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夜中に、目が覚めた。
諸葛亮様が魘(うな)される声に起こされたのではない。
部屋の中に、自分達とは違う気配を感じて目が覚めたのだった。
諸葛亮様の手を握ったまま起こさぬようそっと身を起こした直後に扉が音を立てた。
「どなたか、そこにいらっしゃるので――――」
暗闇の中、目を凝らして扉を振り返った私は、言葉半ばで声を失った。
扉の向こうにぼんやりと浮かび上がる小さな灯り。
頼りない光にうっすらと照らし出された顔は、
「……りゅ、劉ソウ、さま……?」
その人だった。
どうして彼がこんな夜遅くに、ここにいるんだろう――――寝起きの上に驚いて頭が上手く働いていない私は状況が理解出来ずに暫く劉ソウ様を凝視する。
不意に、諸葛亮様が身動ぎして掠れた声を漏らした。
「どうしました、○○殿」
「あっ、その……」
劉ソウ様は何も言わず、舌打ちして扉を閉めた。
諸葛亮様が上体を起こし扉を見やったのが気配とぼんやりと浮かび上がった影で分かった。
多分、彼にも劉ソウ様の灯りは見えた。
「誰かいたのですか」
「りゅ、劉ソウ様が……部屋の中を覗いていて……」
「劉ソウ様が?」
諸葛亮様が寝台を降りて、扉に近付く。開いて外の様子を窺うこと暫し、「何故あの方がこんな夜更けに……」怪訝そうに呟いて戻ってきた。
劉ソウ様は、諸葛亮様ではなく私を見ていた。
扉を閉める前にも、睨まれたように思う。
「私……劉ソウ様に何かご無礼でも働いてしまったのでしょうか……」
「私が知る限りでは、宴の席では一言も交わしていなかったように見えましたが。席も離れていたでしょう」
私は頷いた。
宴の席では全く話していないし、目も合っていない。
中庭にいた時もそうだった。
もしかしたら庭での私と諸葛亮様の様子を見て不快に思われたのかもしれない。
だけど、あの時酒が入っていた諸葛亮様にそのことは言えず、首を傾げるだけに留めた。
諸葛亮様は暫し思案し、細く吐息を漏らした。
「私も、劉ソウ様とは挨拶程度の言葉しか交わしていません。明日、私から直接劉ソウ様にお訊ねしてみましょう」
取り敢えず、今はお互い心当たりが無いので考えても時間の無駄だということで、もう一度眠ることにした。
不穏な出来事に胸がざわついて眠気もすっかり覚めてしまった私を抱き寄せて、睡魔が再び私に歩み寄ってきてくれるまで頭を撫でていてくれた。
諸葛亮様のお陰で、時間はかかったけれど眠気が戻ってきてくれた。……やはり、目覚めはあまり良くはなかったけれど。
朝から劉ソウ様に訊ねに行くと、諸葛亮様は朝餉の席に呼ばれるのも待たずに着替えて劉ソウ様の部屋へ。
私は何となく、諸葛亮様が戻ってくるのを待っていたくて、着替えた後伯母様の侍女が部屋まで呼びに来ても謝罪しつつ断った。
諸葛亮様は、なかなかお戻りにはならなかった。
伯母様が気を遣って下さって侍女に運ばせた二人分の膳を前に座って、長い時間待っていたと思う。
扉が叩かれて、諸葛亮様だと思って相手を確認せず扉を開けた私は、
次の瞬間頬に鋭い衝撃を受け後ろに尻餅をついた。
「え……っ?」
じんじんと痛み出す頬を押さえ、廊下から私を見下ろしてくる人物を見上げた。
愕然とした。
「え……りゅ、劉ソウ……さ、ま……?」
劉ソウ様は私の頬を叩いた手をそのままに、冷たくも荒々しい怒りが渦巻く眼差しで私を見下している。
何故、突然劉ソウ様に頬を叩かれたのか分からない。
こんな風に怒りを向けられる心当たりも。
劉ソウ様の口から歯軋りが聞こえる。
かと思えばぶつぶつと呟き出し、大股に部屋に入ってくる。
とても剣呑なモノを感じた私はすぐに立ち上がって距離を取った。
「劉ソウ様……な、何をなさるのです」
「五月蠅い、五月蠅い、五月蠅い、裏切り者め、裏切り者め、裏切り者め……」
「う、裏切り……?」
聞き取れた言葉の意味が全く分からなかった。
どういうこと?
