実の家族と絶縁となった私は、孫堅様の代からの宿将である黄葢様に養女として引き取られることとなった。

 孫権様に嫁ぐ者に相応しい教養を身に付ける為、尚香様の侍女に加えられ、日々女官長様や黄葢様から厳しいご指導を賜(たまわ)っている。

 元の家族との繋がりを断絶した証左として名前を『歩練師』に変えた。
 民の間では孫権様が歩練師と言う娘を見初めて妻にと乞うた為、黄葢様が養女に迎え尚香様の侍女にあてがった、ということに表向きはなっている……らしい。

 だから、皆私のことを練師と呼ぶ。尚香様も、周瑜様も。

 ただ一人、孫権様だけが、二人きりになった時に私の本来の名前を呼ぶ。
 まるで、特別な言の葉を口にするかのように、とても慎重に、とても大切そうに、私の名前を――――『○○殿』と。

 孫権様に呼ばれると恥ずかしさや罪悪感を感じるよりも、凄く、凄く安堵するのは、きっと練師と呼ばれる度に、自分の犯した罪を思い出し心も身体も酷く緊張してしまうからだろう。

 私の家族は、孫家を見下し、決して赦されないことをした。私も立派な共犯だ。

 だのにこんな私を赦し、娶(めと)りたいと仰った孫権様。
 彼から与えられた罰はあまりにも甘い。
 だから、私は彼へ一生をかけて償い、返しきれない恩を返し続けなくてはならない。

 その為に、私はこの優しい罰を受け入れることを決めた。

 勿論、私に対して辛辣に接する方はとても多い。臣下の方々は言うまでもなく、女官の大半も私の罪を赦していない。直接的、或いは間接的に、私に城を出て欲しいと言う。

 彼らの主を見下し欺き、侮辱したのだから当たり前だ。
 これも私に対する罰だ。

 彼らにも、私は償わなければならない。
 それが、彼らの言葉を受け入れるだけではまったくの不足だけれど、私の頭ではそれ以外に思い付かない。

 だから、私は面と向かって言われる時には彼らの気が済むまで黙って受け止めることに決めている。辛くとも、それだけのことをしたのだから、これは義務だ。

 孫権様達も、そのことにきっと気付いておられると思う。
 私の意思を尊重して下さっているのか、止めろとは誰も仰らないし、彼らを咎めることも無い。
 代わりに、別のところで気を遣って下さった。

 本当に、有り難いこと。

 彼らの優しさに甘えすぎてはいけないと分かっていても、自分の心に今まで無かった芯が通ったっているように思えた。
 私の勘違いでも良かった。
 その勘違い一つで、情けない私は逃げたいと思わずに全ての言葉を受け止められるのだから。


「あなたのような咎人が孫権様に嫁ぐなんて、身の程知らずも甚だしい」

「卑しさが顔に滲み出ているようよ。そんな見目で、孫権様の妻になるつもり?」

「黄蓋様も黄蓋様だわ。どうしてこんな人間を養女に……しかも孫権様に嫁がせることに反対もしないなんて!」


 苛立ちを露わに私の前に立ちはだかるのは、三人の女官。
 三人共、私とそう変わらない年齢で、私なんかよりも綺麗な女性だ。私へ直接厳しい言葉をかけてくる人達の中では、特に頻繁に会っていると思う。

 彼女達はそれぞれ孫堅様の代から仕えていらっしゃる武将のご息女。私と違って些細な所作一つにも気品があるし、孫権様と尚香様を心から敬愛している。
 だからこそ、私のような女が孫権様に嫁ぐことを許せないのだろう。

 周瑜様がよく、『うちは一枚岩じゃないから』と仰るけど、全然そんなことはない。孫権様も尚香様も周りの方々に凄く慕われていると、侍女をしているとよく分かる。

 孫権様に私が嫁いでしまって、本当に良いのだろうか……孫権様達の為に私を排除しようとする彼らの言葉を聞いていると、どうしても怖くなってくる。
 口にしてしまえば、優しい孫権様達にやんわりと否定されるのだろうから、絶対に言えない。

