※微裏、流血(自傷)、狂を含みます。



 諸葛亮様の妻になって、私も彼の人里避けた庵に暮らすことになった。
 夫婦になったのだから砕けても良いのにと翠宝や両親に言われているのだけれど、今でもお互い敬語が抜けないままだ。

 ただ、口調はそのままでも、祝言を上げる前とは諸葛亮様の態度は随分と違っている。
 庵に私を迎えた諸葛亮様は私と接していると、村でお会いしていた頃に比べてとても穏やかな顔になる。
 それに、優しい微笑みも時折見せてくれる。

 庵に暮らし始めて一年にもなると、人里離れた土地での晴耕雨読の暮らしにも慣れた。
 元々畑仕事はしていたし、それをより効率化する為の設備を私が整えればうんと楽になった。

 小さな庵である為に二人で一つの寝台で共寝するのが至極恥ずかしい苦行に思えたのは最初だけ。

 お互い仰向けで寝ていた筈の諸葛亮様が、朝には私の手を握り締めていることが稀にあって、その朝は寝覚めが少し悪そうだった。

 そう言う時は決まって、昔の夢を見ている。
 弟妹と戦火から逃げていた時の――――気付けば諸葛亮様たった一人でいた時の、再現を。
 毎夜その夢を見ている訳ではないけれど、私が来たばかりの頃は頻繁だった。

 魘(うな)されている諸葛亮様の苦しげな声で夜中に目が覚めることもあった。
 その時には、私から手を強く握って身体を密着させると、苦悶の顔がほんの少しだけ和らぐ。
 私などに出来ることは、それが限界だった。それでも、ほんの少しでも彼の心が楽になるのなら――――そう思ううちに私の中で羞恥も薄れ、失せた。

 穏やかな眠りを願って繰り返していたことが、功を奏したのかは分からない。
 二ヶ月経った頃には、諸葛亮様が夢に魘されることは随分と減った。
 諸葛亮様から見ても、夢を見る回数も、目覚めの悪さも、私と暮らすようになって見違えて減っているらしい。
 気を遣わせていることに謝罪され、そして感謝もされた。

 寝る前に手を握ると、諸葛亮様が微かにほっとした顔をするのが、嬉しかった。

 暮らしに慣れた頃、度々諸葛亮様へ登城を乞うていた劉表様が、たまには伯父に元気な顔を見せなさいとの手紙を使者を介して送ってきた。
 母の縁で親戚になったとは言え、荊州牧の劉表様とは身分があまりに違い過ぎる。私のような女が、気安く挨拶するなんて恐れ多い。
 伯母様からも祝わせて欲しいとの手紙も添えてあったけれど、それを理由に腰が引けてしまって使者にすぐに答えを返せなかった。

 劉表様も、私が尻込みすることは予想されていたのだろう。
 三日後に答えを聞きに再び使者が訪問することが、あらかじめ予定されていてほっとした。

 私としてはやはり劉表様に迷惑をかけてしまうかもしれないのが不安で断るつもりでいたのだけれど……諸葛亮様に自分も共に行くからと諭されてしまうと、断れない。

 三日後同じ頃に返答を聞きに来た使者に諸葛亮様がその旨を伝え、その日から五日後に登城する約束を交わした。


 後になって思えば、ここで頑なに行かないと決めていれば、あんなことにはならなかった。


 久方振りに拝謁した劉表様は、年齢を重ねてもまだまだ健やかそうで安心した。
 伯母様やご長男の劉キ様、弟君の劉ソウ様も息災なご様子で、私達を迎えて下さった。


「おお、○○よ。長らく見ぬうちに、瑞々しく、美しくなったな。野を駆けて承彦殿を振り回していた幼子の姿が嘘のようだ」

「劉表様……どうか昔のことは仰らないで下さいまし。今となっては、お恥ずかしい……」

「いや、なに、親にとって子がいつまでも子であるように、儂にとってもそなたはいつまでも可愛い姪なのだ」

「光栄至極に存じます……」


 劉表様は少し寂しそうに眉を下げる。
 言いたいことは分かるけれど、私はそれに気付かぬフリをした。

 ほんの少しだけ空気が重くなったところで、劉キ様が声を弾ませて、


「お二人共。ご結婚おめでとうございます。遅ればせながら、今夜祝いの席を設けさせていただきますので、お二人共、どうかごゆるりとお楽しみ下さい」

「え? い、いいえ、そんな……」


 恐れ多いと断ろうとした私の言葉を諸葛亮様が遮ってしまう。


「ありがとうございます。劉キ様」

「○○殿も、今宵は互いの身分などお気になさらず、父上に昔のように伯父と接してあげて下さい。○○殿が登城して下さると聞いてから、父上はずっと浮き足立って落ち着かなかったのですから」

「これ、劉キ。伯父としての威厳を崩すでない」


 劉表様が拗ねたように言うのに、劉キ様は悪戯っぽく笑った。

 劉ソウ様は、さっきからずっと劉キ様のお隣で憮然として佇んでいて、伯母様に窘められても私を見ようともしない。

 彼の態度は昔からだ。

 身分などを理解出来ない程幼かった頃、時折伯母様に連れられて村に遊びに来ていた劉キ様と劉ソウ様は、私に対する態度が対照的だった。
 劉キ様は初対面から友好的で子供なりに礼儀正しく接してくれるのに対し、劉ソウ様は私に近付かず、一度たりとも私と目を合わせるどころか顔すら見ようとしなかった。当然、劉ソウ様と言葉を交わしたことも一度も無い。

 今もそのままであることを少しだけ残念に思いながら、私は朗らかに話しかけて下さる劉表様につられて、口元を弛めた。



‡‡‡




 宴は、恐縮してしまうくらい大々的なものだった。
 諸葛亮様と並んで劉表様の隣に座った私は、申し訳なさと気恥ずかしさと、私のことをこんなにも喜んでくれる人がいることに対する嬉しさが胸の中で綯(な)い交ぜになって、居たたまれない気持ちになっていた。

