出かける旨を書いた置き手紙を残しておいたから、問題は無い。

 山道を降り中腹に差し掛かった頃、大急ぎで駆け上がってくる男性と出会った。
 いつも劉表様からの言伝を持って来る使者の方だ。
 酷く狼狽している様子の彼は私を見つけると、まるでこの世の終わりでも見たかのように青ざめた。

 髪のことかしら?
 いいえ、それにしては大袈裟な気が……。


「お、奥様……! お一人ですか!?」

「え? ええ。今から襄陽へ買い物に行こうと思って……」

「いけません!! 今すぐご自宅にお戻り下さい!」


 怒鳴るように言われ、勢いに気圧された私は思わず首を竦めた。
 使者は周囲を注意深く見渡し、私を急かす。


「でも、急いで買いたい物がありますし……」

「危険です! 今日だけ……いえ、暫くはご自宅から出ないで下さい!」

「え? き、危険?」


 どういうことなのか、分からない。
 異様な程に焦っている彼に困惑していると、不意に右の茂みが騒ぎ出した。
 山道の右側は急な斜面になっている。足を踏み外して転がり落ちれば、最悪死んでしまう程の。

 そこから躍り出てごろりと足下に転がったのは――――男。


「――――ひっ!?」


 劉ソウ様だった。

 服は薄汚れ、髪はほつればさばさに広がり、髭は伸び放題、血走った目は狂気を宿しぎらぎらと光る。
 そんな酷い有様でありながらすぐに劉ソウ様だと分かったのは、身に染み着いた恐怖故だろう。

 貪婪(どんらん)な瞳を見た瞬間あの日のことを思い出した私は反射的に悲鳴を上げ、きびすを返した。使者を置いて逃げ出してしまった。

 そんな私へ、使者は必死な大声で、


「振り返らずに逃げて下さい!! 諸葛亮先生のもとへ!! 早くっ!!」

「邪魔を、するなあぁぁっ!!」


 劉ソウ様の裏返った怒声に心臓が絞まる。
 恐怖で足がもつれ、転びそうになりながらも必死に山道を駆け上った。

 どうして、どうして彼がここにいるの!?
 遠い土地へ預けられたのではなかったの!?

 劉表様達が嘘をついた?
 それとも、劉ソウ様が逃げた?
 分からない。
 怖い。
 怖い。

 劉ソウ様の怒声と、劉ソウ様を制止する声が私を追いかけてくる。
 少しも引き離せない狂気に、体力が限界に近付いていく身体に、恐怖と混乱と焦燥はどんどん、どんどん増していく。
 頭がおかしくなりそうだ。

 これが夢の延長であるらどんなに良いか!!


「劉ソウ様!! お止め下さい!! ご自分のなさっていることが、劉表様や劉キ様の評判にどれ程悪影響を与えるかお考え下さいっ!!」

「僕と○○を引き裂いた悪魔のことなど知るもんか!! あれは僕の女なんだ!! 母上がそう言ったんだ!! なのになのに母上は嘘をついたんだあぁぁーっ!!」


 年齢に不相応な、まるで駄々っ子のような涙混じりの怒声。
 幼子が癇癪を起こしているような状態の劉ソウ様を、使者は必死に説得する。

 しかし、劉ソウ様は大声で泣き喚いて使者の言葉を掻き消してしまう。

 けれど、声を張り上げ泣き続けたことが災いしてか、私よりも劉ソウ様が先に体力が尽きた。


「劉ソウ様!! 城へ戻るのです!!」


 暫く走り抜けて、止まる。
 崩れそうになる足を踏ん張って、怖々振り返った。

 俯せに倒れた劉ソウ様に、使者が覆い被さり、腕を背中で拘束している。
 荒い呼吸を繰り返す劉ソウ様は、呻くように泣き、私を縋るように見上げている。

 だけど私には、そら恐ろしくてたまらない。

 呼吸を整えながらのろのろと後退し、再び逃げる。

 と――――。


「○○殿!!」

「あ……っ」


 山道の上から血相を変えて諸葛亮様がこちらへ駆けてくる。
 その姿を見た途端、勝手に足から力が抜け、その場に座り込んだ。

 諸葛亮様は青ざめて私の前にしゃがみ込み、抱き締めてくれた。

 安堵して力が抜きかけたのも一瞬のこと、諸葛亮様にも拒まれていたことを思い出し、離れようと彼の胸を手で押した。

 けれど諸葛亮様の腕は更に力を込め、痛いくらいに私を拘束する。指が皮膚に食い込んで痛い。

 彼を見上げて、ぞっとした。


「しょ、諸葛亮様……?」

「……また、か」


 諸葛亮様の呟きは、恐ろしい程に低く、背筋も凍る程に冷たかった。
 ここまで冷然とした眼差しは今まで見たことが無い。諸葛亮様にこのような目が出来るとは、考えもしなかった。