 ああ、姉のあの自信が少しでも私にあればもっと堂々と立ち向かえたのかもしれない。
 今さらそんなことを考えたって詮ないことだけど。


「ちょっと、聞いてるの?」

「はい。聞いております」

「……」


 女官の一人が目を細める。

 怒らせてしまったかもしれない。背中に少しだけ力が入ってしまった。

 女官は冷たい眼差しで私を睨み、ふと私に近付いた。

 無言で視線を交わすと突然襟を掴まれて引き寄せられた。
 間近で、ぞっとするくらい低い声で囁かれた。


「孫権様に嫁ぐなんて止めて、早急にこの国から消えなさい。でないと私……何をするか分からないわよ」

「……っ」

「あそこは、あなたがいなければ私が立つ場所だったの。咎人のあなたごときが私の人生を邪魔するなんて、絶対に許さない……」


 冷めきった目の奥に、強い憎悪が燃え盛っている。
 彼女は本気だと、私でも分かった。

 言葉を返せずにいる私の襟を放した瞬間、首に爪を立て、がり、と皮膚を引っ掻いた。
 出そうになった声をすんでのところで堪えると微かな舌打ちが聞こえた。

 女官は私を突き飛ばし、鼻を鳴らしてきびすを返した。大股に歩き去っていくのに、他の二人も私へ蔑視を残しついていく。

 あの二人には、彼女の言葉は多分聞こえていない。私にどんな眼差しを向けていたのかも、分からなかっただろう。

 引っ掻かれた首筋に触れると、微かにぬるついた。
 視認すれば指の腹にうっすらと血が。
 確認した途端、傷がぴりぴりと痛みを訴え出した。

 肉体へ攻撃されたのは今回が初めてだ。
 何をするか分からない――――この傷は彼女の脅しが嘘ではない証左。

 彼女の本気が怖い、そう思う。

 だけど、どうしてだろう。


 何だか私、彼女のことを憎めない……。


 血が乾いていく指を凝視し、私は暫くその場を動けなかった。
 金縛りに遭ったような私を元に戻したのは、


「練師? 廊下の真ん中で何突っ立ってるんだ?」

「……! あ……」


 たまたま通りかかったらしい、周瑜様の不思議そうな声だった。

 私は咄嗟に周瑜様を振り返り――――しまった、と首筋を押さえた。傷口を擦ってしまって強い痛みが走った。顔が、ほんの一瞬だけひきつってしまった。

 周瑜様の目が、怪訝に細められる。
 彼の金色の瞳は、私の首筋に向けられている。


「おい、アンタ、それは……」

「も、申し訳ありません……その、む、虫刺されが、痒くて、つい……」

「虫刺されだって? 虫刺されであそこまで引っ掻くか?」


 ああ、やはり見られていた。
 あくまで虫刺されで引っ掻いてしまったと通しきろうと、頭を働かせる。

 けれど、


「あっ」


 腕を捕まれ、首筋を剥がされる。
 顔を少しだけ近付けられて、背筋がひやりとした。

 周瑜様は目を丸くした。


「……って、酷いじゃないか!」

「だっ、大丈夫ですっ。大丈夫ですから……!」


 掴まれた腕をやんわり剥がし、何度も何度も頭を下げ『大丈夫』を繰り返してその場から急いで逃げた。

 私室に駆け込み、暫く外の様子を窺う。
 どうやら、周瑜様は追いかけてこなかったらしい。胸を撫で下ろす。
 でも、よりにもよって周瑜様が現れるなんて……しかも傷を見られるなんて!


「周瑜様、酷いと仰っていた……」


 あの驚きよう……もしかして虫刺されを引っ掻いたという理由では無理があったのだろうか。
 恐る恐る傷を触って確かめてみる。

 ぼこりと盛り上がった固まりかけの血の感触が、思ったよりも長く横に走っている。
 瘡蓋で正確な状態は分からない。
 鏡で確認してみると、赤黒い太線が。そこから、二本程赤い線が下へ少しだけ垂れている。
 一カ所だけ垂れた赤が薄く横に擦れているのは、私が触れたからだろう。

 それだけではなく、その上下にもうっすらと赤く引っ掻かれた痕がある。

 鏡面に映った自分の首筋を、茫然と見下ろした。

 これは確かに、


「……虫刺されと言うには、少し、無理があるかも……」


 周瑜様が驚く筈だ。
 虫刺されを引っ掻いた程度ではこんなに長い線にはならないもの。


「……どうしよう」


 このことはきっと……いいえ、絶対に孫権様のお耳に入る。
 周瑜様なら、本当のところはどうなのか察しているかもしれない。もし、それを話していたら……。

 私は頭を抱えてその場に座り込んだ。



――――けれど。

 その日も翌日も、孫権様が私を呼ぶことも、私の部屋を訪れることも無かった。



‡‡‡




 目の前で、尚香様がにこにこと嬉しそうに笑っている。

 反対に、私の顔は硬く強ばっていて、きっと妙な表情になっていたと思う。
 薄く開いた口を微かに痙攣させて尚香様を凝視する。


「……ぇ……え? い、今、何と……?」


 ようやっと絞り出した声は掠れ、震えていた。

 尚香様は両手に握った拳を上下に振った。


「ですから! お兄様が、お義姉様との祝言の時期を早めると仰ってくれたのです!」

「……は……早、め、る……?」


 延期する、ではなくて?
 確認してみると、尚香様は笑みを一転、不満げに唇を尖らせた。


「お義姉様は、お兄様と結婚なさりたくないんですか? 私やお兄様はずっと心待ちにしているのに……」


 すぐには言葉を返せなかった。
 私は孫権様の妻になることを待ち望んでいるのか――――。

 本心を言えば、孫権様に嫁げることがとても嬉しい。
 多分……いいえ、間違いなく、私は孫権様を一人の殿方としてお慕いしている。
 家族で犯した罪を背負いながら、彼の妻になれることを内心凄く喜んでいる。

 我がことながら、面の皮の厚いこと。嫌になる。

 いつまでも答えを返さない私に、尚香様の顔はどんどん不満を濃くしていく。


「お義姉様」

「……嫌という感情は持っていません。あのような愚かな真似をしておきながら、孫権様にご恩情をかけていただいたばかりではなく、妻にと望んでいただけるのは、身に余る光栄と存じます」