 伯母様や劉キ様が、私に話しかけて下さるのがありがたかった。

 諸葛亮様は、すっかり酔いが回って上機嫌で話す劉表様の相手をしていて、私と話す暇は無いようだった。時折私の様子を流し目に確かめて下さっているようだけど、すぐに劉表様に引き戻されてしまう。

 楽士の方々の貴重な演奏も酔いの賑わいで掻き消され、いよいよ熱気と酒気が広間に充満する。
 酒に弱い私は飲んではいないけど空気に当てられて体温が上がって少しくらくらし始めたので、伯母様と劉キ様に断って、中庭で風に当たらせてもらうことにした。
 諸葛亮様にも一言と思ったけれど、劉表様の止まらないお話に隙が無く、伯母様が後で割って入って伝えておいてくれると言ってくれたのでそれに甘えさせてもらうことにした。

 伯母様が侍女を一人つけると仰って下さったけれど、昔伯母様の侍女が全員私を見てほんの一瞬顔を歪めたことはまだ記憶に残っている。

 やんわりと断って、私は一人席を立つ。
 諸葛亮様が私の動きに気付いて顔を向けるも、劉表様のお話を蔑(ないがし)ろにする訳にもいかない。
 私は申し訳なさそうに頭を下げる諸葛亮様に頭を下げ返して、広間を出た。

 熱気のこもった広間から出ると、打って変わってひんやりとした風が火照った身体を撫でていく。
 鳥肌が立った腕を服の上からさすり、私は少し道に迷って中庭に出た。

 回廊のぼんやりとした灯りに照らされた中庭の中央にある亭(てい)に入り、側の小池に背を向けて腰かけた。まだ、水は怖い。
 ささやかな虫の鳴き声に耳を傾け、目を閉じる。
 肺に溜まった酒気を吐き出そうと、何度も深呼吸を繰り返した。

 と、不意に何処からか視線を感じる、首を巡らせ身を捩り、その姿を捉える。

 驚いた。


「劉ソウ様……?」


 彼が一人で回廊の柱に寄りかかって腕を組んでいる。
 どうやら、視線は彼のものだったらしい。彼を視界に入れた瞬間顔が背けられた。
 劉ソウ様が私を見ていたことに驚いた。挨拶をしておくべきかもと思ったけれど、何処か不機嫌そうで近付くことは憚(はばか)られた。

 ひょっとすると賑やかな場所が苦手で逃げてきたのかもしれないと思い、私は彼の存在には気付かないフリをして、冷たく、やや強い風が亭を吹き抜けていくのに村にいた頃よりも長く伸びた髪を押さえた。

 それから暫く、時折劉ソウ様の様子をこっそり窺いながら火照った頬を冷ましていると、


「○○殿。あまり長居すると風邪を引かれますよ」

「諸葛亮様」


 彼が、隣に腰を下ろす。


「劉表様は?」

「○○殿がおられないことにお気付きになられまして、私に捜してくるようにと」


 苦笑を浮かべる諸葛亮様が少しだけほっとしているように見えた。


「なかなか、離してもらえませんでしたものね」

「○○殿の夫が私なぞであるにことも喜んでいただけているようで、至極光栄です」

「『私なぞ』だなんて……」


 それはこちらが言うべき言葉である――――とまで言おうとして、途中で口を噤んだ。
 諸葛亮様は小さく笑った。


「私達はお互い、相手の伴侶として相応しくないと考えていますね。その点では、私達は似た者同士だ」


 柔和な眼差しでこちらを見てくるのに、気恥ずかしさから笑みが強ばってしまって俯いてしまった。

 すると、諸葛亮様の手が、膝に置いた私の手に重ねられる。軽い力で恐る恐る握られた。
 長い溜息を付いた諸葛亮様に顔を向けると、


「私があなたの夫であることを劉表様に認められて、今は心から安堵しています」


 僅かに諸葛亮様の身体が傾き、私に寄りかかる。酒の匂いがした。きっと、劉表様に飲まされたのね。
 泥酔する程は飲んでいないようだけれど、諸葛亮様の手はいつもより熱いし、心中をほんの少しこぼしてしまう程度には酒が回っているみたい。
 劉表様の城であるにも関わらず、こうして私に寄りかかってくるのもきっと酒の所為。

 いつもの諸葛亮様なら、この庭に劉ソウ様がいらっしゃることもこの亭に入る前に分かっていた筈だ。

 劉ソウ様、不快になられていなければ良いのだけれど……。
 不安に思って劉ソウ様のいる回廊に目を向けると、彼の姿は無かった。

 お戻りになられたようだ。

 今の状態を見られていたかもしれないと思うと、広間に戻るのに少しだけ気が引けた。

 そのまま諸葛亮様に劉表様との会話について聞いていると、伯母様が庭に来て、部屋を用意したから今日は城に泊まっていくようにと言われた。戻りづらかったし、諸葛亮様も酒の影響が少なからずあるので、有り難く甘えさせてもらうことにした。

