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離れていく靴音。隣の部屋の扉が開き、閉まる音。
その後、静寂が入る暇を置かずに孫権様が私を呼んだ。
「○○殿」
いつも大切そうに口にしてく下さる私の本名。
それにまたほっとしながら、孫権様に向き直った。
「封英のことだが。彼女の両親に許可を取り、正式に○○殿の侍女に据えることとなった。ただ、婚儀を妨げた罰は受けてもらわねばならないが……一月程度の謹慎と女官長の再指導で済ませるつもりだ。彼女の縁談も、一旦は白紙に戻されるだろう」
「……っ、ありがとうございます、孫権様」
「封英が、あなたに『申し訳なかった』と」
「封英さんが?」
封英から話を聞いた女官長様が言うには、誰よりも孫家に近い立場にいたかった父親に、小さな頃から必ず孫家に嫁げと厳しく理不尽な教育を強いられ、女官として城に奉公していても父親の目があり、絶えず圧力をかけられていたらしい。
それが孫権様が私を娶ると仰ったことで、父親は封英さんをいないもののように扱い始めた。
かと思えば、わざとらしく封英さんの側で妹達の自慢をして責めることもあったそう。封英さんは先に嫁いだ妹達にも嘲笑されているようにも思え、だいぶ追い詰められていたとのこと。
今は幾分か落ち着いていて、自分のしたことに反省と後悔を覚え始めているそうだ。
謹慎中は女官長様の屋敷で休ませ、落ち着いてから再指導を経て侍女に復帰する予定だ。
それまでは尚香様の侍女の方々が交代で私の世話をして下さるそう。一人でも大丈夫なのだけど、立場上、そういう訳にはいかないみたい。
孫権様は、彼女の話から私の首を引っ掻いたのが封英さんだとご存じだろう。
封英さんが私にしたことは、孫権様のご意思に逆らうこと。
孫権様は、封英さんを――――。
「あの、孫権様。封英さんへの処罰はそれだけ……なのですよね?」
確かめてみる。
孫権様は頷いた。
「少なくとも、正常な判断が出来ない状態のうちは。精神状態が回復し次第、女官長が指導しつつ態度を見定めることになる」
「では、それに問題が無ければ……」
「私から何かをする必要はなくなるだろう。以降、封英はあなたの管理下に置かれる。勿論、封英以外に女官長が選んだ侍女が明日よりつけられる」
分からないことは侍女の方々に訊ねるようにと言って、孫権様は私の頬に触れた。すっと首筋に降りて、うっすらと残る傷痕を撫でる。
何か言われるのではと思いきや、孫権様は何も言わず無言で手を引いた。
「突然のことで疲れただろう。今日はもう、休もう」
言って、孫権様は寝台へと近付いていく。
この話は完結したと言われているように聞こえて、私はその場に座り込んだ。
孫権様が気付いて慌てて戻ってくる。
「○○殿。どうした?」
「大丈夫です……ほっとしたら、身体から力が抜けてしまって……」
孫権様に支えられて立ち上がり、寝台に腰かける。
「良かった……本当に……」
胸を押さえて吐息を漏らすと、孫権様が私の背中を優しく撫でてくれた。
孫権様を見ると、とても優しい目をされている。
その目を見ているうち、私はふと質問したくなった。
「孫権様。一つお訊きしてもよろしいですか」
孫権様は微かに首を傾け、先を促した。
「私は……私には、あなたの妻になるに相応しい価値があるのでしょうか」
孫権様の瞳が揺れた。ほんの少しだけ、眉が下がったのに、私は慌てて続けた。
「決してあなたの妻になることが嫌なのではないのです。むしろ、これは夢なのではないかと疑ってしまうくらいとても嬉しくて……。今のは、価値に執着していた幼い私を思い出して、ふと訊いてみたくなっただけなんです。本当です」
特に深い意味は無いのだと弁明すると、孫権様は何とか納得してくれた。
ほっとする私に、あまりの間を置かずに。
「あなたは、私などには勿体ない女性だと思っている。……私は○○殿を妻に迎えられるような男だろうかと不安に思う程に」
「え? ……不安?」
思わぬ答えに驚いた。
孫権様は頷いた。
「私は、父上や兄上と比べるべくもなく君主としてまだ未熟。臣下の中に、私が罰を与え許したあなたを今なお責める者がいるのも、私の未熟さが周りに心配をかけているからに他ならない。婚儀を済ませ夫婦となった今、彼らももうあなたを責めはすまいが……私が未熟でなければ、彼らも私を信じあなたを責めはしなかっただろう。まだ人の上に立てる器でない私は、果たして○○殿の夫として相応しいのか……あなたの問いを受けて、そう思った」
「そんなことは絶対にありません」
「あなたは優しく純粋な方だ。だからこそ、以前のことを今でも気にしているのだろう。私はそんなあなたに惹かれた。受けた仕打ちを許し封英のことを必死に庇ったあなたの心の広さを目の当たりにして、あなたがより愛おしい」
いつの間にか背中を撫でる手は止まっている。
孫権様は私の目を真っ直ぐに見つめて逸らさない。
あまりに真っ直ぐで、彼の視線から目が逸らせない。何も言えない――――。
「私は、愛するあなたの隣に、誰よりも近い場所に立つに相応しい男になりたい。誰にも奪われぬように。価値をつけなければならぬなら、私にとってあなたはそう思わせる程に尊い女性だ」
背中を押さえるだけだった手に力がこもる。
逆らわずに孫権様に身を寄せると、もう片方の手も背中に回った。
孫権様の体温に包まれる感覚。私は、目を伏せ身体から力を抜いた。
この価値に執着していたいと思った。
この価値をずっと守っていたいと思った。
それくらい、孫権様の言葉が嬉しくて、尊く思えた。
「……孫権様。私は、孫権様を心からお慕いしております」
と、孫権様の腕がぴくりと震える。
彼の背中に手を回し、
「愚かなことをお願い申し上げます。もう罪を償ったと思って、あなたのお傍であなたに一生尽くしてことだけを望んで生きていくことを、どうかお許し下さいまし。私などでは、大した支えにはなれないでしょう。それでも、私は死ぬまであなたの傍にいたい……」
言った途端、今までずっと抱えていた罪悪感が不安感に代わって一気に押し寄せる。
孫権様の寝衣を握り締めた。
「顔を上げてくれないか」
孫権様が囁いた。
顔を上げた私の額に口付けて、孫権様は、嬉しそうに微笑んだ。少しだけ、頬が赤い。
「ありがとう」
その一言だけで、不安が全て払拭される。
私も、目頭が熱くなりながらも笑い返した。
そして、どちらからともなく顔を近付け、口付けを交わす。軽く、啄(ついば)むように何度も、何度も。
自然と身体が傾ぎ、寝台に倒れ込む。
私の足を持ち寝台に上げた孫権様が私の隣に横たわり、私の身体に腕を回す。
お互い身を寄せ合って、相手の優しい体温を感じながら、目を伏せた。
初夜にも関わらずただ添い寝するだけの夜だったけれど、私は構わなかった。孫権様も、きっとそう。
肌を重ねるのは後でも良い。
孫権様の心に寄り添えるだけで、私は十分幸せだった。
幸せを噛み締め、私達は眠ったのだった。
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