「でしたら、」


 身を乗り出す彼女に「ですが」私は首を横に振った。


「孫権様や尚香様がお赦し下さっても、そうでない方々の気持ちを私が無視する訳にはいきません。私達は一国の主である彼らの主君を見下し、欺(あざむ)いたのです」


 尚香様はそれでも何かを言おうとして口を開くけれど、言葉を発せずに閉じた。

 孫権様の家臣の感情は孫権様でも尚香様でも抑えきれるものではない。いいえ、抑えては、押さえつけてはいけないもの。
 だってそれは全て、孫権様の為に抱く怒りなのだから。

 尚香様だって、周瑜様や黄蓋様を含め、孫権様に忠誠を捧げる家臣の方々のことも、心から大事に思っていらっしゃる筈。
 申し訳なさそうな、泣きそうな顔で俯く尚香様に、私は深々と頭を下げた。


「……けれど、お兄様はもう、そのつもりです。周瑜達も準備を早めるようあちこちに指示を出しておりましたし……」


 その時、頭の中に私の首を引っ掻いた、何故か憎みきれない女官の顔が浮かんだ。

 彼女には、あれから何度か怪我をさせられている。周りには偶然を装い、事故である風に見せているけれど、私を見る目の奥に宿る不穏な光が、どんどん強く、澱んでいる気がしている。
 婚儀を早めたら、彼女がどんなことをしてくるか――――そう思うと、怖くなるよりも先に悲しくなった。
 どうしてなのかは、やっぱり分からない。

 駄目。早めてしまっては絶対に駄目。


「予定を戻していただけるよう、私から孫権様にお願いしてみます」


 言って、少し考えた。
 孫権様の前に周瑜様か黄蓋様に相談させていただいた方が良いだろうか。

 訊ねてみると、尚香様は渋面を作った。


「本当に、本当にお姉様はお嫌ではないのですね? お兄様との結婚が……」


 確かめるように慎重に問いかけてくる尚香様。
 少し間を置いてしまったけれど、私は頷いて返答した。

 それにも彼女は少しだけ不満顔になってしまったものの、何も言わずに引き下がってくれた。

 そのことに感謝しつつ、私はこっそりと溜息をついた。

 どうして、突然婚儀が早められることになったのか。
 原因は多分……先日の女官につけられた首の傷だ。
 周瑜様はやはり、孫権様に報告してしまったのだろう。ご自身が察したことを。

 だから、予定を早めて私を孫権様の妻に据えることで、誰も手出し出来ないようにするつもりなのだと思う。

 でもそれは逆効果。
 それに、孫権様に家臣の方々を捨て置いて私を優先させてしまうことになる。

 何とか、止めていただかなければ……。
 私は俯いて膝の上で拳を握り締めた。

 と、その時だ。


『尚香。練師殿はいらっしゃるか』


 扉越しに聞こえた穏やかな声に心臓が跳ね上がる程驚いた。


「あら、お兄様。おね――――練師なら、ここにおりますわ」


 尚香様が返した後、ややあって扉が開く。

 孫権様は部屋の中を軽く見回し、私に目を留めた。
 一瞬首筋を見たのは、きっと気の所為ではない。


「練師殿。あなたに話したいことがある。少し、時間をもらえないか」


 婚儀の日程と、……きっとこの傷についてだろう。
 「分かりました」私は頷き、もの言いたげな尚香様に一礼して立ち上がった。

 孫権様に連れられて向かったのは、彼の私室。

 私を先に部屋に入れ、扉を閉めてから「○○殿」私に手を伸ばし、首筋に触れた。
 瞬間、私は肩を縮めてしまう。

 何とか見えないように襟で隠したそこには、包帯を巻いている。
 傷の場所を探すように、しかし痛みを感じぬようそっと撫でる感触に、身体が強ばりっ放しだ。

 そんな私に気付いたのかはっとした様子で手を離すと、孫権様は座るように促しご自身は私の正面に座った。


「○○殿。婚儀が早まったことは尚香から聞いていると思う」

「はい。先程伺いました」

「あなたなら、何故早めたのかも、お分かりの筈」


 少し反応が遅れてしまったけれど、私は頷いた。

 孫権様は私を見据え、


「今後何があろうと私はこの決定を変えるつもりはない。○○殿には、こちらの方針に従っていただく」

「あ……え?」


 思いがけず、強固な言葉だった。

 何とか日程を元に戻していただこうと思っていた私は中途半端に口を開けたまま、固まってしまった。

 孫権様は間抜けな顔をしているだろう私をじっと見つめていたかと思えば、突然頭を下げた。


「えっ? あ、あの、孫権様……?」

「これ以上、あなたの目に臣下の醜態を晒す訳にはいかない。この判断は、○○殿を守る為というより、外部の人間に恥を晒さぬようにする為に下したものだ」


 私は慌てて首を横に振った。


「しゅ、醜態だなんて……っ。皆様、呉や孫権様達のことを思ってのことなのですから、決して恥じ入るようなものではありません。元はと言えば、私達が、」

「その件については、私が直接あなたに罰を下したことで終わりとした。そのように臣下から下仕えまで私の口から伝えている」


 そこで、孫権様の視線が私の首へ。

 私は反射的に女官に引っ掻かれた場所を、彼の目から隠すように押さえてしまった。


「言葉や態度だけならば私はあなたの意思を尊重した。正式に私の妻となるまでのことだと。だがその身を傷つけられては、私の意向に逆らい私刑に走ったと判断せざるを得ない。私への叛意も疑い厳罰を与えなければならない」