 部屋は夫婦だからと一部屋に。
 二人で寝ても余裕のある寝台をこの日の為に職人に急いで作らせたと聞いて、申し訳なく思った。

 伯母様に冗談混じりにここで子供を作っても良いのよと言われたのに、曖昧に笑って返すしか無かった。

 一応、私はもう処女ではなくなっている。
 初夜に一度だけ、諸葛亮様と肌を重ね合った。
 それ以降は、無い。

 私自身、肌の黒い身体で諸葛亮様に抱かれることが申し訳なくてたまらなかった。今また重ねても、きっと私は同じことを思うだろう。

 それが、諸葛亮様にも伝わってしまったのだと思う。
 諸葛亮様から求められることは無い。
 同じ寝台で手を繋いだりぴったり寄り添って眠るだけだ。

 伯母様が用意して下さった寝衣に着替え、自宅と同じように手を繋いで身を寄せ合って横になった。



‡‡‡




 夜中に、目が覚めた。
 諸葛亮様が魘(うな)される声に起こされたのではない。

 部屋の中に、自分達とは違う気配を感じて目が覚めたのだった。
 諸葛亮様の手を握ったまま起こさぬようそっと身を起こした直後に扉が音を立てた。


「どなたか、そこにいらっしゃるので――――」


 暗闇の中、目を凝らして扉を振り返った私は、言葉半ばで声を失った。
 扉の向こうにぼんやりと浮かび上がる小さな灯り。

 頼りない光にうっすらと照らし出された顔は、


「……りゅ、劉ソウ、さま……?」


 その人だった。
 どうして彼がこんな夜遅くに、ここにいるんだろう――――寝起きの上に驚いて頭が上手く働いていない私は状況が理解出来ずに暫く劉ソウ様を凝視する。

 不意に、諸葛亮様が身動ぎして掠れた声を漏らした。


「どうしました、○○殿」

「あっ、その……」


 劉ソウ様は何も言わず、舌打ちして扉を閉めた。

 諸葛亮様が上体を起こし扉を見やったのが気配とぼんやりと浮かび上がった影で分かった。
 多分、彼にも劉ソウ様の灯りは見えた。


「誰かいたのですか」

「りゅ、劉ソウ様が……部屋の中を覗いていて……」

「劉ソウ様が?」


 諸葛亮様が寝台を降りて、扉に近付く。開いて外の様子を窺うこと暫し、「何故あの方がこんな夜更けに……」怪訝そうに呟いて戻ってきた。

 劉ソウ様は、諸葛亮様ではなく私を見ていた。
 扉を閉める前にも、睨まれたように思う。


「私……劉ソウ様に何かご無礼でも働いてしまったのでしょうか……」

「私が知る限りでは、宴の席では一言も交わしていなかったように見えましたが。席も離れていたでしょう」


 私は頷いた。
 宴の席では全く話していないし、目も合っていない。
 中庭にいた時もそうだった。

 もしかしたら庭での私と諸葛亮様の様子を見て不快に思われたのかもしれない。
 だけど、あの時酒が入っていた諸葛亮様にそのことは言えず、首を傾げるだけに留めた。

 諸葛亮様は暫し思案し、細く吐息を漏らした。


「私も、劉ソウ様とは挨拶程度の言葉しか交わしていません。明日、私から直接劉ソウ様にお訊ねしてみましょう」


 取り敢えず、今はお互い心当たりが無いので考えても時間の無駄だということで、もう一度眠ることにした。
 不穏な出来事に胸がざわついて眠気もすっかり覚めてしまった私を抱き寄せて、睡魔が再び私に歩み寄ってきてくれるまで頭を撫でていてくれた。

 諸葛亮様のお陰で、時間はかかったけれど眠気が戻ってきてくれた。……やはり、目覚めはあまり良くはなかったけれど。

 朝から劉ソウ様に訊ねに行くと、諸葛亮様は朝餉の席に呼ばれるのも待たずに着替えて劉ソウ様の部屋へ。
 私は何となく、諸葛亮様が戻ってくるのを待っていたくて、着替えた後伯母様の侍女が部屋まで呼びに来ても謝罪しつつ断った。

 諸葛亮様は、なかなかお戻りにはならなかった。
 伯母様が気を遣って下さって侍女に運ばせた二人分の膳を前に座って、長い時間待っていたと思う。

 扉が叩かれて、諸葛亮様だと思って相手を確認せず扉を開けた私は、


 次の瞬間頬に鋭い衝撃を受け後ろに尻餅をついた。


「え……っ?」


 じんじんと痛み出す頬を押さえ、廊下から私を見下ろしてくる人物を見上げた。
 愕然とした。


「え……りゅ、劉ソウ……さ、ま……?」


 劉ソウ様は私の頬を叩いた手をそのままに、冷たくも荒々しい怒りが渦巻く眼差しで私を見下している。

 何故、突然劉ソウ様に頬を叩かれたのか分からない。
 こんな風に怒りを向けられる心当たりも。

 劉ソウ様の口から歯軋りが聞こえる。
 かと思えばぶつぶつと呟き出し、大股に部屋に入ってくる。

 とても剣呑なモノを感じた私はすぐに立ち上がって距離を取った。


「劉ソウ様……な、何をなさるのです」

「五月蠅い、五月蠅い、五月蠅い、裏切り者め、裏切り者め、裏切り者め……」

「う、裏切り……?」


 聞き取れた言葉の意味が全く分からなかった。

 どういうこと?
 裏切ったって、何を?
 話したことだって無いのに……。

 何に対する憤懣(ふんまん)か、激しい怒気をまとって私に近付いてくる。

 呟きは徐々に大きくなっていった。

 彼がどうして怒っているのか分かってきたけれど、やっぱり私にはよく分からなかった。


「お前は僕の婚約者だったろう。母上が醜女のお前を憐れんで僕の婚約者にしてやったんだ。だのにお前は別の男と結婚しやがって……。醜女に男を選ぶ権利なんてある訳ないだろ。お前は僕の婚約者なんだから他の男と結ばれて良い筈ないだろ。この尻軽女め……この尻軽女め……」

「わ、私が、劉ソウ様の婚約者……?」


 そんな話、聞いたこと無い……。
 困惑して言葉を返せない私に、劉ソウ様はぎりぎり歯軋りして唸るような声を漏らし、近付いてくる。

 劉ソウ様の様子は普通じゃない。
 私は近付いてくる彼との距離を保ちつつ、扉へ移動する。

 けども、不意に劉ソウ様が奇声を上げて膳を蹴り上げたのに驚いて動きを止めてしまった。
 その隙を突かれて腕を物凄い力で握られ、料理が散らばった床に引き倒されてしまった。

 服も顔も料理まみれになった私の身体に馬乗りになる劉ソウ様の人間のものとは思えないおぞましい形相に、悲鳴どころか声も出せなかった。

 劉ソウ様は、獰猛な獣みたいに荒々しい血走った目で私を睨み、私の頬を両手を交互に振るって四度殴る。
 その手で、襟を掴んだ。

 全身が一気に冷えた。


「お前が僕の婚約者であることを思い知らせてやる。婚約者の僕が責任を持って仕置きしてやる」

「……っひ――――」


 叫ばなければ。
 叫んで……叫んで助けを呼ばなければ!!
 そう思うのに、声帯が上手く機能してくれない。
 「ひ」とか、「いあ」とか、弱々しく掠れた声しか出てこない。

 声は出せないのに、涙は溢れてくる。
 劉ソウ様が、翠宝の前の夫と重なり、怖くて怖くて震える身体を思うように動かせない。抵抗しなければと思うのに!

