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‡‡‡
庵の前で立ち止まった私は庵からやや離れた池へ衝動的に身を投げた。
「○○殿!?」
諸葛亮様が慌てて私を追って池の中に入ってくる。
私の行動にさぞ驚いただろう。
けど、水よりも、何よりも。
劉ソウ様に舐め回された胸が、この身体が、気持ち悪くて仕方がなかった。
袖を引き千切り、襟を開いて袖で強く擦る。何度も何度も、肌が赤くなっても、痛くても、爪が肌を削って血がうっすらと滲み出しても、擦り続けた。
諸葛亮様に腕を掴まれて止められてもすぐに振り払い、また擦る。
汚らわしい。
消えない。
消えてくれない。
気持ち悪い感触が消えてくれない!
どうして、私がこんな目に遭わなければいけないの……!
脳裏に劉ソウ様の獰猛な形相が浮かび、私は悲鳴を上げた。
破った袖を放り捨て、頭を抱えて繰り返し叫んだ。
「○○殿! しっかりして下さい、○○殿!!」
首を左右に振り、舐め回された場所を爪で掻きむしった。爪の中に何かが詰まっていくのが分かったけれど、そんなことに構っていられなかった。
嫌で嫌でたまらない。
皮膚を剥いでも、まだ汚い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――――。
「止めろと言っているのが聞こえないのか!?」
「……ッ!?」
頬をぴしゃりと叩かれ、鈍い痛みに動きを止める。
敬語も失せて怒鳴った諸葛亮様の顔を見て、全身から血の気が引いた。
彼の頬に、真新しい引っかき傷があった。浅いが、血がじわりと滲み出ている。
誰がやったかなんて、決まっている。
「わ、私……っ私……何てこと……!」
「軽傷です」
諸葛亮様は私の手を取って水に浸け、指先に付いた血と爪と肉の間に詰まった物を丁寧に除いた。
見下ろした自分の胸元は、真っ赤だった。傷自体は深くはないけれど、掻いているうちに血や皮を鎖骨や乳房の下まで広げてしまったらしい。
それでも、まだまだ汚いと思った。
見ているとまた掻きむしりたくなって手をやろうとしたのを、諸葛亮様が強い力で両手首を握って止めた。
険しい顔で私の胸を見下ろす諸葛亮様が、不意に顔を落としてくる。
驚いて逃げようとするも両手首を掴む手はびくともしない。武人程鍛え抜いてはいないけれど、毎日のように畑仕事をこなしている彼に、私が敵う筈もなかった。
「諸葛亮様、何を――――」
次の瞬間感じた感触に、心臓も身体も跳ねた。
自分でつけた傷を、ざらりとした何かが撫でた。
見下ろしても諸葛亮様の髪が濡れた肌に張り付いて視認することが出来ない。
傷の一つ一つをゆっくりと撫で上げられ、走るむず痒さと痛みが混じった感覚に全身が粟立つ。
一旦離れ、また触れる度に身体を震わせるうちに、まさか、と声を震わせた。
これは、諸葛亮様の舌では……?
舐められている?
そう思った途端、足が崩れた。
諸葛亮様の手が私の腰に回って支えてくれる。
彼の唇に微かに血が付着していて、また身体が震えた。
「諸葛、」
――――亮様。
彼の名を、最後まで言えなかった。
私の血で濡れた諸葛亮様の唇が、私のそれに重なったからだ。
そっと重ねるだけの優しい口付け。
こんな関係だから、初夜の時に交わして以降口付けもしていない。
あの夜は初めての行為への戸惑いと、申し訳なさと、恥ずかしさと、諸葛亮様に抱かれることへのほんの少しの安堵感で一杯いっぱいになっていたから、感触も何も覚えていない。諸葛亮様にとても無様な姿を晒していたに違いないから、思い出すのも怖かった。
こんな感触だったのかと唇に意識が集中し、自然と瞼が落ちる。身体から力が抜けていく。
まるで初めて口付けを交わしたような感覚が心地よくて、自分からは離れ難かった。
どれだけの間そうしていたのか分からない。
諸葛亮様が離れていくのに、一抹の名残惜しさを感じた。
間近で視線を絡める。
ふと、急に目頭が痛いくらいに熱くなって、ぼろぼろと涙が溢れてこぼれた。
諸葛亮様の身体に縋りつき、幾度となく謝罪を繰り返した。
「あなたは何も悪くない。私が昨夜の時点で事態の剣呑さに気付いていれば、あなたを一人にしなければ、こうはならなかった。謝るべきは私です。申し訳ありません。○○殿」
私は首を横に振った。
それは違う。
私が遮二無二抵抗すれば良かったのだ。
私が叫んで助けを求めれば良かったのだ。
だのに、私は逃れる為のことなど何一つ出来なかった。
醜女のくせに普通の女のようにただただ恐怖に震えて泣いて、劉ソウ様の好きにさせていただけだった。
あの時、伯母様が部屋に入って来てくれなければ、私は諸葛亮様の妻でありながら、違う男にこの身を貫かれていたのだ。
どんなに言葉を重ねて謝っても許されることではない。
それでも私は、謝り続けた。
諸葛亮様も、何も悪くないのに謝り続けた。
やがて、泣き疲れ流せる涙も底をついた私の手を引き、諸葛亮様は庵に入るなり寝台へ私を押し倒した。
お互いずぶ濡れのまま身体を重ね、口付けを交わす。
なんて都合が良いんだろう。
諸葛亮様に身を委ねながら、私は自分自身を軽蔑する。
ずっと自分は諸葛亮様に相応しくないと思っていたくせに、今、私は帯に手をかけた夫に期待している。
気持ち悪くて仕方がないこの醜く汚れた身体。