「そ、そんな……」


 私は大丈夫です。
 そう言ったとしても、孫権様が挙げている問題の中心は私ではない。

 でも、私に厳しく当たる方々に叛意などある筈がない。
 それを孫権様だって分かっておいでで……。

 私達一家が関わらなければ、起こらなかった事態だ。
 私は俯いた。


「申し訳ありません……私達が孫権様達に関わらなければ、このようなことには」

「元々縁談を持ちかけたのはこちらだ。国の為、この地の名士との関係を少しでも改善する目的であなたの家から妻を娶ることにした。孫家が疎まれ軽んじられることは初めから分かりきっていたこと。それでも孫家が呉の君主として立つには彼らの存在を無視してはならなかった」


 孫権様は厳しい処罰を私にも家族にも課した。
 詳しい内容は聞けなかったけれど、彼らの処罰は死罪でも追放でもなかったそうだ。
 悪化した名士との関係を修復する為に、孫権様達は今もなお苦慮されている。

 本当なら、私達一族にもっと重い罰を与えたかっただろうに……孫家の立場がそれすら許さない。


「申し訳ありません……」


 孫権様は静かに首を横に振った。


「この件については私がまだ未熟であるが故に起きたこと。あなたではなく、私が対処せねばならない問題なのだ。あなたの所為にしては、今は亡き父上や兄上に申し訳がたたぬ。……この国の君主として、私は臣下にも厳正でいなければならない」

「孫権様……」


 孫家様は私の言葉を拒むように、私などに対して深々と頭を下げた。



‡‡‡




「珍しいのう。練師から儂に話しかけてくるなど」


 苦笑混じりに言うのは、黄蓋様。

 私は頭を下げてまず突然呼び止めたことを謝罪した。

 私が見かけた時足早に何処かへ向かうところだった黄蓋様は、気分を害した様子も無く、「気にするな」優しい言葉をかけてくれた。


「それで、儂に何か用かな。婚儀のことならば、儂ではなく孫権様や周瑜に……」

「あ、いえ。その件については、先日孫権様に……」

「では……?」

「あの、実は……内密にお訊ねしたいことがあるんです」


 黄蓋様は、僅かに首を傾けた。

 私が訊ねたいのは、あの女官のこと。
 この数日、彼女からの接触がぱたりと途絶えた。
 彼女といつも一緒にいる二人の女官の姿はたまに城内で見かけるけれど、彼女だけは全くだ。

 怖いと思いつつ、だけどどんなことをされても嫌いになれないのは今でも変わらない。
 だからか、姿が見えないのがどうしても気になっていた。

 名前を知らないので見た目で説明するしかなく、なるべく記憶通りに細かく伝える。
 黄蓋様は顎のお髭を撫でながら私の話を聞いてくれた。

 そして、私の話が終わった時、どうやら理解してくれたようだった。


「彼女なら、今、病で臥せていると聞いたが……」

「え、ご病気なのですかっ?」

「彼女の父親が、女官長にそのように話しておったらしい。彼女がどうかしたか?」

「いえ……最近お姿が見えないので、どうしたのかと思って……黄蓋様。お忙しいところ、お答え下さってありがとうございました」


 私は黄蓋様に頭を下げ、背を向けた。
 けれど、


「待ちなさい」

「? は、はい……」


 一瞬、追求されるかと思ってひやりとした。
 けども振り返って見た黄蓋様の顔は、予想外に穏やかだった。


「何でしょう……」

「そなたは、もう罰を下されておる。いつまでも左様に自身を責めるでない」


 孫権様が自ら選んだ女性なのだと、自信を持って良い。
 黄蓋様は優しい笑みを浮かべて、温かな言葉をかけてくれた。

 私は、すぐに言葉を返せなかった。

 黄蓋様は私に軽く頷きかけ、私の頭を撫でた後足早に立ち去っていった。

 小さくなっていく彼の姿を見つめていると、後ろから記憶に新しい、はしゃいだ高い声が聞こえた。

 私は、咄嗟に近くの角に駆け込んでしまった。

 だって――――あの女官と一緒にいた二人だったから。

 気付かれないよう曲がった先の柱の影に隠れる。

 二人の女官の話題は、どうやら彼女達の知人のことのようだ。


「ねえ、聞いた? 封英のこと」

「聞いたわ。彼女、お父君の決めた名士に嫁ぐことになったそうね。お相手は……確か五十を超えた方だとか。病気で臥せているなんてことになっているけれど、縁談が持ち上がった途端逃げ出そうとしてお屋敷に監禁されているそうよ」

「本当、可哀相ね。孫権様に嫁ぐ為に妹達に先を越されて、孫権様が別の女を娶ることになったら抱けるなら女を選ばない好色家の妻にされるんだもの。今頃、お屋敷で何をしているのやら」

「ああ、良かった。私達には同年代の素敵な婚約者がいて」

「そう? まだ女としての役割は果たせるんだから良いんじゃない? ま、あたしはあんな脂ぎった醜い大男と閨事(ねやごと)なんて、死んだ方がましだけど」

「でもあの子、物心ついた時から孫策様に嫁ぐ為に育てられたそうよ。孫策様がお亡くなりになられて、孫権様も別の女に……私だったらもう命を絶っているわ。今まで守ってきた自分の価値が無くなってしまったんだもの」