 襟が大きく開かれた。ぶちぶちと嫌な音を立てて。
 胸が劉ソウ様の目に晒される。

 劉ソウ様は目を見開き、口角をつり上げる。
 じゅるり。涎を啜り損ねて私の鎖骨の辺りに落ちた。


「黒い肌……なんて醜い女……だからお前には僕しかいないんだ。僕の婚約者になれるなんて、お前には贅沢な待遇なんだ。僕はお前の婚約者なんだから、今からそれを分からせてやるんだ……」

「……っひ、ぃ……」


 嗚呼、どうして大声を出さないの! 抵抗しないの!
 逃げないと犯される。諸葛亮様の妻であるのに、他の男性に。

 涙だけは感じる恐怖の分だけ溢れて止まらない。
 視界が滲んでいく。
 劉ソウ様の表情も分からない。

 でも、彼の頭が降りてきたのは分かった。

 どうか悪夢であってくれと、心から願った。
 目が覚めたら朝で、いつものように諸葛亮様と同じ寝台で、手を繋いでいるのだと。

 しかし、乳房の間を這う生温かくてざらざらした感触は現実だと、頭では分かってしまう。

 助けて、と。
 誰にも届かない情けない声で呟いた。

 その時だ。


『○○? どうしたの? 変な怒鳴り声が聞こえたけれど――――』


 劉ソウ様の奇声を聞きつけた伯母様が、私へ呼びかけながら部屋に入ってきた。
 部屋の惨状につかの間固まった直後、私達に気付き、短い悲鳴を上げる。

 そこで、やっと、私は、


「ぁ……た……たすけて……っ」


 まともな言葉を発することが出来た。

 伯母様は青ざめて私の胸を舐め回す劉ソウ様を突き飛ばし、私を抱き締めて庇って下さった。


「誰か!! 誰か来て!! 劉ソウが……劉ソウがっ!!」


 狼狽えた伯母様の悲痛な金切り声。

 劉ソウ様が何かを叫んでいるけれど、泣いているようで声が潰れて上手く聞き取れなかった。
 「○○に近付かないで!!」伯母様は劉ソウ様を怒鳴りつけると、わんわん泣き喚く。


「どうしてこんなことに……」


 伯母様の身体も、震えている。

 駆けつけた兵士に混ざって諸葛亮様が飛び込み、部屋の状況に唖然とした。
 伯母様が見たことを伝え、私を諸葛亮様に渡して兵士に幼子のように劉ソウ様を劉表様の部屋へ連れて行くように命じた。

 困惑しつつも従う兵士に両側を固められ、劉ソウ様は激しく泣き叫んで抵抗する。
 幼い言葉遣いで自分こそが私の婚約者なのだと繰り返し主張するのを、伯母様や兵士は怪訝な顔をして見ていた。


「劉ソウが○○の婚約者って……どういうこと?」

「……ぉ、伯母様が……私を劉ソウ様の……こ、婚約者に、した、って……」


 まだ、声が震えている。
 諸葛亮様に抱き締められながら何とかそう言うと、伯母様は眉間に皺を寄せて首を傾げた。


「わたくしが? そんなことしていないわ。あの子は人見知りが激しくて、てっきり○○が苦手なんだとばかり……」


 記憶を手繰っているのか、伯母様は遠い目をして青ざめた顔を僅かに上に向ける。
 ややあって、「あっ」と声を漏らして渋面を作った。


「まだあなた達が小さかった頃、旦那様と一緒に○○をどちらかの婚約者にしようか話をしたことがあったわ。ただ、劉キは病弱だし、劉ソウは○○のことが苦手だから駄目ねって結論にその場で落ち着いたのだけれど……でもその時あの子達はわたくし側にいたし、小さくてもそれは分かっていた筈よ。劉キがそうだったもの……」

「ですが、実際にそう思い込んでおられたようですよ」


 責めるような厳しい響きの諸葛亮様の言葉に、伯母様は申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「そうね……わたくしはこのまま旦那様と共に劉ソウと話をしてみます。その上で、彼にどう罰を下すか決めましょう。○○。劉ソウが、怖い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい。母親として、深くお詫びします」

「おばさま……」


 私は、深く頭を下げる伯母様に頭を下げ返すこともままならなかった。

 伯母様は私達を今日中に馬車で隠宅へ帰すことを約束し、一旦別の客室を用意するよう侍女に命じて、足早に劉表様の部屋へと向かった。

 私は、伯母様の侍女が部屋を片付ける間も、彼女達に顔の手当てを受ける間も、別の部屋に移ってからも、ずっと諸葛亮様に抱き締められていた。

 何も考えられず……いえ、考えようとすれば劉ソウ様の形相を思い出してしまうから、考えたくなかった。
 諸葛亮様の袖に縋りつくと腕の力がゆっくりと増していった。

 やがて、伯母様は顔色の悪い劉表様を伴って戻ってくると劉表様と諸葛亮様を部屋に残し、私を浴場へ連れて行った。伯母様手ずから私の身体を少し痛いくらいに洗った。
 いつもは恐ろしく思うのに、大量のお湯を前に、身体を濡らすお湯の感触に、私は何も思わなかった。

 真新しい服を着せられ、そのまま城の外に待機させていた馬車へ乗り込まされる。諸葛亮様が来るまで伯母様が横に座って抱き締めていてくれた。

 諸葛亮様が合流して伯母様が降り、御者が馬を動かす。

 劉表様と伯母様の申し訳なさそうな顔に見送られ、私達は襄陽を出た。



‡‡‡

 庵の前で立ち止まった私は庵からやや離れた池へ衝動的に身を投げた。


「○○殿!?」


 諸葛亮様が慌てて私を追って池の中に入ってくる。

 私の行動にさぞ驚いただろう。
 けど、水よりも、何よりも。


 劉ソウ様に舐め回された胸が、この身体が、気持ち悪くて仕方がなかった。


 袖を引き千切り、襟を開いて袖で強く擦る。何度も何度も、肌が赤くなっても、痛くても、爪が肌を削って血がうっすらと滲み出しても、擦り続けた。
 諸葛亮様に腕を掴まれて止められてもすぐに振り払い、また擦る。