裏切ったって、何を?
話したことだって無いのに……。
何に対する憤懣(ふんまん)か、激しい怒気をまとって私に近付いてくる。
呟きは徐々に大きくなっていった。
彼がどうして怒っているのか分かってきたけれど、やっぱり私にはよく分からなかった。
「お前は僕の婚約者だったろう。母上が醜女のお前を憐れんで僕の婚約者にしてやったんだ。だのにお前は別の男と結婚しやがって……。醜女に男を選ぶ権利なんてある訳ないだろ。お前は僕の婚約者なんだから他の男と結ばれて良い筈ないだろ。この尻軽女め……この尻軽女め……」
「わ、私が、劉ソウ様の婚約者……?」
そんな話、聞いたこと無い……。
困惑して言葉を返せない私に、劉ソウ様はぎりぎり歯軋りして唸るような声を漏らし、近付いてくる。
劉ソウ様の様子は普通じゃない。
私は近付いてくる彼との距離を保ちつつ、扉へ移動する。
けども、不意に劉ソウ様が奇声を上げて膳を蹴り上げたのに驚いて動きを止めてしまった。
その隙を突かれて腕を物凄い力で握られ、料理が散らばった床に引き倒されてしまった。
服も顔も料理まみれになった私の身体に馬乗りになる劉ソウ様の人間のものとは思えないおぞましい形相に、悲鳴どころか声も出せなかった。
劉ソウ様は、獰猛な獣みたいに荒々しい血走った目で私を睨み、私の頬を両手を交互に振るって四度殴る。
その手で、襟を掴んだ。
全身が一気に冷えた。
「お前が僕の婚約者であることを思い知らせてやる。婚約者の僕が責任を持って仕置きしてやる」
「……っひ――――」
叫ばなければ。
叫んで……叫んで助けを呼ばなければ!!
そう思うのに、声帯が上手く機能してくれない。
「ひ」とか、「いあ」とか、弱々しく掠れた声しか出てこない。
声は出せないのに、涙は溢れてくる。
劉ソウ様が、翠宝の前の夫と重なり、怖くて怖くて震える身体を思うように動かせない。抵抗しなければと思うのに!
襟が大きく開かれた。ぶちぶちと嫌な音を立てて。
胸が劉ソウ様の目に晒される。
劉ソウ様は目を見開き、口角をつり上げる。
じゅるり。涎を啜り損ねて私の鎖骨の辺りに落ちた。
「黒い肌……なんて醜い女……だからお前には僕しかいないんだ。僕の婚約者になれるなんて、お前には贅沢な待遇なんだ。僕はお前の婚約者なんだから、今からそれを分からせてやるんだ……」
「……っひ、ぃ……」
嗚呼、どうして大声を出さないの! 抵抗しないの!
