婚儀を早めたら、彼女がどんなことをしてくるか――――そう思うと、怖くなるよりも先に悲しくなった。
 どうしてなのかは、やっぱり分からない。

 駄目。早めてしまっては絶対に駄目。


「予定を戻していただけるよう、私から孫権様にお願いしてみます」


 言って、少し考えた。
 孫権様の前に周瑜様か黄蓋様に相談させていただいた方が良いだろうか。

 訊ねてみると、尚香様は渋面を作った。


「本当に、本当にお姉様はお嫌ではないのですね? お兄様との結婚が……」


 確かめるように慎重に問いかけてくる尚香様。
 少し間を置いてしまったけれど、私は頷いて返答した。

 それにも彼女は少しだけ不満顔になってしまったものの、何も言わずに引き下がってくれた。

 そのことに感謝しつつ、私はこっそりと溜息をついた。

 どうして、突然婚儀が早められることになったのか。
 原因は多分……先日の女官につけられた首の傷だ。
 周瑜様はやはり、孫権様に報告してしまったのだろう。ご自身が察したことを。

 だから、予定を早めて私を孫権様の妻に据えることで、誰も手出し出来ないようにするつもりなのだと思う。

 でもそれは逆効果。
 それに、孫権様に家臣の方々を捨て置いて私を優先させてしまうことになる。

 何とか、止めていただかなければ……。
 私は俯いて膝の上で拳を握り締めた。

 と、その時だ。


『尚香。練師殿はいらっしゃるか』


 扉越しに聞こえた穏やかな声に心臓が跳ね上がる程驚いた。


「あら、お兄様。おね――――練師なら、ここにおりますわ」


 尚香様が返した後、ややあって扉が開く。

 孫権様は部屋の中を軽く見回し、私に目を留めた。
 一瞬首筋を見たのは、きっと気の所為ではない。


「練師殿。あなたに話したいことがある。少し、時間をもらえないか」


 婚儀の日程と、……きっとこの傷についてだろう。
 「分かりました」私は頷き、もの言いたげな尚香様に一礼して立ち上がった。

 孫権様に連れられて向かったのは、彼の私室。

 私を先に部屋に入れ、扉を閉めてから「○○殿」私に手を伸ばし、首筋に触れた。
 瞬間、私は肩を縮めてしまう。

 何とか見えないように襟で隠したそこには、包帯を巻いている。
 傷の場所を探すように、しかし痛みを感じぬようそっと撫でる感触に、身体が強ばりっ放しだ。

 そんな私に気付いたのかはっとした様子で手を離すと、孫権様は座るように促しご自身は私の正面に座った。


「○○殿。婚儀が早まったことは尚香から聞いていると思う」

「はい。先程伺いました」

「あなたなら、何故早めたのかも、お分かりの筈」


 少し反応が遅れてしまったけれど、私は頷いた。

 孫権様は私を見据え、


「今後何があろうと私はこの決定を変えるつもりはない。○○殿には、こちらの方針に従っていただく」

「あ……え?」


 思いがけず、強固な言葉だった。

 何とか日程を元に戻していただこうと思っていた私は中途半端に口を開けたまま、固まってしまった。

 孫権様は間抜けな顔をしているだろう私をじっと見つめていたかと思えば、突然頭を下げた。


「えっ? あ、あの、孫権様……?」

「これ以上、あなたの目に臣下の醜態を晒す訳にはいかない。この判断は、○○殿を守る為というより、外部の人間に恥を晒さぬようにする為に下したものだ」


 私は慌てて首を横に振った。


「しゅ、醜態だなんて……っ。皆様、呉や孫権様達のことを思ってのことなのですから、決して恥じ入るようなものではありません。元はと言えば、私達が、」

「その件については、私が直接あなたに罰を下したことで終わりとした。そのように臣下から下仕えまで私の口から伝えている」


 そこで、孫権様の視線が私の首へ。

 私は反射的に女官に引っ掻かれた場所を、彼の目から隠すように押さえてしまった。


「言葉や態度だけならば私はあなたの意思を尊重した。正式に私の妻となるまでのことだと。だがその身を傷つけられては、私の意向に逆らい私刑に走ったと判断せざるを得ない。私への叛意も疑い厳罰を与えなければならない」

「そ、そんな……」


 私は大丈夫です。
 そう言ったとしても、孫権様が挙げている問題の中心は私ではない。

 でも、私に厳しく当たる方々に叛意などある筈がない。
 それを孫権様だって分かっておいでで……。

 私達一家が関わらなければ、起こらなかった事態だ。
 私は俯いた。


「申し訳ありません……私達が孫権様達に関わらなければ、このようなことには」

「元々縁談を持ちかけたのはこちらだ。国の為、この地の名士との関係を少しでも改善する目的であなたの家から妻を娶ることにした。孫家が疎まれ軽んじられることは初めから分かりきっていたこと。それでも孫家が呉の君主として立つには彼らの存在を無視してはならなかった」


 孫権様は厳しい処罰を私にも家族にも課した。
 詳しい内容は聞けなかったけれど、彼らの処罰は死罪でも追放でもなかったそうだ。
 悪化した名士との関係を修復する為に、孫権様達は今もなお苦慮されている。

 本当なら、私達一族にもっと重い罰を与えたかっただろうに……孫家の立場がそれすら許さない。


「申し訳ありません……」


 孫権様は静かに首を横に振った。


「この件については私がまだ未熟であるが故に起きたこと。あなたではなく、私が対処せねばならない問題なのだ。あなたの所為にしては、今は亡き父上や兄上に申し訳がたたぬ。……この国の君主として、私は臣下にも厳正でいなければならない」