 汚らわしい。
 消えない。
 消えてくれない。
 気持ち悪い感触が消えてくれない!
 どうして、私がこんな目に遭わなければいけないの……!
 脳裏に劉ソウ様の獰猛な形相が浮かび、私は悲鳴を上げた。
 破った袖を放り捨て、頭を抱えて繰り返し叫んだ。


「○○殿! しっかりして下さい、○○殿!!」


 首を左右に振り、舐め回された場所を爪で掻きむしった。爪の中に何かが詰まっていくのが分かったけれど、そんなことに構っていられなかった。

 嫌で嫌でたまらない。
 皮膚を剥いでも、まだ汚い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――――。


「止めろと言っているのが聞こえないのか!?」

「……ッ!?」


 頬をぴしゃりと叩かれ、鈍い痛みに動きを止める。
 敬語も失せて怒鳴った諸葛亮様の顔を見て、全身から血の気が引いた。

 彼の頬に、真新しい引っかき傷があった。浅いが、血がじわりと滲み出ている。

 誰がやったかなんて、決まっている。


「わ、私……っ私……何てこと……!」

「軽傷です」


 諸葛亮様は私の手を取って水に浸け、指先に付いた血と爪と肉の間に詰まった物を丁寧に除いた。
 見下ろした自分の胸元は、真っ赤だった。傷自体は深くはないけれど、掻いているうちに血や皮を鎖骨や乳房の下まで広げてしまったらしい。

 それでも、まだまだ汚いと思った。

 見ているとまた掻きむしりたくなって手をやろうとしたのを、諸葛亮様が強い力で両手首を握って止めた。
 険しい顔で私の胸を見下ろす諸葛亮様が、不意に顔を落としてくる。
 驚いて逃げようとするも両手首を掴む手はびくともしない。武人程鍛え抜いてはいないけれど、毎日のように畑仕事をこなしている彼に、私が敵う筈もなかった。


「諸葛亮様、何を――――」


 次の瞬間感じた感触に、心臓も身体も跳ねた。

 自分でつけた傷を、ざらりとした何かが撫でた。
 見下ろしても諸葛亮様の髪が濡れた肌に張り付いて視認することが出来ない。

 傷の一つ一つをゆっくりと撫で上げられ、走るむず痒さと痛みが混じった感覚に全身が粟立つ。

 一旦離れ、また触れる度に身体を震わせるうちに、まさか、と声を震わせた。

 これは、諸葛亮様の舌では……?
 舐められている?

 そう思った途端、足が崩れた。
 諸葛亮様の手が私の腰に回って支えてくれる。
 彼の唇に微かに血が付着していて、また身体が震えた。


「諸葛、」


――――亮様。
 彼の名を、最後まで言えなかった。

 私の血で濡れた諸葛亮様の唇が、私のそれに重なったからだ。

 そっと重ねるだけの優しい口付け。
 こんな関係だから、初夜の時に交わして以降口付けもしていない。
 あの夜は初めての行為への戸惑いと、申し訳なさと、恥ずかしさと、諸葛亮様に抱かれることへのほんの少しの安堵感で一杯いっぱいになっていたから、感触も何も覚えていない。諸葛亮様にとても無様な姿を晒していたに違いないから、思い出すのも怖かった。

 こんな感触だったのかと唇に意識が集中し、自然と瞼が落ちる。身体から力が抜けていく。

 まるで初めて口付けを交わしたような感覚が心地よくて、自分からは離れ難かった。
 どれだけの間そうしていたのか分からない。
 諸葛亮様が離れていくのに、一抹の名残惜しさを感じた。

 間近で視線を絡める。
 ふと、急に目頭が痛いくらいに熱くなって、ぼろぼろと涙が溢れてこぼれた。

 諸葛亮様の身体に縋りつき、幾度となく謝罪を繰り返した。


「あなたは何も悪くない。私が昨夜の時点で事態の剣呑さに気付いていれば、あなたを一人にしなければ、こうはならなかった。謝るべきは私です。申し訳ありません。○○殿」


 私は首を横に振った。
 それは違う。
 私が遮二無二抵抗すれば良かったのだ。
 私が叫んで助けを求めれば良かったのだ。

 だのに、私は逃れる為のことなど何一つ出来なかった。
 醜女のくせに普通の女のようにただただ恐怖に震えて泣いて、劉ソウ様の好きにさせていただけだった。

 あの時、伯母様が部屋に入って来てくれなければ、私は諸葛亮様の妻でありながら、違う男にこの身を貫かれていたのだ。

 どんなに言葉を重ねて謝っても許されることではない。
 それでも私は、謝り続けた。
 諸葛亮様も、何も悪くないのに謝り続けた。

 やがて、泣き疲れ流せる涙も底をついた私の手を引き、諸葛亮様は庵に入るなり寝台へ私を押し倒した。

 お互いずぶ濡れのまま身体を重ね、口付けを交わす。

 なんて都合が良いんだろう。
 諸葛亮様に身を委ねながら、私は自分自身を軽蔑する。
 ずっと自分は諸葛亮様に相応しくないと思っていたくせに、今、私は帯に手をかけた夫に期待している。