 そんな目を、彼は劉ソウ様へ向けているのだ。
 いつもお世話になっている劉表様の次男へ。

 使者も、私と同じように驚き、戸惑っている。しかし、劉ソウ様を決して解放しない。

 諸葛亮様は私の頭を一つ撫でると、私を放し、ゆっくりとした歩みで劉ソウ様へ近寄った。
 緩慢に懐へ手を伸ばし、何かを抜いた。

 諸葛亮様を憎らしげに睨め上げる劉ソウ様も、使者も、彼が手に持った物を見て血相を変えた。


「しょ、諸葛亮先生! そ、その短剣は……!!」

「短剣……っ!?」


 不穏な単語に思わず立ち上がるも、足に思うように力が入らずにまた崩れてしまう。


「こ、こっ、殺す気かっ、僕から○○を奪って、ぼ、僕の命も奪うのか!?」

「……」


 諸葛亮様は、黙って二人の前にしゃがみ込む。
 そして、見せつけるように徐(おもむろ)に右手を挙げるのだ。
 私からもその手に握られた短剣の鋭い光が見えた。

 私は思わず諸葛亮様を呼んだ。

 諸葛亮様は一度肩越しに私を振り返っただけ。
 すぐに顔を劉ソウ様へと戻し、


 凶器を振り下ろす。


 劉ソウ様が悲鳴を上げた。

 されど。


「へ……?」


 使者が、緊迫した空気に似つかわしくない、気の抜けた声を漏らした。

 諸葛亮様が、立ち上がる。


「私は聖人君子ではない。お前と同じように一人の女性に惚れ込み過ぎた愚かな男だ。そしてその愚かさ故に、今、彼女を苦しめる存在を惨たらしく殺してやりたいと心から思っている。お前が劉表様の子でなければ、実際この短剣を頭を、頭蓋が割れようが脳が潰れようが何度も何度も突き刺していたかもしれない」