逃げないと犯される。諸葛亮様の妻であるのに、他の男性に。
涙だけは感じる恐怖の分だけ溢れて止まらない。
視界が滲んでいく。
劉ソウ様の表情も分からない。
でも、彼の頭が降りてきたのは分かった。
どうか悪夢であってくれと、心から願った。
目が覚めたら朝で、いつものように諸葛亮様と同じ寝台で、手を繋いでいるのだと。
しかし、乳房の間を這う生温かくてざらざらした感触は現実だと、頭では分かってしまう。
助けて、と。
誰にも届かない情けない声で呟いた。
その時だ。
『○○? どうしたの? 変な怒鳴り声が聞こえたけれど――――』
劉ソウ様の奇声を聞きつけた伯母様が、私へ呼びかけながら部屋に入ってきた。
部屋の惨状につかの間固まった直後、私達に気付き、短い悲鳴を上げる。
そこで、やっと、私は、
「ぁ……た……たすけて……っ」
まともな言葉を発することが出来た。
伯母様は青ざめて私の胸を舐め回す劉ソウ様を突き飛ばし、私を抱き締めて庇って下さった。
「誰か!! 誰か来て!! 劉ソウが……劉ソウがっ!!」
狼狽えた伯母様の悲痛な金切り声。
劉ソウ様が何かを叫んでいるけれど、泣いているようで声が潰れて上手く聞き取れなかった。
「○○に近付かないで!!」伯母様は劉ソウ様を怒鳴りつけると、わんわん泣き喚く。
「どうしてこんなことに……」
伯母様の身体も、震えている。
駆けつけた兵士に混ざって諸葛亮様が飛び込み、部屋の状況に唖然とした。
伯母様が見たことを伝え、私を諸葛亮様に渡して兵士に幼子のように劉ソウ様を劉表様の部屋へ連れて行くように命じた。
困惑しつつも従う兵士に両側を固められ、劉ソウ様は激しく泣き叫んで抵抗する。
幼い言葉遣いで自分こそが私の婚約者なのだと繰り返し主張するのを、伯母様や兵士は怪訝な顔をして見ていた。
「劉ソウが○○の婚約者って……どういうこと?」
「……ぉ、伯母様が……私を劉ソウ様の……こ、婚約者に、した、って……」
まだ、声が震えている。
諸葛亮様に抱き締められながら何とかそう言うと、伯母様は眉間に皺を寄せて首を傾げた。
「わたくしが? そんなことしていないわ。あの子は人見知りが激しくて、てっきり○○が苦手なんだとばかり……」
記憶を手繰っているのか、伯母様は遠い目をして青ざめた顔を僅かに上に向ける。
ややあって、「あっ」と声を漏らして渋面を作った。
「まだあなた達が小さかった頃、旦那様と一緒に○○をどちらかの婚約者にしようか話をしたことがあったわ。ただ、劉キは病弱だし、劉ソウは○○のことが苦手だから駄目ねって結論にその場で落ち着いたのだけれど……でもその時あの子達はわたくし側にいたし、小さくてもそれは分かっていた筈よ。劉キがそうだったもの……」
「ですが、実際にそう思い込んでおられたようですよ」
責めるような厳しい響きの諸葛亮様の言葉に、伯母様は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「そうね……わたくしはこのまま旦那様と共に劉ソウと話をしてみます。その上で、彼にどう罰を下すか決めましょう。○○。劉ソウが、怖い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい。母親として、深くお詫びします」
「おばさま……」
私は、深く頭を下げる伯母様に頭を下げ返すこともままならなかった。
伯母様は私達を今日中に馬車で隠宅へ帰すことを約束し、一旦別の客室を用意するよう侍女に命じて、足早に劉表様の部屋へと向かった。
私は、伯母様の侍女が部屋を片付ける間も、彼女達に顔の手当てを受ける間も、別の部屋に移ってからも、ずっと諸葛亮様に抱き締められていた。
何も考えられず……いえ、考えようとすれば劉ソウ様の形相を思い出してしまうから、考えたくなかった。
諸葛亮様の袖に縋りつくと腕の力がゆっくりと増していった。
やがて、伯母様は顔色の悪い劉表様を伴って戻ってくると劉表様と諸葛亮様を部屋に残し、私を浴場へ連れて行った。伯母様手ずから私の身体を少し痛いくらいに洗った。
いつもは恐ろしく思うのに、大量のお湯を前に、身体を濡らすお湯の感触に、私は何も思わなかった。
真新しい服を着せられ、そのまま城の外に待機させていた馬車へ乗り込まされる。諸葛亮様が来るまで伯母様が横に座って抱き締めていてくれた。
諸葛亮様が合流して伯母様が降り、御者が馬を動かす。
劉表様と伯母様の申し訳なさそうな顔に見送られ、私達は襄陽を出た。
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