 気持ち悪くて仕方がないこの醜く汚れた身体。
 今諸葛亮様に、夫に抱かれたら、何もかも無かったことにしてしまえるのではないかと――――。

 首筋に舌が這い、私は掠れた声を漏らした。


 されども。


 諸葛亮様は呻くような声を絞り出し、身を起こした。
 ひやりと冷えた身体にえ、と声を漏らす私に、


「着替えて怪我の手当てをしましょう」

「諸葛亮様……?」

「私は外に出ています、着替え終わりましたら呼んで下さい」


 早口に言って、庵を出ていく諸葛亮様の後ろ姿が私を拒絶しているように見えた。

 全身が、更に更に冷えていく。
 震え出した自分の身体を抱き締め、肌に爪を立てた。

 嗚呼、もう駄目だ。
 諸葛亮様に、拒まれた。
 彼にすら、見離された――――。
 両手で顔を覆い、奥歯を噛み締める。

 涙は枯れて、出てこない。



‡‡‡




 翌朝から、私と諸葛亮様の間に明確な壁が出来た。

 諸葛亮様は表面上は前と変わらない態度だけれど、明らかに私と距離を置いている。

 それが分かるから、私も諸葛亮様に見られるのが怖くて会話を避けるようになり、食事も先に少しだけ食べて諸葛亮様の食事中は夜でも庵の外で過ごすようになった。

 寝る時も、もう二人で寝ることは無くなった。
 私が諸葛亮様の庵に住み着いたのだから、寝台は諸葛亮様の物。
 だから諸葛亮様が寝台を使って良いと何度言われても、私は頑なに寝台を使わなかった。
 諸葛亮様も私が使わないならと寝台を使わずに、庵の隅で寝る私のように、寝台の側の床で寝ている。

 彼が目覚める前に食事の支度から始めて家事一切を速やかにかつ静かに済ませ、庵の外で私が作った道具の点検に取りかかる。畑仕事は必要以上の会話を避けて、諸葛亮様を手伝う。そして、食事の支度を合間に挟み、夜遅くまで道具を新しく作ったり壊れた物を修理する。
 そんな毎日を、事務的にこなした。

 劉ソウ様は、遠くの地に暮らす名士のもとへ預けられることになった。二度と私に会うことは無いだろうとは、劉表様の使者の言葉。
 劉ソウ様がどうなったとて、現実は変わらない。

 彼の存在など、どうでもよくなっていた。

 ある日、曇り空の下、棒を上下に動かすことで一定の範囲で水やりを行う装置に不調が見られ、その修理中髪の毛が内部の歯車に絡まってしまった時ふと疑問を抱いた。


 私はどうして、髪を伸ばしているのだろう。

 今の私に、普通の女のようにお洒落をする必要って、ある?


 夫婦と言うにはややぎこちない関係であった私達だけれど、好きという気持ちはお互い持っていた。
 諸葛亮様にも避けられる今の私は、諸葛亮様の妻――――女であるのだろうか?

 気付けば、頭が軽くなって、膝に地面に赤い繊維が膝掛けか絨毯かのように広がっていた。
 これは何だろうと思って、すぐに自分の髪の毛だと分かった。

 どうしてか凄く、凄くほっとした。

 作業に用いる鋏で肩を少し掠めるくらいまで適当に切り、髪を片付ける。
 次に自分の着ている衣服も色合いが派手に見えて、もっと地味な色合いの服を作ろうと思った。

 庵の裏で髪を処分し、装置の修理に戻ってくると、装置の側に諸葛亮様が立っていた。

 彼は髪を見て、目を剥いた。


「○○殿……それは、」

「邪魔になったので、切りました。それよりも、もしかしてこの装置を使われますか? でしたら急いで修理してしまいますので、それまでお待ち下さい」


 早口に言ってしゃがみ込もうとしたのを、諸葛亮様に腕を掴まれて止められた。

 髪を手に取り、ざっくばらんな毛先を指で撫でた諸葛亮様はすっと目を細めた。


「……切り揃えましょう」

「必要ありません」

「ですが、これでは」

「髪に気を遣っても意味がありませんから」


 自分でも驚くくらいに自然に笑って言えた。
 こちらに戻ってから今まで、ずっと笑っていなかったのに。

 諸葛亮様は薄く口を開いて固まった。

 彼の手をやんわりと剥がし、修理に取りかかる。
 短くなった髪は、歯車にも何にも絡みつかなくて楽だった。

 不調の原因となった箇所を急いで修繕し、正常に作動するかしっかり確認して、立ち上がる。

 見上げた諸葛亮様は、酷く悲しげな目をされていた。
 どうしてそんな目をなさるのか私には分からず、取り敢えず彼の視界から消えたくて軽く頭を下げた。


「終わりました。どうぞ」

「っ、○○殿」


 背を向けた直後に手を握られる。
 私は咄嗟にその手を振り払ってしまった。

 乾いた音がした。

 手の甲を押さえる諸葛亮様の傷ついたような顔を振り返り、また自然と苦笑が浮かんだ。


「無理をして、私に触れなくてよろしいんですよ」

「私は無理など……」

「大丈夫です。私が悪いんですもの。諸葛亮様に軽蔑されて当然です」


 苦笑とは言え、笑いながらすらすらと言える自分の口が、本当に私の物なのか分からなくなった。
 でも、それでも――――離縁しても構わないとは言えなくて。情けない。

 何かを言おうとする諸葛亮様を遮り、「まだ仕事が残っていますので」頭を下げて私は庵へ逃げた。

 派手な服は処分してしまおうと思ったけれど、先に新しい服をある程度仕立ててしまってからにしようと、夕餉の支度に取りかかる。

 食べる気が無くて、その日の夕餉は抜いた。



‡‡‡




 朝早く、私は朝餉の支度を済ませて一人襄陽へ出かけた。
 新しい服を仕立てる為、布を購入するのだ。勿論諸葛亮様のお金ではなく、私が村にいた頃作った小物を行商人に買い取ってもらって地道に貯めたお金を持って。

 出かける旨を書いた置き手紙を残しておいたから、問題は無い。

 山道を降り中腹に差し掛かった頃、大急ぎで駆け上がってくる男性と出会った。
 いつも劉表様からの言伝を持って来る使者の方だ。
 酷く狼狽している様子の彼は私を見つけると、まるでこの世の終わりでも見たかのように青ざめた。

