらけの婚約者を目にした時の夏侯惇の怒りは計り知れない。
 ○○を犯した男が憎くて憎くてたまらなかった。

 憎悪に比例して○○への執着も増していった夏侯惇は、悲痛な顔をした辺境伯から切り出された婚約破棄の提案を蹴った。修道院へ送ることも許さなかった。
 どれだけ長い間、彼女を欲していたか。それを純血を奪われただけでなく手放すなど、どうして許せようか。
 この国では、女性は、特に貴族の令嬢は唯一の男性に一生をかけて尽くすことが美徳とされる。婚約者がいながら無法者に誘拐されたとは言え伴侶に捧げるべき純血を守れなかった彼女を、周りは決して許すまい。
 そして、公爵家の嫁に相応しい淑女になる為小さなうちから厳しく育てられた○○自身も、彼ら以上に己を責めるだろう。だからこそ身を投げて自害しようとしたのだ。

 だが――――○○の目覚めは、周囲に大きな戸惑いをもたらした。

 ようやっと目覚めた○○は、記憶を失っていたのだ。
 夏侯惇は勿論、乳母も侍女も、両親や己の名前すらも全て。
 更には男を極度に怖がるようになった。父親でさえ、家族という認識が抜け落ちて、同じ空間にいるだけでも過呼吸を引き起こしてしまう。

 用いられた媚薬の副作用や凌辱での精神的なショックに身投げした時の身体的ショックが重なった結果、脳が自分を守る為に記憶を消去したのかも知れない。それでも、男に対する恐怖は拭えなかった。
 王妃の主治医の見解である。

 稀代の名医と名高い彼でも、記憶が戻るか否かは分からない。必ずとは保証出来ない。
 ただ彼自身の言葉として、このまま記憶が戻らない方が彼女の為と言った。
 男に乱暴された記憶以外を思い出せるとは限らないからだ。
 彼女が何かを思い出せば、そこから忌まわしい記憶が蘇る恐れがある。
 逆に、今まで歩んできた過去を全て手放すくらいに自身を追い詰めた強烈な記憶を最初に思い出してしまう可能性だってある。

 それを思うなら、○○に無理に思い出させるべきではない。
 ○○の誘拐は周りには伏せられ、使用人や出入りの商人などから話が漏れることを回避する為、○○が父の代理として領内を視察しているさなか事故に遭い一時意識不明の重体となったが、記憶喪失になる代わりに一命を取り留め傷も痕にならずに済んだ――――そう嘘を密かに流した。
 国王もこれは承知の上で、むしろこの話を側近達の前で切り出し公爵邸に○○を住まわせ王妃の主治医にかからせることを提案した。夏侯惇を気遣ってのこともあるが、二世代に渡って国内で最も危険な土地を守り抜いている辺境伯への信頼故の勧めでもある。

 夏侯惇も辺境伯も、これを了承した。
 夏侯惇のもとで○○の面倒を見る――――二人ともすんなりと受け入れられたのは、○○の男性恐怖症に変化があったからだった。

 当時を思い出しながら己の腕を見下ろす夏侯惇の意識を、控えめなノックの音が引き戻した。


『夏侯惇様。ご用意が出来ました』

「分かった。すぐに行く」


 部屋を出ると、○○は深々と頭を下げる。
 また頭を撫でると、目を伏せてなすがままだ。嫌がる素振りも怖がる素振りも無い。

 そう、これである。

 ○○は、夏侯惇に対しては全く恐がらないのである。
 目覚めた当初は両親同伴で○○に接していた為に分からなかったが、屋敷を訪れた際誤って廊下でばったりと出会ってしまった時、○○は驚いたような顔をして夏侯惇に近付き、触れた。
 そして、不思議そうに『この人のことは怖くない』と呟いたのだ。

 唯一大丈夫だった夏侯惇に、○○はそれだけで心を許した。夏侯惇が見舞いに訪れると、塞いだ顔も花が咲くように綻んだ。
 それが引き金になったのかもしれない。あれだけ怖がっていた実父とも、かなりの時間を要したものの親子としての会話が出来るようになっていった。まだまだぎこちないが、二人が両親だという認識も彼女の中でしっくり来るようになったようだ。