今諸葛亮様に、夫に抱かれたら、何もかも無かったことにしてしまえるのではないかと――――。
首筋に舌が這い、私は掠れた声を漏らした。
されども。
諸葛亮様は呻くような声を絞り出し、身を起こした。
ひやりと冷えた身体にえ、と声を漏らす私に、
「着替えて怪我の手当てをしましょう」
「諸葛亮様……?」
「私は外に出ています、着替え終わりましたら呼んで下さい」
早口に言って、庵を出ていく諸葛亮様の後ろ姿が私を拒絶しているように見えた。
全身が、更に更に冷えていく。
震え出した自分の身体を抱き締め、肌に爪を立てた。
嗚呼、もう駄目だ。
諸葛亮様に、拒まれた。
彼にすら、見離された――――。
両手で顔を覆い、奥歯を噛み締める。
涙は枯れて、出てこない。
‡‡‡
翌朝から、私と諸葛亮様の間に明確な壁が出来た。
諸葛亮様は表面上は前と変わらない態度だけれど、明らかに私と距離を置いている。
それが分かるから、私も諸葛亮様に見られるのが怖くて会話を避けるようになり、食事も先に少しだけ食べて諸葛亮様の食事中は夜でも庵の外で過ごすようになった。
寝る時も、もう二人で寝ることは無くなった。
私が諸葛亮様の庵に住み着いたのだから、寝台は諸葛亮様の物。
だから諸葛亮様が寝台を使って良いと何度言われても、私は頑なに寝台を使わなかった。
諸葛亮様も私が使わないならと寝台を使わずに、庵の隅で寝る私のように、寝台の側の床で寝ている。
彼が目覚める前に食事の支度から始めて家事一切を速やかにかつ静かに済ませ、庵の外で私が作った道具の点検に取りかかる。畑仕事は必要以上の会話を避けて、諸葛亮様を手伝う。そして、食事の支度を合間に挟み、夜遅くまで道具を新しく作ったり壊れた物を修理する。
そんな毎日を、事務的にこなした。
劉ソウ様は、遠くの地に暮らす名士のもとへ預けられることになった。二度と私に会うことは無いだろうとは、劉表様の使者の言葉。
劉ソウ様がどうなったとて、現実は変わらない。
彼の存在など、どうでもよくなっていた。
ある日、曇り空の下、棒を上下に動かすことで一定の範囲で水やりを行う装置に不調が見られ、その修理中髪の毛が内部の歯車に絡まってしまった時ふと疑問を抱いた。
私はどうして、髪を伸ばしているのだろう。
今の私に、普通の女のようにお洒落をする必要って、ある?
夫婦と言うにはややぎこちない関係であった私達だけれど、好きという気持ちはお互い持っていた。
諸葛亮様にも避けられる今の私は、諸葛亮様の妻――――女であるのだろうか?
気付けば、頭が軽くなって、膝に地面に赤い繊維が膝掛けか絨毯かのように広がっていた。
これは何だろうと思って、すぐに自分の髪の毛だと分かった。
どうしてか凄く、凄くほっとした。
作業に用いる鋏で肩を少し掠めるくらいまで適当に切り、髪を片付ける。
次に自分の着ている衣服も色合いが派手に見えて、もっと地味な色合いの服を作ろうと思った。
庵の裏で髪を処分し、装置の修理に戻ってくると、装置の側に諸葛亮様が立っていた。
彼は髪を見て、目を剥いた。
「○○殿……それは、」
「邪魔になったので、切りました。それよりも、もしかしてこの装置を使われますか? でしたら急いで修理してしまいますので、それまでお待ち下さい」
早口に言ってしゃがみ込もうとしたのを、諸葛亮様に腕を掴まれて止められた。
髪を手に取り、ざっくばらんな毛先を指で撫でた諸葛亮様はすっと目を細めた。
「……切り揃えましょう」
「必要ありません」
「ですが、これでは」
「髪に気を遣っても意味がありませんから」
自分でも驚くくらいに自然に笑って言えた。
こちらに戻ってから今まで、ずっと笑っていなかったのに。
諸葛亮様は薄く口を開いて固まった。
彼の手をやんわりと剥がし、修理に取りかかる。
短くなった髪は、歯車にも何にも絡みつかなくて楽だった。
不調の原因となった箇所を急いで修繕し、正常に作動するかしっかり確認して、立ち上がる。
見上げた諸葛亮様は、酷く悲しげな目をされていた。
どうしてそんな目をなさるのか私には分からず、取り敢えず彼の視界から消えたくて軽く頭を下げた。
「終わりました。どうぞ」
「っ、○○殿」
背を向けた直後に手を握られる。
私は咄嗟にその手を振り払ってしまった。
乾いた音がした。
手の甲を押さえる諸葛亮様の傷ついたような顔を振り返り、また自然と苦笑が浮かんだ。
「無理をして、私に触れなくてよろしいんですよ」
「私は無理など……」
「大丈夫です。私が悪いんですもの。諸葛亮様に軽蔑されて当然です」
苦笑とは言え、笑いながらすらすらと言える自分の口が、本当に私の物なのか分からなくなった。
でも、それでも――――離縁しても構わないとは言えなくて。情けない。
何かを言おうとする諸葛亮様を遮り、「まだ仕事が残っていますので」頭を下げて私は庵へ逃げた。
派手な服は処分してしまおうと思ったけれど、先に新しい服をある程度仕立ててしまってからにしようと、夕餉の支度に取りかかる。
食べる気が無くて、その日の夕餉は抜いた。
‡‡‡
朝早く、私は朝餉の支度を済ませて一人襄陽へ出かけた。
新しい服を仕立てる為、布を購入するのだ。勿論諸葛亮様のお金ではなく、私が村にいた頃作った小物を行商人に買い取ってもらって地道に貯めたお金を持って。
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