 髪のことかしら?
 いいえ、それにしては大袈裟な気が……。


「お、奥様……! お一人ですか!?」

「え? ええ。今から襄陽へ買い物に行こうと思って……」

「いけません!! 今すぐご自宅にお戻り下さい!」


 怒鳴るように言われ、勢いに気圧された私は思わず首を竦めた。
 使者は周囲を注意深く見渡し、私を急かす。


「でも、急いで買いたい物がありますし……」

「危険です! 今日だけ……いえ、暫くはご自宅から出ないで下さい!」

「え? き、危険?」


 どういうことなのか、分からない。
 異様な程に焦っている彼に困惑していると、不意に右の茂みが騒ぎ出した。
 山道の右側は急な斜面になっている。足を踏み外して転がり落ちれば、最悪死んでしまう程の。

 そこから躍り出てごろりと足下に転がったのは――――男。


「――――ひっ!?」


 劉ソウ様だった。

 服は薄汚れ、髪はほつればさばさに広がり、髭は伸び放題、血走った目は狂気を宿しぎらぎらと光る。
 そんな酷い有様でありながらすぐに劉ソウ様だと分かったのは、身に染み着いた恐怖故だろう。

 貪婪(どんらん)な瞳を見た瞬間あの日のことを思い出した私は反射的に悲鳴を上げ、きびすを返した。使者を置いて逃げ出してしまった。

 そんな私へ、使者は必死な大声で、


「振り返らずに逃げて下さい!! 諸葛亮先生のもとへ!! 早くっ!!」

「邪魔を、するなあぁぁっ!!」


 劉ソウ様の裏返った怒声に心臓が絞まる。
 恐怖で足がもつれ、転びそうになりながらも必死に山道を駆け上った。

 どうして、どうして彼がここにいるの!?
 遠い土地へ預けられたのではなかったの!?

 劉表様達が嘘をついた?
 それとも、劉ソウ様が逃げた?
 分からない。
 怖い。
 怖い。

 劉ソウ様の怒声と、劉ソウ様を制止する声が私を追いかけてくる。
 少しも引き離せない狂気に、体力が限界に近付いていく身体に、恐怖と混乱と焦燥はどんどん、どんどん増していく。
 頭がおかしくなりそうだ。

 これが夢の延長であるらどんなに良いか!!


「劉ソウ様!! お止め下さい!! ご自分のなさっていることが、劉表様や劉キ様の評判にどれ程悪影響を与えるかお考え下さいっ!!」

「僕と○○を引き裂いた悪魔のことなど知るもんか!! あれは僕の女なんだ!! 母上がそう言ったんだ!! なのになのに母上は嘘をついたんだあぁぁーっ!!」


 年齢に不相応な、まるで駄々っ子のような涙混じりの怒声。
 幼子が癇癪を起こしているような状態の劉ソウ様を、使者は必死に説得する。

 しかし、劉ソウ様は大声で泣き喚いて使者の言葉を掻き消してしまう。

 けれど、声を張り上げ泣き続けたことが災いしてか、私よりも劉ソウ様が先に体力が尽きた。


「劉ソウ様!! 城へ戻るのです!!」


 暫く走り抜けて、止まる。
 崩れそうになる足を踏ん張って、怖々振り返った。

 俯せに倒れた劉ソウ様に、使者が覆い被さり、腕を背中で拘束している。
 荒い呼吸を繰り返す劉ソウ様は、呻くように泣き、私を縋るように見上げている。

 だけど私には、そら恐ろしくてたまらない。

 呼吸を整えながらのろのろと後退し、再び逃げる。

 と――――。


「○○殿!!」

「あ……っ」


 山道の上から血相を変えて諸葛亮様がこちらへ駆けてくる。
 その姿を見た途端、勝手に足から力が抜け、その場に座り込んだ。

 諸葛亮様は青ざめて私の前にしゃがみ込み、抱き締めてくれた。

 安堵して力が抜きかけたのも一瞬のこと、諸葛亮様にも拒まれていたことを思い出し、離れようと彼の胸を手で押した。

 けれど諸葛亮様の腕は更に力を込め、痛いくらいに私を拘束する。指が皮膚に食い込んで痛い。

 彼を見上げて、ぞっとした。


「しょ、諸葛亮様……?」

「……また、か」


 諸葛亮様の呟きは、恐ろしい程に低く、背筋も凍る程に冷たかった。
 ここまで冷然とした眼差しは今まで見たことが無い。諸葛亮様にこのような目が出来るとは、考えもしなかった。

 そんな目を、彼は劉ソウ様へ向けているのだ。
 いつもお世話になっている劉表様の次男へ。

 使者も、私と同じように驚き、戸惑っている。しかし、劉ソウ様を決して解放しない。

 諸葛亮様は私の頭を一つ撫でると、私を放し、ゆっくりとした歩みで劉ソウ様へ近寄った。
 緩慢に懐へ手を伸ばし、何かを抜いた。

 諸葛亮様を憎らしげに睨め上げる劉ソウ様も、使者も、彼が手に持った物を見て血相を変えた。


「しょ、諸葛亮先生! そ、その短剣は……!!」

「短剣……っ!?」


 不穏な単語に思わず立ち上がるも、足に思うように力が入らずにまた崩れてしまう。


「こ、こっ、殺す気かっ、僕から○○を奪って、ぼ、僕の命も奪うのか!?」

「……」


 諸葛亮様は、黙って二人の前にしゃがみ込む。
 そして、見せつけるように徐(おもむろ)に右手を挙げるのだ。
 私からもその手に握られた短剣の鋭い光が見えた。

 私は思わず諸葛亮様を呼んだ。

 諸葛亮様は一度肩越しに私を振り返っただけ。
 すぐに顔を劉ソウ様へと戻し、


 凶器を振り下ろす。


 劉ソウ様が悲鳴を上げた。

 されど。


「へ……?」


 使者が、緊迫した空気に似つかわしくない、気の抜けた声を漏らした。

 諸葛亮様が、立ち上がる。


「私は聖人君子ではない。お前と同じように一人の女性に惚れ込み過ぎた愚かな男だ。そしてその愚かさ故に、今、彼女を苦しめる存在を惨たらしく殺してやりたいと心から思っている。お前が劉表様の子でなければ、実際この短剣を頭を、頭蓋が割れようが脳が潰れようが何度も何度も突き刺していたかもしれない」