「そんな度胸、あなたには無いでしょう?」

「ええ、無いわね。冗談よ」


 くすくす。
 くすくす。
 くすくす。

 声を押し殺す必要も無かった。
 彼女達の《とても愉しげ》な声音に、私は声が出せなかった。


 封英はきっと……彼女のこと。


 仲が良い三人だと思っていたのは、私だけだったようだ。
 いつも一緒にいる人のことを、あんな風に言えるなんて……。

 私はふらりと柱から離れ、彼女達の会話から逃げた。

 自分の部屋に戻って、寝台に座る。
 まだ侍女の仕事がある。すぐに尚香様のもとに戻らなければならないのだけれど、先程の会話が頭にこびりついて離れなくて、それどころじゃなかった。

 それに……私が彼女を憎みきれない理由が、分かってしまった。


 彼女が、自分の価値に執着していたからだ。


 孫策様、孫権様に嫁げなくなれば、今まで培ってきた自分の価値が、無に帰してしまう――――。
 それが嫌で……いえ、恐ろしかったのかもしれない。

 私も、その気持ちが理解出来る。

 まだ幼かった頃、必死に家族に捨てられなくて家族から罵倒し見下す相手としての価値であっても守ろうとしていた時期があった。
 早くに虚しくなってなって諦め、今ではもうそんなことはなくなった。


 封英さんは?


 本来予定されていた相手ではないけれど、別の、ずっと年上の男性に嫁ぐことになった。

 でも逃げ出すくらいに嫌で、今、監禁されていて……。

 彼女はどんな思いで過ごしているのだろう。

 思いを巡らせていた私は、心配した尚香様が部屋を訪れるまで、ずっと考え込んでいた。



‡‡‡




 婚儀当日。
 朝早くから私は尚香様の侍女の方々に囲まれ、化粧から髪型、婚礼衣装を念入りに整えられた。

 姉と顔のそっくりな私も、着飾ればそれなりに見られる姿になる。きっと、姉にそっくりな自分に嫌悪感を抱いてしまうだろうと思っていた私は、鏡に映った自分の顔を見て心の底から驚いた。


「これが……私……?」

「ええ。練師さん。あなたよ」


 とてもそうは思えない。
 私の顔じゃない。
 全くの別人を見ている気分だった。

 化粧を自ら進んで担当して下さった同じ歳の女官が、私の肩に手を置いてどうだと言わんばかりに笑った。


「あなたは以前、姉だった女性と同じ化粧をしていたけれど、あれはあなた達の顔には合っていなかったわ。流行に乗っただけで満足していたのね。あなたの造作に合わせた化粧をすれば、こんなに見違えるのよ」


 元々素材が良いのだから、上手く生かさくちゃ勿体ない。
 弾んだ声で自信満々に言う女官を見上げ、私は口を開いた。

 姉と違う。全然、違う。
 凄く、嬉しかった。
 お礼を言いたかったけれど、声が上手く出せない。何度も出そうとしたけれど、喉に詰まって、目頭も熱くなってきた。

 そんな私に、彼女達は穏やかに微笑んでくれた。

 泣くと化粧が崩れてしまうから泣くのは婚儀が終わってから孫権様だけの前で!
 そう笑顔で私を叱り、婚礼の準備を着々と進めていった。
 彼女達が納得出来るようになるまで長々と続いた微調整にはちょっと焦ったけれど、彼女達に対しそんなのは不要な憂いで、婚儀が始まるまで少し余裕が残った。

 満面の笑みで私を送り出した女官の方々に頭を下げ、途中で合流した黄蓋様達に付き添われ孫権様や尚香様がいらっしゃる謁見の間に向かう。
 私には侍女がいないので、付き添いは黄蓋様と奥様、そして女官長様のみ。

 長い廊下を、時間をかけてゆっくり歩く。
 靴音と衣擦れの音、そして自分の息遣いだけの長い時間、どうしても、罪人の自分が孫権様の妻に相応しいのか、封英さんにをこのままにしていて本当に良いのか、ぐるぐると考えていた。

