だから、曹操様。あなたに人間の耳が無いことを知っても、二人きりで誰の耳も無い所でそれを追求してあなたが混血であることを知っても、わたくしは何も気になりませんでした。
 むしろあなたの悲しい身の上を聞いて、あなたの心を少しでも温めてあげられたら、あなたが安らげる場所をお作り出来たらと、わたくしに出来ることを何でもして差し上げたいと思っておりました。
 己の血に囚われることは無いと、曹操様は曹操様の思うように曹操様の道を歩んでいけばよろしいのですと、わたくしはあなたにお伝えしました。だって、血などに関係なく曹操様は本当に素晴らしい方ですから。
 わたくしはあなたに妻に求められて、本当に、本当に嬉しかったのです。

 けれど、結局はわたくしの想いは全て、あなたの心へは届いていなかったのですね。
 あなたはわたくしを捨て、同じ混血の関羽さんを取った。

 わたくしに対する気持ちは微かにも残っておられないのですね。
 よく分かりました。

 もう、考えることは止めましょう。
 疲れてしまいました。

 下仕えの少女が心配そうな顔をして食事を持ってきてくれましたが、空腹でもなく食べる気になれず持って帰ってもらいました。

 ぼろぼろで、散らかった部屋の中で、わたくしは寝台に横になりました。



‡‡‡




 人間とは、存外丈夫な生き物なのですね。
 食事を一切摂らなくなってからもう十日を過ぎておりますが、気怠い以外には特に不調はありません。
 ただ、一日に何度も寝台で寝るようになりました。
 眠い訳ではないのですが何が無くても寝台に横たわっています。

 あれから曹操様は部屋にお出でになっておりません。関羽さんもです。曹操様がお許しにならないのでしょう。
 わたくしの動向は気になるのか、下仕えの少女が仕事の合間にわたくしの様子を見に来るようにはなりました。

 時間がある時には部屋を片付けてくれようとしてくれますが、そこまでさせるのは申し訳ないのでやんわりと断っています。
 断っているのですが、わたくしが眠っている時に少しずつ少しずつ片付けてくれているようです。
 目に見えて物が整理されています。

 今度、お礼を言わなければいけませんね。

 あの子と接している時、あの子のことを考える時は、心はとても穏やかです。
 申し訳ないのですが、この部屋に来てくれることを心待ちにしている自分がいます。

 昼間に寝台で眠っていたわたくしは近くで物音がするのに覚醒し、嗚呼、あの子が来てくれたのだとほっとして目を開けたのです。


 そこに下仕えの少女はいませんでした。


「え……」

「……あっ、お目覚めになられたんですね」


 関羽さんです。
 四つんばいになって床を拭きながら、わたくしにやや強張った笑顔を向けています。


「……何を、しているの」


 絞り出した声は震えていました。

 関羽さんはわたくしに頭を下げて言うのです。


「わたしが驚かせてしまったから、そのお詫びにと思って。刺激しないように寝ている間に少しずつ掃除をさせていただきました」


 体温が、急降下していきます。

 今、彼女はこう言いました。
 この部屋を片付けていたのはあの下仕えの少女ではなく、自分なのだと。
 曹操様のご寵愛を受けながら、わたくしの世話を焼いて優越感に浸っていたと言うのです!
 無防備に眠って醜くみすぼらしい姿を晒していたいたわたくしを、嘲笑っていたのかもしれません。

 関羽さんはとても鮮やかな美しい装いをしています。
 反対に、わたくしは何回も何回も着て色褪せくたびれた継ぎ接ぎだらけの服。
 曹操様にいただいた服は全て曹操様に取り上げられてしまいましたから、故郷から持ってきた服しか、わたくしは持っていません。
 曹操様にいただいた物は何でも覚えています。そのくらい、嬉しかったですから。
 関羽さんが着ている服は、わたくしが曹操様から最初にいただき、勿体なくて大切にしたくて一度も袖を通さずにいた服なのです。

 なんて惨めなのでしょう。

 身体が震え出しました。
 悔しくて悲しくて涙も出て来ません。

 今の顔、関羽さんに見られたくない。
 俯くと関羽さんがうろたえたような声を上げてわたくしに近寄って来るのです。


「だ、大丈夫ですかっ? ご飯食べていないんですよね? わたし、お医者様を呼んで、消化の良いものを作って来ます。それまでもう少し横に――――」


 関羽さんの手がわたくしの身体に触れた瞬間、今まで奥に閉じ込めていた衝動が爆発してしまいました。

 乾いた音がしました。
 右掌が熱く、じんじんと痛んでいます。

 関羽さんはわたくしに向けていた顔を斜め下に向けて茫然と固まっています。


「……出て行って。今すぐ」

「え……」

「わたくしの前に現れないで。曹操様をわたくしから奪っておて、まだ足りないというの? わたくしを嘲笑わないで!」

「あ……そんな、わたし、嘲笑ってなんかいません! 曹操を○○さんから奪ってもいません! わたし、曹操とは……」


 もう一度、わたくしは関羽さんの頬を平手打ちしました。


「そんな見え透いた嘘、信じられると?」

「本当です! 同じ混血だからずっと一緒にいるのが正しいとは、わたしは思いません。曹操は自分から求婚したと聞きました。その為に何度もあなたの家に通っていたとも。それくらい好きだったのにたかだか血なんかでひっくり返すなんて……」

「血『なんか』じゃない!!」


 わたくしは関羽さんに手を伸ばし、襟を掴んで大きく揺さぶりました。


「曹操様にとって、血は『なんか』片付けられる問題ではないの! 曹操様がどんな気持ちで今まで生きてきたか、あなたは知らないからそんなことが言えるのよ……! あの方にとって同じ混血という存在がどれだけ重要な意味を持つか……」

「○○さん……あなたは、」

「お願いだから消えて。この部屋に入ってこないで。ここはわたくしの唯一の居場所なの。ここに来て、惨めなわたくしを嘲笑うのは止めて……見下すのは止めて……もう放っておいて……」


 関羽さんを突き飛ばし、わたくしは寝台に俯せました。
 あなたのその態度は上辺だけのものでしょう? 心の奥では曹操様の不変の愛を得て喜び、滑稽でみすぼらしいわたくしを嘲笑っているのでしょう? その服を着ているのだって、わたくしに対する当てつけなのでしょう?