「ひ……っ」

「○○は私の妻だ。私以外の男に渡すつもりも触らせるつもりも毛頭無い。……人としてまともな死に方をしたいなら、二度と私達に近付くな」


 冷淡な声音で、諸葛亮様は劉ソウ様を脅す。
 感情が感じられない静かな声である分、私ですら恐ろしく感じられる。

 だけど恐怖以上に私は彼の言葉に驚愕した。

 今、彼は『私の妻だ』と言った。
 他の男に渡すつもりもないとも。
 これが、私の聞き間違い……でないのなら。

 それって――――。

 諸葛亮様が、戻ってくる。

 劉ソウ様の鼻先に刃を向け、地面に突き刺さっている短剣が見えた。
 殺さず、傷つけてもいないことに、安堵した。

 私の前に立った諸葛亮様は手を差し伸べかけて止め、一歩退がった。

 揺れた裾が足を掠め、微かな風が異様に冷たく感じた。


「立てますか?」

「あ……はい」


 立とうとして、よろめいてしまった。
 謝罪すると、諸葛亮様は少しの間躊躇(ためら)って、もう一度私の側へ寄った。


「……申し訳ありません。触ります」


 謝罪して、私の膝裏と背中に手をやる。

 抱き上げられた。


「あの……」

「劉表様にお伝え下さい。劉ソウ殿が○○殿に近付く恐れがある限り、登城は控えさせていただくと」

「は、はい……分かりました」


 使者はぎこちなく数回頷き、啜り泣き始めた劉ソウ様を強引に立たせ、坂道を引きずっていった。

 諸葛亮様は振り返らずに山道を登る。
 彼はずっと無言だった。私も気まずさから口が開かず、庵に戻るまで重たい沈黙が私の胸をを重くした。

 私を寝台に降ろし、諸葛亮様は私に頭を下げる。


「……おぞましいものをお見せして、申し訳ありません」

「え?」


 顔を上げた諸葛亮様は、弱々しく、疲れ切って、とても悲しい顔をしていた。

 手を伸ばすと、逃げるように身を引いた。
 諸葛亮様は私から顔を逸らして、ぽつりと呟いた。


「……結局は、私も劉ソウ様と変わらぬと言うことです」

「あ……」


『お前と同じように一人の女性に惚れ込み過ぎた愚かな男だ』

『彼女を苦しめる存在を惨たらしく殺してやりたいと心から思っている』

『私以外の男に渡すつもりも触らせるつもりも毛頭無い』



 頭の中で繰り返される、つい先程の諸葛亮様の口から発せられた、彼らしくない凶悪な言葉。

 諸葛亮様を見つめるうち、視界が滲んだ。
 絞り出した声は、震えていた。


「……本当に、」


 本当に、それ程の価値が、こんな私にあるのですか?
 問う。

 諸葛亮様が、私を見上げる。

 言葉を返されるのが怖くて早口にまくし立てた。


「私はあなたの妻なのに、劉ソウ様に襲われて、力の限り抵抗することも外へ助けを求めることも出来ませんでした。伯母様が来て下さらなければあの方の好きにされるところでした。だからあの日、私を拒まれたのではないのですか?」


 諸葛亮様の顔が歪む。

 嗚呼、やはりそうなのだ。
 唇を噛み締め、拳を握った。

 ややあって、震える拳に手が重ねられる。


「言ったでしょう。私も彼と同じであると。○○殿が伴侶となり、どれだけ私の心が救われたか。結果、私は後戻り出来ぬ程あなたに依存してしまった。あなたが劉ソウ様に襲われて穏やかでいられる訳がない。他人の唾液で濡れたあなたの身体が気に食わなかった。衝動のままに抱き潰してあなたが私の妻であることを深く刻みつけてやりたいと、おぞましいことを今でも考えているのです」

「……っ!」

「ですがそれでは、抱くのではなく、犯すことになる。私もあなたを苦しめてしまう」


 だから、あの時彼は――――。
 ふ……と肩から力が抜けた。


「出来れば、あなたに知られたくなかった。あなたに軽蔑され、心が離れていくことを恐れて逃げた。自分を守ることだけを考え、あなたを追い詰めてしまった」


 諸葛亮様の目が、私の髪に向けられ、寂しげに揺れる。
 私の両の拳を優しく包み、額を押し当てた。


「私は、醜い男です」

「……諸葛亮様」


 私は、諸葛亮様の後頭部を見下ろした。

 吐露された彼の心。


 心から嬉しいと思った。


 醜女の私に、諸葛亮様がそれだけの感情を抱いてくれたことが。
 こんな私に恐ろしい程に依存してくれていることが。
 私に嫌われることを恐れてくれていることが。

 それだけの価値が、醜い私にあることが。

 凄く、嬉しい……。

 嗚呼、私はこの人の側にいて良いのだ。この人の妻でいて良いのだ。
 歓喜と安堵で身体がとろけてしまいそうだった。

 涙が溢れて止まらない。


「諸葛亮、様……」


 今、私を抱いて下さい。
 声を絞り出し、願う。

 諸葛亮様がぎょっとして手を離そうとしたのを、指を掴んで逃がさなかった。
 困惑も露わに諸葛亮様は言う。


「私の話を聞いておられましたか。私はあなたを、」


 私は首を横に振って、震える手で諸葛亮様の指を引く。
 胸に、押しつける。


「乱暴でも、苦しくても構いません。劉ソウ様の感触がずっと残り続けるより、今ここであなたが私の身体に深く刻まれる方が、遙かに良い……」


 諸葛亮様の目が見開かれた。

 指を放し、諸葛亮様の顔を両手でそっと挟む。
 私から口付けた。

 次の瞬間、肩が掴まれ身体が後ろに倒される。

 唇が離れたのもほんの一瞬、また塞がれる。
 角度を変えて啄(ついば)むような口付けを繰り返しながら、私は諸葛亮様の背中へ腕を回す。

 諸葛亮様が私を求めて私の身体に触れてくれるのに、心から安堵した。



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