「ひ……っ」

「○○は私の妻だ。私以外の男に渡すつもりも触らせるつもりも毛頭無い。……人としてまともな死に方をしたいなら、二度と私達に近付くな」


 冷淡な声音で、諸葛亮様は劉ソウ様を脅す。
 感情が感じられない静かな声である分、私ですら恐ろしく感じられる。

 だけど恐怖以上に私は彼の言葉に驚愕した。

 今、彼は『私の妻だ』と言った。
 他の男に渡すつもりもないとも。
 これが、私の聞き間違い……でないのなら。

 それって――――。

 諸葛亮様が、戻ってくる。

 劉ソウ様の鼻先に刃を向け、地面に突き刺さっている短剣が見えた。
 殺さず、傷つけてもいないことに、安堵した。

 私の前に立った諸葛亮様は手を差し伸べかけて止め、一歩退がった。

 揺れた裾が足を掠め、微かな風が異様に冷たく感じた。


「立てますか?」

「あ……はい」


 立とうとして、よろめいてしまった。
 謝罪すると、諸葛亮様は少しの間躊躇(ためら)って、もう一度私の側へ寄った。


「……申し訳ありません。触ります」


 謝罪して、私の膝裏と背中に手をやる。

 抱き上げられた。


「あの……」

「劉表様にお伝え下さい。劉ソウ殿が○○殿に近付く恐れがある限り、登城は控えさせていただくと」

「は、はい……分かりました」


 使者はぎこちなく数回頷き、啜り泣き始めた劉ソウ様を強引に立たせ、坂道を引きずっていった。

 諸葛亮様は振り返らずに山道を登る。
 彼はずっと無言だった。私も気まずさから口が開かず、庵に戻るまで重たい沈黙が私の胸をを重くした。

 私を寝台に降ろし、諸葛亮様は私に頭を下げる。


「……おぞましいものをお見せして、申し訳ありません」

「え?」


 顔を上げた諸葛亮様は、弱々しく、疲れ切って、とても悲しい顔をしていた。

 手を伸ばすと、逃げるように身を引いた。
 諸葛亮様は私から顔を逸らして、ぽつりと呟いた。


「……結局は、私も劉ソウ様と変わらぬと言うことです」

「あ……」


『お前と同じように一人の女性に惚れ込み過ぎた愚かな男だ』

『彼女を苦しめる存在を惨たらしく殺してやりたいと心から思っている』

『私以外の男に渡すつもりも触らせるつもりも毛頭無い』



 頭の中で繰り返される、つい先程の諸葛亮様の口から発せられた、彼らしくない凶悪な言葉。

 諸葛亮様を見つめるうち、視界が滲んだ。
 絞り出した声は、震えていた。


「……本当に、」


 本当に、それ程の価値が、こんな私にあるのですか?
 問う。

 諸葛亮様が、私を見上げる。

 言葉を返されるのが怖くて早口にまくし立てた。


「私はあなたの妻なのに、劉ソウ様に襲われて、力の限り抵抗することも外へ助けを求めることも出来ませんでした。伯母様が来て下さらなければあの方の好きにされるところでした。だからあの日、私を拒まれたのではないのですか?」


 諸葛亮様の顔が歪む。

 嗚呼、やはりそうなのだ。
 唇を噛み締め、拳を握った。

 ややあって、震える拳に手が重ねられる。


「言ったでしょう。私も彼と同じであると。○○殿が伴侶となり、どれだけ私の心が救われたか。結果、私は後戻り出来ぬ程あなたに依存してしまった。あなたが劉ソウ様に襲われて穏やかでいられる訳がない。他人の唾液で濡れたあなたの身体が気に食わなかった。衝動のままに抱き潰してあなたが私の妻であることを深く刻みつけてやりたいと、おぞましいことを今でも考えているのです」

「……っ!」

「ですがそれでは、抱くのではなく、犯すことになる。私もあなたを苦しめてしまう」


 だから、あの時彼は――――。
 ふ……と肩から力が抜けた。


「出来れば、あなたに知られたくなかった。あなたに軽蔑され、心が離れていくことを恐れて逃げた。自分を守ることだけを考え、あなたを追い詰めてしまった」


 諸葛亮様の目が、私の髪に向けられ、寂しげに揺れる。
 私の両の拳を優しく包み、額を押し当てた。


「私は、醜い男です」

「……諸葛亮様」


 私は、諸葛亮様の後頭部を見下ろした。

 吐露された彼の心。


 心から嬉しいと思った。


 醜女の私に、諸葛亮様がそれだけの感情を抱いてくれたことが。
 こんな私に恐ろしい程に依存してくれていることが。
 私に嫌われることを恐れてくれていることが。

 それだけの価値が、醜い私にあることが。

 凄く、嬉しい……。

 嗚呼、私はこの人の側にいて良いのだ。この人の妻でいて良いのだ。
 歓喜と安堵で身体がとろけてしまいそうだった。

 涙が溢れて止まらない。


「諸葛亮、様……」


 今、私を抱いて下さい。
 声を絞り出し、願う。

 諸葛亮様がぎょっとして手を離そうとしたのを、指を掴んで逃がさなかった。
 困惑も露わに諸葛亮様は言う。


「私の話を聞いておられましたか。私はあなたを、」


 私は首を横に振って、震える手で諸葛亮様の指を引く。
 胸に、押しつける。


「乱暴でも、苦しくても構いません。劉ソウ様の感触がずっと残り続けるより、今ここであなたが私の身体に深く刻まれる方が、遙かに良い……」


 諸葛亮様の目が見開かれた。

 指を放し、諸葛亮様の顔を両手でそっと挟む。
 私から口付けた。

 次の瞬間、肩が掴まれ身体が後ろに倒される。

 唇が離れたのもほんの一瞬、また塞がれる。
 角度を変えて啄(ついば)むような口付けを繰り返しながら、私は諸葛亮様の背中へ腕を回す。

 諸葛亮様が私を求めて私の身体に触れてくれるのに、心から安堵した。



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