 ○○曰く、目覚めてから常に違和感が拭えなかったのだという。
 記憶が全て失われている所為で何もかもが初めてに感じてしまっても、理由も分からないのに男性を怖いと思っても、心の何処かで違うような気がして、息苦しかったという。
 それが、どうしてか夏侯惇と会った時、この人は怖くない、平気だと分かった。
 ずっと前からそうだった、信用出来る人だと頭の何処かで知っていて、少しだけ気が楽になった。
 楽になると、ほんの少しだけ、大丈夫なんじゃないかと思える余裕が生まれて、辺境伯へ抱く恐怖と、母だという女性への自分の他人行儀な対応への強い違和感を、苦心しながらも少しずつ少しずつ解いていけた。そうすると、両親への接し方がしっくり来る瞬間が増えてきて凄く嬉しかった。

 『夏侯惇様は救世主です』と真顔で言うくらい、目にする手に触れる全てが不確かな状況に置かれた○○にとって大きなきっかけになったらしかった。

 それもあってか、ここで世話になっている間は夏侯惇に尽くして恩を返すようにと両親に言い聞かされている○○は、まるで妻のように夏侯惇の役に立とうとする。
 夏侯惇の希望で婚約者だったとは教えられていない筈なのだが、自分の為に甲斐甲斐しく動く○○を見ていると、たまらなく愛おしくて、期待してしまう。
 兄としてしか認識されなかった自分を、男として見てくれているのではないかと。

 入浴を済ませた後も外出の支度をてきぱきと手伝う○○に、笑みが零れる。


「お帰りは……分かりませんわね」

「恐らくは北部の自治区で起きた部族闘争の件だろう。これ以上長期化するなら国が介入するしかない」


 北の山岳地帯には十の部族が先祖代代暮らしている。現在全てが曹操の支配下にあるが、それぞれ昔通りの自治を認められ、曹操の要請を受けて戦の際に従軍する。
 それが今になって何故か部族を統一すべきという声が上がり、自治区代表の座を争って大規模な部族闘争に発展している。

 すでに、死傷者も多く出ている。

 ○○は表情を曇らせた。


「また、戦に出られるのですか?」

「いや、下手に武力を以(もっ)て介入すれば自治区との関係が悪化する可能性がある。隣国の動きも注視せねばならない今、重要な戦力の自治区とは良好でいたい」


 その為には、武力を用いず間に入って仲裁するのが最善策。
 幸い、部族の伝統等を尊重し、戦に関しては彼らの戦い方や策を寛容に認めて軍を動かす国王、曹操の手腕をどの部族も認めている。曹操の言葉とあらば耳は貸してくれるだろう。

 その辺りは、今は外交担当に任せておけば良い。

 ただ、夏侯惇が呼ばれるということはそういう可能性も今のうちから考慮し構えておく必要があるのだろう。


「では、行ってくる」

「行ってらっしゃいませ。夏侯惇様」


 少しだけ寂しそうに微笑む○○を残し、夏侯惇は登城する。



‡‡‡




 曹操が夏侯惇を呼び出した理由は、思わぬものだった。


「……縁談、ですか?」

「ああ。そうだ」


 夏侯惇は登城してすぐ国王の部屋に通された。
 臣下が国王に部屋へ招かれるのは、内密な話をする場合がほとんどだ。
 やはり○○に話したことかと構えていた夏侯惇は、曹操の話を聞いて目を丸くし、困惑した。

 北の自治区のある部族から、夏侯惇へ唐突の縁談がもたらされたのだという。
 族長の娘と夏侯惇が夫婦になるならば、自分達はこの争いから手を引いても良いと。
 勿論それはその部族が他よりも一歩先に出る為であり、曹操としては○○という婚約者がすでにいる夏侯惇との縁談は認めないつもりだ。

 だが、○○の存在を彼らも知っているようで、彼女に危害を加えるやもしれぬと夏侯惇にこの話をしたのだった。
 かの部族は、女も戦士として槍を取る。男を巡って女同士が殺し合いするのは当たり前だ。
 それを包丁すら持ったことの無い○○にも押し付けてくる可能性は多いに有り得た。

 また最愛の○○が傷つけられるなど、許せるものか。


「すでに私の判断として断るつもりではいる。が、彼らが強引な手段を取ることは常に頭に置いておけ。必要なら、○○を関羽の側に侍女として置いてやろう」

「ありがとうございます。曹操様」


 関羽。
 曹操の王妃も北の自治区の出身である。
 猫族というのだが、半獣人の彼らは十の部族の中で最も戦闘能力が高いとされるが好戦的ではなく穏やかな気性であった。

 関羽は猫族と人間の混血で、猫族の中でも随一の武を誇る。
 確かに関羽の側にいれば安全だ。
 関羽自身の武勇のみならず、王妃を守る女性のみで構成された近衛隊が一日中警備している。武勇に優れた王妃を守るに相応しい人材を選りすぐられているから、戦闘部族だろうと簡単には○○に近付けまい。