「孫権様……」


 孫家様は私の言葉を拒むように、私などに対して深々と頭を下げた。



‡‡‡




「珍しいのう。練師から儂に話しかけてくるなど」


 苦笑混じりに言うのは、黄蓋様。

 私は頭を下げてまず突然呼び止めたことを謝罪した。

 私が見かけた時足早に何処かへ向かうところだった黄蓋様は、気分を害した様子も無く、「気にするな」優しい言葉をかけてくれた。


「それで、儂に何か用かな。婚儀のことならば、儂ではなく孫権様や周瑜に……」

「あ、いえ。その件については、先日孫権様に……」

「では……?」

「あの、実は……内密にお訊ねしたいことがあるんです」


 黄蓋様は、僅かに首を傾けた。

 私が訊ねたいのは、あの女官のこと。
 この数日、彼女からの接触がぱたりと途絶えた。
 彼女といつも一緒にいる二人の女官の姿はたまに城内で見かけるけれど、彼女だけは全くだ。

 怖いと思いつつ、だけどどんなことをされても嫌いになれないのは今でも変わらない。
 だからか、姿が見えないのがどうしても気になっていた。

 名前を知らないので見た目で説明するしかなく、なるべく記憶通りに細かく伝える。
 黄蓋様は顎のお髭を撫でながら私の話を聞いてくれた。

 そして、私の話が終わった時、どうやら理解してくれたようだった。


「彼女なら、今、病で臥せていると聞いたが……」

「え、ご病気なのですかっ?」

「彼女の父親が、女官長にそのように話しておったらしい。彼女がどうかしたか?」

「いえ……最近お姿が見えないので、どうしたのかと思って……黄蓋様。お忙しいところ、お答え下さってありがとうございました」


 私は黄蓋様に頭を下げ、背を向けた。
 けれど、


「待ちなさい」

「? は、はい……」


 一瞬、追求されるかと思ってひやりとした。
 けども振り返って見た黄蓋様の顔は、予想外に穏やかだった。


「何でしょう……」

「そなたは、もう罰を下されておる。いつまでも左様に自身を責めるでない」


 孫権様が自ら選んだ女性なのだと、自信を持って良い。
 黄蓋様は優しい笑みを浮かべて、温かな言葉をかけてくれた。

 私は、すぐに言葉を返せなかった。

 黄蓋様は私に軽く頷きかけ、私の頭を撫でた後足早に立ち去っていった。

 小さくなっていく彼の姿を見つめていると、後ろから記憶に新しい、はしゃいだ高い声が聞こえた。

 私は、咄嗟に近くの角に駆け込んでしまった。

 だって――――あの女官と一緒にいた二人だったから。

 気付かれないよう曲がった先の柱の影に隠れる。

 二人の女官の話題は、どうやら彼女達の知人のことのようだ。


「ねえ、聞いた? 封英のこと」

「聞いたわ。彼女、お父君の決めた名士に嫁ぐことになったそうね。お相手は……確か五十を超えた方だとか。病気で臥せているなんてことになっているけれど、縁談が持ち上がった途端逃げ出そうとしてお屋敷に監禁されているそうよ」

「本当、可哀相ね。孫権様に嫁ぐ為に妹達に先を越されて、孫権様が別の女を娶ることになったら抱けるなら女を選ばない好色家の妻にされるんだもの。今頃、お屋敷で何をしているのやら」

「ああ、良かった。私達には同年代の素敵な婚約者がいて」

「そう? まだ女としての役割は果たせるんだから良いんじゃない? ま、あたしはあんな脂ぎった醜い大男と閨事(ねやごと)なんて、死んだ方がましだけど」

「でもあの子、物心ついた時から孫策様に嫁ぐ為に育てられたそうよ。孫策様がお亡くなりになられて、孫権様も別の女に……私だったらもう命を絶っているわ。今まで守ってきた自分の価値が無くなってしまったんだもの」

「そんな度胸、あなたには無いでしょう?」

「ええ、無いわね。冗談よ」


 くすくす。
 くすくす。
 くすくす。

 声を押し殺す必要も無かった。
 彼女達の《とても愉しげ》な声音に、私は声が出せなかった。


 封英はきっと……彼女のこと。


 仲が良い三人だと思っていたのは、私だけだったようだ。
 いつも一緒にいる人のことを、あんな風に言えるなんて……。

 私はふらりと柱から離れ、彼女達の会話から逃げた。

 自分の部屋に戻って、寝台に座る。
 まだ侍女の仕事がある。すぐに尚香様のもとに戻らなければならないのだけれど、先程の会話が頭にこびりついて離れなくて、それどころじゃなかった。

 それに……私が彼女を憎みきれない理由が、分かってしまった。


 彼女が、自分の価値に執着していたからだ。


 孫策様、孫権様に嫁げなくなれば、今まで培ってきた自分の価値が、無に帰してしまう――――。
 それが嫌で……いえ、恐ろしかったのかもしれない。

 私も、その気持ちが理解出来る。

 まだ幼かった頃、必死に家族に捨てられなくて家族から罵倒し見下す相手としての価値であっても守ろうとしていた時期があった。
 早くに虚しくなってなって諦め、今ではもうそんなことはなくなった。


 封英さんは?


 本来予定されていた相手ではないけれど、別の、ずっと年上の男性に嫁ぐことになった。

 でも逃げ出すくらいに嫌で、今、監禁されていて……。

 彼女はどんな思いで過ごしているのだろう。

 思いを巡らせていた私は、心配した尚香様が部屋を訪れるまで、ずっと考え込んでいた。





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