関羽
目覚めたおれは、外の物音に寝台から起き上がった。
何かから逃げるような慌ただしく、時折乱れるリズムの足音に、扉を開けて首を巡らせる。
黒ずんだ血痕が所々に見られる重苦しい廊下を、一人の少女が必死の形相で走っていた。その傷ついたような泣きそうな顔には見覚えがある。
おれは部屋から飛び出て少女の前に立った。
少女は――――関羽ははっと足を止めて身構える。絶対に折れない不屈の闘志に敵意を乗せておれを睥睨する。
おれは彼女の背後から聞こえる悲痛な叫びに片目を眇め、左手で関羽の腕を掴み駆け出した。
「なっ」
「逃げるんだろ? 良い抜け道を知ってるから、付いてこい」
右腕をだらりと下げて、おれは走る。
関羽は困惑していたけれどもおれに大人しく従ってくれている。
まさか、《実体》を持ってこの世界を走るとは思ってもみなかった。
いや、実体を持てることすら望めなかったんだ、おれは。
だが残念ながらこれはおれの意思ではないので、あまり愉快なものでもなかった。
――――劉備が変わったのは、つい最近のことではない。
水面下で徐々に徐々に力に支配されていった彼は純白から漆黒の心へと変貌していった。
破壊の権化と言っても良い。
金眼の力は破滅の象徴だ。何もかもを壊し、絶望の恐怖を愉悦とする。
今や、劉備は金眼そのものとなってしまっているのだ。
そんな彼でもおれのことは大切だという認識はしているらしい。側に置きたがって、周囲に見えないことへ異常な憤りを抱いた。以前の幼い劉備であればそれはとても可愛らしいものだ。嬉しかった。
しかし、今の劉備はそんなものは一切感じられない。
この実体を作り出し、無理矢理におれを押し込んだのはあいつなのだ。
彼は気付いていない。
おれは死人だ。現(うつつ)の物には決して馴染まない。それに加えておれはこの世界の住人ですらない。この世界の物に馴染もうと思うことすら理(ことわり)に反しているのだ。
理に反した物は消滅させられる。
この世界に拒絶される。
魂ごと。
右腕はその証拠だ。
もう右腕は使い物にならない。服で隠れていることがせめてもの幸いだろう。関羽がこれを見たらかなりショッキングだもんな。
なるべくバレないように、今の劉備から彼女を逃そう。
下仕えの人間が行き来するような奥まった場所にある、古びた手作りの扉は、どうやら元々あった訳ではないらしい。少々不自然な場所に設置されている。この扉を出て真っ直ぐ行くと、下仕え専用の出入り口がある。
劉備はこの扉のことは知らない。だからここから逃げれば一時は見つからない筈だ。関羽の足なら十分な時間稼ぎになる。
「ほら、ここから逃げな。ここからなら、劉備は暫くは追ってこない」
「あ、ありがとう……でも、あなたは一体誰なの?」
おれは微笑んで、彼女の頭をそっと撫でた。
「……関羽。劉備を助けてやってくれ。おれはもう、あいつには何も出来ねえからさ」
「ど、どうしてわたしの名前を……?」
「それは、今はどうでも良い。あんたがここから逃げることの方が最優先」
関羽は緩く瞬き、口を開く。
「あ、あなたも一緒に逃げましょう。劉備を助けたいんでしょう? 誰だか分からないけど――――」
「駄目なんだ。おれは、この身体には馴染めなかった。だから近いうちに、おれは魂ごと消えてしまう。それにおれはあいつの友達だ。実体がある限りはあいつの傍にいてやりたい。戻るならお前だけで」
「で、でもここにいたら……!」
ぎゅ、とおれの右腕を掴まれる。
途端関羽は目を剥いて手を剥がした。
戦(おのの)く彼女におれは苦笑し、右腕を服の上から撫でる。
「ごめんな。でも分かっただろ? この身体は劉備が拙く作った実体なんだ。この身体に無理矢理詰め込まれたおれは長くは保たない。気持ちは有り難いんだがな、一人で戻ってくれ」
関羽の背中を左手でぽんと押して促す。
関羽は物言いたげにおれを見つめていたけれど、やがて数歩歩いた。
けれども走るとまでは行かずに、後ろ髪を引かれるように振り返る。
「さっさと行けって」
「……その前に名前を教えてちょうだい。助けてくれた人の名前くらい知っておきたいの」
「……」
おれは目を細めた。
後頭部を掻き、はあと吐息を漏らす。
「あー……聞いて驚くなよ」
「え?」
「□□だ。劉備が付けてくれた名前だ」
「□□――――□□?」
目を丸くする彼女に、おれは背を向ける。
「早く、出て行け。折角の抜け道の意味が無くなっちまう」
関羽の言葉を待たずに、扉を閉めて歩き出す。
劉備の悲鳴のような、関羽を求める声は止まない。
病んでしまったかのように不安定な劉備は、関羽に何を言われたのか。
暴走しなければ良いのだけれど……。
暴走してももうおれは抑止力にはなれない。
「実体を得たって、何も変わらないんだなぁ……」
劉備を助けることは何一つ出来ない。
ただ、滅びを待つだけ。
指を銜えて劉備が狂っていくその様を眺めているだけ。
……歯痒い。
劉備は親友なのに。
劉備は弟なのに。
何もしてやれない。
傍にいて、宥めてやることしか――――。
「せめて金眼の力を貰えたら、助けられるのにな」
この偽りの身体も魂も消える。
ならいっそのこと金眼の力も一緒に消えてしまえば万事解決じゃないか?
もう戻らないものもある。
本来の自分を取り戻した劉備は己のしたことに恐怖し、深い傷を負うだろう。
けれど彼の側にはおれだけがいる訳じゃない。
おれがいなくとも、猫族の仲間達がいる。
おれは結局何も出来ないのだ。いてもいなくても結果的には何も変わらないだろう。
大丈夫。劉備はあいつらが癒してくれる。
――――って、金眼の力が吸い取れないからこんなつまらないことを考えたって意味が無い。
今おれに出来ることは何だろうか。
「……関羽が逃げる為の時間稼ぎかな」
大した役にも立てないじゃん。
細く吐息を漏らし、おれは扉を後にする。
●○●
続きましたが、関羽夢になってしまった。
そして続くフラグ。
本当に短編苦手だなあ、私。
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