「族長の反応次第ですが、もしその必要があればすぐにでも」

「分かった。関羽にもそのように言っておこう」

「ご迷惑をおかけします」

「構わぬ」


 曹操の話はそれだけかと思えば、彼は少しだけ言いにくそうに沈黙して、


「一番良いのはお前達が正式に婚儀を挙げることだが、その気にはまだならないか?」

「……それは」

「正式に結婚してしまえば、彼らは手を出すまい。伴侶を巡って争いはすれども、一度結ばれた夫婦の仲を引き裂くことは彼らの中では結婚を許した神への裏切り行為と見なされる」


 夏侯惇は返答に窮した。

 ○○は夏侯惇と婚約していたことを知らない。夏侯惇の希望で誰も教えていない。
 婚約者だと知れば思い出してしまうかもしれないからだ。

 それに、一生をかけて○○を守ると誓っておきながら守れなかった負い目もあって、手放したくはないが結婚には踏みきれないのだ。
 傍にいても赦されるのか、と。

 夫婦となった後に記憶が蘇って守ってやれなかった夏侯惇を恨んでしまったら――――考えただけでも身を引き裂かれるような思いである。○○のことだ、夏侯惇を恨むより真っ先に己の至らなさを責めるだろうが、『もしも』を考え出すと悪い想像が止まらない。

 そんな夏侯惇の心中を察する曹操は、諭すように言う。


「夏侯惇。○○をどうするかは早々に決めておけ。○○ももうすぐ適齢期を過ぎてしまうぞ」

「……はい」


 二年も一緒にいるが、○○が記憶を取り戻す兆しは見られない。こちらがひやりとする場面も多くあったが、○○には何の変化も無かった。彼女に演技が出来る筈もない。
 主治医ももう何をしても二度と戻らないかもしれないとの見解を示し、○○自身も二年も経てば初めてだらけだった生活に慣れて、無理に記憶を取り戻さなくても構わないと前向きになっている。

 辺境伯からも、そろそろ結婚を考えてくれないかと遠回しに話を持ちかけてくる。

 二年も一つ屋根の下で過ごしながら、適齢期を過ぎても嫁げない辺境伯令嬢……事故の後遺症があるとは言え外聞はよろしくない。


「私から○○へ新しく婚約の話をしても良いが?」

「いえ。俺の方から話します」

「そうか」


 静かに頷いた曹操へ、夏侯惇は深く一礼した。



‡‡‡




 ○○に、どう話を切り出そうか。
 夏侯惇は頭を悩ませながら屋敷に戻った。

 が、エントランスに入れば何処にいても必ず出迎えてくれる○○がいつまで経っても現れない。

 時間を考えても入浴や就寝にはまだ早い。
 何が遭ったかとヒヤリとしたモノが背筋を伝い落ち、夏侯惇は駆け出した。

 ○○の部屋へ大急ぎで向かうと、廊下で一人窓の外を見つめる○○がいた。


「○○!!」


 思わず声を張り上げてしまった。

 ○○はビクリと肩を震わせ夏侯惇に向き直る。
 夏侯惇は驚いた。愛くるしい瞳が何故か潤んでいる。

 ○○の前に立って目元を指で拭うと、○○の唇が物言いたげに震えた。
 しかし、待てども言葉が紡がれることは無い。


「○○。どうした?」

「……い、いいえ。何でもありませんわ。お帰りなさいませ、夏侯惇様。お迎え出来なくて申し訳ございません」

「そのような顔をして何もない訳が無いだろう。一体何が、」

「それよりも、夏侯惇様にお客様がお見えです」

「……客だと? こんな時間にか?」


 夏侯惇は訝しげに眉をひそめた。
 誰かが来るなど聞いていない。

 ○○は何かを堪えるような顔で夏侯惇から距離を取る。

 これにも驚いた。
 今までこんなことは無かった。

 なのに、距離を詰めようとするとその分逃げてしまうのだ。


「○○……?」

「申し訳ありません。夏侯惇様に婚約者がいらっしゃるとは知らなくて、今まで無礼な態度を……」


 どくり、と心臓が跳ね上がる。
 記憶を取り戻したのかと思ったが、それにしてはどうも彼女の言葉はおかしい。
 それではまるで婚約者が別にいるかのような言い方ではないか。