 何もかもを失ったわたくしを、あなたは……あなた達は何処まで追い詰めれば気が済むの?

 憎い。
 関羽さんが憎い。
 関羽さんを構成するものは何でも憎い。

 何もかもが、この世の全てが憎い。
 曹操様も、曹操様に従う者達も、曹操様に好意的な者達も、それ以外の人間達も。



 全て、全て、消えてしまえば良いのです。



 わたくしは、また寝台で寝ていました。
 関羽さんが部屋の中からいなくなっていて、ほっとしました。

 ですが、関羽さんに手を出してしまったのですから、きっと曹操様がじきにいらっしゃるでしょう。

 その時には、わたくし、首を落とされてしまうかもしれませんね。


「わたくしを妻にと求めてきた曹操様の手で、わたくしが死ぬ……ふふふ」


 笑えてきます。
 嗚呼、なんておかしいのでしょう。
 曹操様がわたくしの人生を最後まで左右している。

 なんて……なんておぞましい……。

 寝台に放置されたままの匕首を手に取り、刃をそっと撫でました。

 そうしていると、思った通り曹操様が足早に部屋へいらっしゃいました。


「○○! 貴様、何のつもりだ!」


 激しく取り乱した曹操様を見るのは、初めてです。
 わたくしのことで、こんな風にはならないでしょう。


「ようこそお出で下さいました。曹操様。何用でございますか」


 問い掛けるわたくしの咽に、銀色の刃が突きつけられました。
 とても冷たい眼差しです。でもその奥には怒りの焔が揺れています。

 今の、わたくしに動揺はありませんでした。悲しみも、寂しさも。
 胸の奥にあるのは――――。


「これは何のおつもりですか」

「私の関羽を心身共に傷つけたのは、○○、お前だな」

「あら……わたくしの名を覚えておいでだったのですね。忘れておいでだと思っておりました」

「ふざけているのか?」

「いいえ。関羽さんの頬を叩いたのは事実です。が、心も傷つけたとは心外ですわ。あなたも関羽さんも、わたくしを嘲笑っておいででしょう。愚かな人間の女だと」


 刃を掴み、自分の頸動脈の辺りへ移動させます。
 曹操様は軽く目を見開いて、しかし手を動かさずにいます。


「動かさないのですか? わたくしの存在など邪魔で邪魔で仕方がないのでしょう? 曹操様に求婚されてわたくしはあなたに嫁いできました。あなたを心から愛し、茨の道を歩むしかなかったあなたの癒しとなろうとしてきました。そのわたくしよりも、もっと素敵な伴侶を見つけられたのですものね」


 わたくしは微笑み刃を掴んだまま立ち上がりました。足元に匕首が落ちました。

 曹操様が動かそうとしたのを、わたくしの手が逃しません。
 おかしいですね。刃で掌が切れて血が流れてきているのに、痛みが無いのです。
 どうしてしまったのでしょう。


「……○○……?」

「所詮わたくしは人間ですもの。あなたが愛してくれた分以上のものを返したくとも、無理だったのですね。仕方がありません。ええ。仕方がありませんわ。仕方がないことなのですから、わたくしはもう足掻くことも縋り付くこともしません。その方が良いのです」


 ですが曹操様。愛する曹操様。
 あなたはわたくしの故郷の伝説をご存じないでしょう。
 ご存じないなら教えて差し上げましょう。


「ねえ、曹操様。我が故郷と神と崇める存在のことは、覚えておいでですね?」

「待て。今更何を言い出すのだ?」

「村人は皆、神様から様々な恩恵を受けております。わけてもわたくしは、恐れ多いことに実の娘のように目をかけていただき、神様にお目通りを許されております。遥か古よりそういった娘のことを、村人は《神の娘》と呼びます。伝説では、この神の娘を娶った者も同様に神の守護を受け、子孫繁栄を約束されるそうです。反対に、神の娘を蔑ろにすれば――――」


 その者に待つのは悲惨な末路。
 そこでつい、小さく笑ってしまいました。


「わたくしは曹操様に愛されて、本当に幸せでした。ですから、曹操様の繁栄は確実なものであると、確信してお側にいたのですよ? それなのに……こんなことになって、本当に、残念でなりません」


 刃から手を離すと、曹操様は剣を下げわたくしから数歩距離を取ったのです。


「怖じ気づいたのですか? 所詮人間の女でしかないわたくしに。でも、そうですね。曹操様ならこのような話を、信じる筈がありませんね。今のお話はどうかお忘れ下さいまし」


 わたくしは扉の側に移動して、曹操様に笑いかけます。


「さあ、曹操様。わたくしなど捨て置き、関羽さんのもとへお行き下さいな。ここで時間を無駄に過ごすより、わたくしよりも大事な大事な同胞を慰めて差し上げては?」

「……どうしたのだ。○○」

「え?」

「今のお前は、昔とまるで違う」



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