 それを見透かされたのか、黄蓋様に「無用なことは考えぬように」キツい口調で叱られた。


「婚儀が終わればそれは練師を妻にと望まれた孫権様や、義姉と呼べる時を待ち望んでおられる姫様への侮辱となろう。その下らぬ不安は、孫権様の隣に立つまでじゃ。良いな」

「……は、い」

「練師。お前は孫権様手ずから罰を受けた。それでもう良いのだ」


 肩を叩かれ、奥様からも同意を示すように背中を撫でられた。

 そこで女官長様が、


「こんなに言ってもまだかの家の犯した罪にけじめがつけられないのならば、いっそ一生、死ぬまで妻として孫権様に尽くすことを償いとなさいな」


 厳かな声で、だけど優しい微笑みを浮かべてそう言ってくれた。

 一生、孫権様を支えることで、償いを……。
 それは私にとっては凄く嬉しいこと。


「……良いんでしょうか、それでも」

「でしたら、最低でも三人は子を産みなさいと、条件を足しましょうね」

「え、あ、いえ、それは……も、申し訳ありません。何でもないです」


 笑顔で凄まれて、拒絶も何も出来なくなってしまった。


「では、そのようにしましょう」


 女官長様は一人で決めてしまう。
 助けを求めて黄蓋様を見上げると、真摯な顔で女官長に何度も頷いていて、奥様も似たような様子だった。


「それならばわたくし、第一子が産まれるまでに異論を唱える女官を全て黙らせておきます」

「え……」

「これは頼もしい。是非にお願いしよう。罰を受けるのが好きな練師には、物足りなくなるやもしれぬが」

「え? いえあのっ、私、別に好きな訳では……」

「そうなの? 私はてっきり……趣味かしら、と」


 違います!
 私は奥様の言葉に血の気が引いて首を横に振って否定した。

 けれど、三人が浮かべた穏やかな笑顔に、動きを止める。


「そう。好きでもない罰を求めても、あなたが苦しいだけです」

「あなたが苦しむ姿を孫権様は決して望みません。きっとあなたの苦しみを除けぬことに、あの方もまた苦しまれてしまう」

「儂らが練師にこのように言うのは、我が主、孫権様の為よ。どうか、それを分かって欲しい」

「あ……」


 私には勿体ないくらい、真面目で優しい孫権様。
 黄蓋様達の言う通りかもしれないと思った私は、気付けば深く頷いていた。

 はっとした時にはもう遅く、安堵している三人の顔を見ると何も言えなかった。

 本当に、良いのだろうか。
 もう償わなければと思わなくても……。

 黄蓋様達はこれで話は終わりだと、私の背中を押して少しばかり歩みを速めた。
 話している間に、少し、遅くなっていたようだ。

 予定から大幅に遅れることが無いように進む私達。
 けれど、謁見の間の扉が見えてきた時のこと。

 不意に、すぐ近くの柱の影から飛び出した女性が私へと突進してきた。

 すぐに黄蓋様に庇われたから誰とは分からなかったけれど、もしかすると――――と、思った時には私は声を張り上げていた。


「封英さん!?」


 女性が動きを止める。
 上げた顔は、憔悴しているけれどやはり封英さんだった。
 結わずに流した髪を数本噛んだまま、「どうして私の名前を……」そう呟く。

 その手には、鈍い光を放つ短剣がしっかりと握られていた。

 女官長様が封英さんを怒鳴りつけながら彼女へ手を伸ばしたのを見て、私は咄嗟に叫ぶように言った。


「封英さんは私の侍女になって下さるんです!!」


 咄嗟に出た言葉に、自分でも驚いた。

 四人共、呆気に取られて私を見る。


「あ……え、っと……」

「練師……? あなた、一体何を、」

「どうした!? 何があった!」


 こちらの騒ぎに気付いたのか、謁見の間の扉が乱暴に開き孫権様と周瑜様が飛び出してきた。

 封英さんの姿に気付くと孫権様は青ざめ私のもとへ駆け寄ってくる。
 私の手を引いて口を開けたのに、私は慌てて再び大声を上げた。


「封英さんが私の侍女になってくれると来て下さったんです!!」

「……○○殿?」


 眉根を寄せて私を見下ろす孫権様と、周瑜様。

 ちゃんと考えて話せば良いものを、私は本当に馬鹿だ。
 似たような言葉を繰り返すばかりで、とにかく封英さんが罪に問われることを回避しようと、それで頭が一杯だった。


「待った! 落ち着け! 落ち着けって練師! とにかく状況をよく話せって、な?」

「だ、だからっ、封英さんは私の侍女になって下さるからここに……!!」

「アンタさっきからそればっかりなんだって!」


 後になって思えば、この時私は、状況を説明してしまったら封英さんが罰せられると無意識のうちに拒んでいたのだろう。
 女官長様が収めてくれるまで、私はそんな調子だった。


「とにかく、このままでは婚儀が大幅に押してしまいます! 封英は彼女の侍女に相応しい恰好にさせ次第お連れ致しますから、練師。あなたは落ち着いて先にお行きなさい」

「でも、でも……!」


 女官長様は困ったように笑いつつ、孫権様と周瑜様に目配せする。

 お二人は何かを察したようで頷き返す。

 泣きそうな顔で私を凝視する封英さんを優しく促し、女官長様と黄蓋様達が三人共何処かへ連れて行こうとする。
 私もついていこうとするけれど、孫権様が手を放してくれなかった。