「どういうことだ? 俺の婚約者は、」

「アタシよ。夏侯惇様」


 背後に気配を感じた瞬間、その場から退くいとまも無く胸に褐色の腕が回った。

 ぞわりと駆け抜けたのは激しい嫌悪。
 夏侯惇は咄嗟に腕を振り払った。


「あら、乱暴に振りほどくなんて酷い」


 楽しげに言うのは、露出の高い独特の紋様の衣装を着た赤毛の女。
 見覚えのあるそのはっきりした勝ち気そうな顔立ちに夏侯惇は眩暈がした。


「お前が何故ここにいる」

「婚約者が浮気していないか確かめに来たの。別に女がいるなら戦わなければいけないもの」


 先程曹操様から話を聞いたばかりだというのに!
 夏侯惇は○○を背に庇って縁談の話があった族長の娘を睨めつけた。


「先程曹操様から族長から縁談を持ち掛けられたと聞いた。だが、俺はこの縁談を受ける気は無い。曹操様も、自治区の支配権を得る為の縁談だということはご存知だぞ」


 族長の娘はけろりとしたものだ。


「あらそうなの。でもアタシ、あんたが何と言おうとあんたの婚約者よ」

「なっ……!」

「だってアタシはあんたに嫁ぎたいんだもの」

「何を勝手なことを!」

「これがアタシ達の流儀よ。欲しいものは誰かが手に入れるまでは絶対に諦めない」


 恐らく、族長も断られることは予測していたのだろう。こちらからの使者が来る前に娘を送り込んで、決定事項のように迫る。
 ○○以外の異性には全く興味が無い夏侯惇には、まこと不快極まりない。
 また纏わり付いてこようとするのを厳しい表情で拒絶する。

 その後ろで、○○が泣きそうな顔をしていると、夏侯惇は気付かない。


「俺の伴侶は自分で選ぶ」

「アタシもアタシの夫は自分で選ぶわ。お似合いね、アタシ達」

「ふざけるな!」

「ふざけてないわ。至って真剣そのもの」


 族長の娘はやれやれと言わんばかりに肩をすくめて首を振る。
 夏侯惇が舌打ちして剣に手をかけると、何やら含みのある視線を投げかけて背を向けた。


「また来るわ」

「二度と俺の前に現れるな。族長には強く抗議する」

「どうぞお好きに。それでもアタシはあんたを逃しはしないわよ」


 族長の娘は蠱惑的な、勝利を確認した戦士の笑みを残し、窓を開けて外へ軽々と飛び出した。

 暫く剣の柄に触れたまま開け放たれた窓を睨み続けた夏侯惇は、族長の娘が戻って来ないと判断するや大きく息を吸って吐いた。

 剣から手を離して○○を振り返り、彼女へ深く頭を下げた。


「すまない。○○に迷惑をかけたな」

「あ、あの……先程の方は、婚約者では?」


 夏侯惇は首を左右に振って否定した。


「違う。混乱させた直後で悪いが、詳しく説明させてくれ」

「は、はい……」


 夏侯惇は自室に○○を招き入れ、曹操に呼ばれた理由と、先程の女が縁談を持ち掛けてきた族長の娘で、恐らく断られると分かっていて娘を直接送り込んできたのだろうということ、その部族の乱暴な風習など噛み砕いて話した。


「あの女が居座る間はお前にも接触してくるだろうが、何を言われても気にするな。対処はこちらでする」

「分かりました……」


 ○○は何処かホッとしたような顔で頷いた。

 その表情を見て夏侯惇は心の奥底で何かが浮上したような気がした。すぐ抑え込む。
 嫉妬してくれたのではないか――――今はそんなことを考えている場合ではない。
 ○○が危険に晒されているのだ。

 ここにいては、簡単に接触を許してしまう。

 ……城に住まわせた方が良さそうだ。
 夏侯惇は溜息をつき、再度○○に謝罪した。


「あの……」

「何だ」

「わたくし……いえ、何でもありません」


 言い止(さ)して、○○は悲しげに首を横に振った。

 夏侯惇が問い質そうと身を乗り出すと、逃げるようにソファから立ち上がって「わたくしの方でも出来る限り気を付けておきます」そう言い残して退室した。

 ○○が何を言おうとしたのかは分からない。
 が、彼女との関係に大きな亀裂が入ったことだけは分かった。

 夏侯惇は頭を抱え、テーブルに拳を叩き付けた。




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