「練師。封英のことは大丈夫だから。今は婚礼に集中しろ、良いな?」

「……はい……」


 孫権様は私をじっと見て、ふと周瑜様に手を挙げて制止を示した。

 周瑜様が渋面を作る。


「孫権」

「少し話を聞くだけだ。……○○殿」


 孫権様が、私を呼ぶ。さっきもそうだったような気がするけれど、私の本名で。


「封英を庇う理由を話してくれないか」

「それは……本当に、」

「○○殿」


 嘘で誤魔化そうとしたのを見透かされた。

 私は視線を落とし、少しの間躊躇った後、封英さんにされたことを話した。その上で憎めなかった理由も、ちゃんと。

 孫権様は黙って聞いていて、私が話し終えると「そうか」と。

 少しの間黙り込んで、孫権様は周瑜様を呼んだ。


「封英が儀に間に合うようにと、伝えてくれ」

「おい、孫権。封英は彼女を……」

「○○殿の侍女となるのならば、彼女と共に儀に参加するのは当然のことだ」

「……そうかよ」


 強い口調で言う孫権様に、周瑜様は呆れていた。
 けれど反対はせず、肩をすくめて孫権様の頭を軽くはたいて黄蓋様達を追いかけていった。

 私は周瑜様の背中を見つめながら、


「あの……」

「婚礼の儀が終わるまでには間に合うだろう」


 孫権様は私の手を持ち上げ、もう片方の手を重ねた。


「行こう。話は、儀が終わった後に」

「は、はい……」


 孫権様に手を引かれ、私は婚礼の儀に臨む。



‡‡‡




 無事に婚儀が終わり、私は寝衣に着替えて新しい部屋に移った。
 昨日まで過ごしていた部屋とはまるで違う。

 それに、身代わりとしてこの城を訪れた時の部屋とも違う。

 一国の主の妻に相応しく整えられた部屋だ。

 分不相応な部屋に圧倒され気後れしてしまった私は、豪華で広い部屋の中を歩き回る。

 婚儀の後に封英さんの件で話をする。孫権様はそう仰った。
 封英さんを私の侍女に――――そのことに変更は無いだろうけれど、勝手なことをしたと怒られてしまうかもしれない。
 周瑜様や黄蓋様、それに封英さんのお父様にも話を通してこちらにいらっしゃる予定だと女官長様に伺ったけれど、婚儀が終わってだいぶ経っているように思う。

 話が長引いているのだろうか。

 扉に寄ってそっと開いて廊下を覗き込んでみると、かつ、かつ、と微かな靴音が聞こえてきた。
 誰かが近くを歩いている。一人か、二人。
 今宵はこの辺りには人払いがされるという話だから、孫権様だろう。

 暫く靴音が聞こえる方角を見つめて、姿が見えると廊下に出た。

 寝衣姿の孫権様と、後ろに続いている女官長様と兵士は私を見て足を止めた。兵士が私から視線を逸らし、女官長様が苦い顔をして溜息をついた。


「孫権様、あの……封英さんは、」

「練師様。それよりもお部屋にお戻り下さいまし。そのような姿で外に出られてはなりません」


 指導者でなくなった女官長様の言葉遣いに寂しさを覚えつつ、私は首を傾げた。
 けれど女官長様が私の身なりを見て、自分が寝衣姿だと思い出す。

 兵士がずっと私を見ないのは、そういうことだったんだろう。


「あっ……す、すみません」

「折角の初夜にお風邪を召されたらどうなさいます。さあ、お部屋へ」


 女官長様に身体を反転させられ、部屋へ押し戻される。
 部屋の中を見渡し、「不備はないようですね」と大きく頷いた女官長様は、孫権様に深々と頭を下げ、隣の部屋に控えているからと兵士を連れて足早に退室した。

 扉を閉める女官長様に私は一礼する。
 女官長様は微笑みを返してくれた。

 離れていく靴音。隣の部屋の扉が開き、閉まる音。
 その後、静寂が入る暇を置かずに孫権様が私を呼んだ。


「○○殿」


 いつも大切そうに口にしてく下さる私の本名。
 それにまたほっとしながら、孫権様に向き直った。


「封英のことだが。彼女の両親に許可を取り、正式に○○殿の侍女に据えることとなった。ただ、婚儀を妨げた罰は受けてもらわねばならないが……一月程度の謹慎と女官長の再指導で済ませるつもりだ。彼女の縁談も、一旦は白紙に戻されるだろう」

「……っ、ありがとうございます、孫権様」

「封英が、あなたに『申し訳なかった』と」

「封英さんが?」


 封英から話を聞いた女官長様が言うには、誰よりも孫家に近い立場にいたかった父親に、小さな頃から必ず孫家に嫁げと厳しく理不尽な教育を強いられ、女官として城に奉公していても父親の目があり、絶えず圧力をかけられていたらしい。
 それが孫権様が私を娶ると仰ったことで、父親は封英さんをいないもののように扱い始めた。
 かと思えば、わざとらしく封英さんの側で妹達の自慢をして責めることもあったそう。封英さんは先に嫁いだ妹達にも嘲笑されているようにも思え、だいぶ追い詰められていたとのこと。

 今は幾分か落ち着いていて、自分のしたことに反省と後悔を覚え始めているそうだ。

 謹慎中は女官長様の屋敷で休ませ、落ち着いてから再指導を経て侍女に復帰する予定だ。

 それまでは尚香様の侍女の方々が交代で私の世話をして下さるそう。一人でも大丈夫なのだけど、立場上、そういう訳にはいかないみたい。

 孫権様は、彼女の話から私の首を引っ掻いたのが封英さんだとご存じだろう。
 封英さんが私にしたことは、孫権様のご意思に逆らうこと。
 孫権様は、封英さんを――――。


「あの、孫権様。封英さんへの処罰はそれだけ……なのですよね?」


 確かめてみる。

 孫権様は頷いた。


「少なくとも、正常な判断が出来ない状態のうちは。精神状態が回復し次第、女官長が指導しつつ態度を見定めることになる」

「では、それに問題が無ければ……」

「私から何かをする必要はなくなるだろう。以降、封英はあなたの管理下に置かれる。勿論、封英以外に女官長が選んだ侍女が明日よりつけられる」


 分からないことは侍女の方々に訊ねるようにと言って、孫権様は私の頬に触れた。すっと首筋に降りて、うっすらと残る傷痕を撫でる。

 何か言われるのではと思いきや、孫権様は何も言わず無言で手を引いた。


「突然のことで疲れただろう。今日はもう、休もう」


 言って、孫権様は寝台へと近付いていく。

 この話は完結したと言われているように聞こえて、私はその場に座り込んだ。

 孫権様が気付いて慌てて戻ってくる。


「○○殿。どうした?」

「大丈夫です……ほっとしたら、身体から力が抜けてしまって……」


 孫権様に支えられて立ち上がり、寝台に腰かける。


「良かった……本当に……」


 胸を押さえて吐息を漏らすと、孫権様が私の背中を優しく撫でてくれた。
 孫権様を見ると、とても優しい目をされている。

 その目を見ているうち、私はふと質問したくなった。


「孫権様。一つお訊きしてもよろしいですか」


 孫権様は微かに首を傾け、先を促した。


「私は……私には、あなたの妻になるに相応しい価値があるのでしょうか」


 孫権様の瞳が揺れた。ほんの少しだけ、眉が下がったのに、私は慌てて続けた。


「決してあなたの妻になることが嫌なのではないのです。むしろ、これは夢なのではないかと疑ってしまうくらいとても嬉しくて……。今のは、価値に執着していた幼い私を思い出して、ふと訊いてみたくなっただけなんです。本当です」


 特に深い意味は無いのだと弁明すると、孫権様は何とか納得してくれた。

 ほっとする私に、あまりの間を置かずに。


「あなたは、私などには勿体ない女性だと思っている。……私は○○殿を妻に迎えられるような男だろうかと不安に思う程に」

「え? ……不安?」


 思わぬ答えに驚いた。

 孫権様は頷いた。


「私は、父上や兄上と比べるべくもなく君主としてまだ未熟。臣下の中に、私が罰を与え許したあなたを今なお責める者がいるのも、私の未熟さが周りに心配をかけているからに他ならない。婚儀を済ませ夫婦となった今、彼らももうあなたを責めはすまいが……私が未熟でなければ、彼らも私を信じあなたを責めはしなかっただろう。まだ人の上に立てる器でない私は、果たして○○殿の夫として相応しいのか……あなたの問いを受けて、そう思った」

「そんなことは絶対にありません」

「あなたは優しく純粋な方だ。だからこそ、以前のことを今でも気にしているのだろう。私はそんなあなたに惹かれた。受けた仕打ちを許し封英のことを必死に庇ったあなたの心の広さを目の当たりにして、あなたがより愛おしい」


 いつの間にか背中を撫でる手は止まっている。
 孫権様は私の目を真っ直ぐに見つめて逸らさない。

 あまりに真っ直ぐで、彼の視線から目が逸らせない。何も言えない――――。


「私は、愛するあなたの隣に、誰よりも近い場所に立つに相応しい男になりたい。誰にも奪われぬように。価値をつけなければならぬなら、私にとってあなたはそう思わせる程に尊い女性だ」


 背中を押さえるだけだった手に力がこもる。
 逆らわずに孫権様に身を寄せると、もう片方の手も背中に回った。

 孫権様の体温に包まれる感覚。私は、目を伏せ身体から力を抜いた。

 この価値に執着していたいと思った。
 この価値をずっと守っていたいと思った。

 それくらい、孫権様の言葉が嬉しくて、尊く思えた。


「……孫権様。私は、孫権様を心からお慕いしております」


 と、孫権様の腕がぴくりと震える。
 彼の背中に手を回し、


「愚かなことをお願い申し上げます。もう罪を償ったと思って、あなたのお傍であなたに一生尽くしてことだけを望んで生きていくことを、どうかお許し下さいまし。私などでは、大した支えにはなれないでしょう。それでも、私は死ぬまであなたの傍にいたい……」


 言った途端、今までずっと抱えていた罪悪感が不安感に代わって一気に押し寄せる。
 孫権様の寝衣を握り締めた。


「顔を上げてくれないか」


 孫権様が囁いた。

 顔を上げた私の額に口付けて、孫権様は、嬉しそうに微笑んだ。少しだけ、頬が赤い。


「ありがとう」


 その一言だけで、不安が全て払拭される。
 私も、目頭が熱くなりながらも笑い返した。

 そして、どちらからともなく顔を近付け、口付けを交わす。軽く、啄(ついば)むように何度も、何度も。

 自然と身体が傾ぎ、寝台に倒れ込む。
 私の足を持ち寝台に上げた孫権様が私の隣に横たわり、私の身体に腕を回す。

 お互い身を寄せ合って、相手の優しい体温を感じながら、目を伏せた。

 初夜にも関わらずただ添い寝するだけの夜だったけれど、私は構わなかった。孫権様も、きっとそう。
 肌を重ねるのは後でも良い。

 孫権様の心に寄り添えるだけで、私は十分幸せだった。

 幸せを噛み締め、私達は眠ったのだった。



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