聖様
「○○って、そんなに強かったか?」
夏侯淵さんが、不思議そうに仰いました。
私は彼の言葉の意味が分からなくて、首を傾けました。
「私、武術は何もしておりませんよ。そんなの、夏侯淵さんがよくご存じではありませんか」
「いや、そういうことじゃなくてだな……」
夏侯淵さんはお茶を飲みつつ、顔を歪めて私を見つめてきます。
「兄者、○○にはとにかく素直じゃないだろ? 結構キツい言い方もしてるし、幼馴染みったって、よくもまあこんな長い付き合い……というか、婚姻を結べたよなって思ってさ」
ああ、なるほど。肉体的ではなく、精神的な強さを仰っておられたのですね。
私は納得し、ふと近くを通りかかった給仕の女性に声をかけ、饅頭を二皿注文させていただきました。勿論、この支払いは私です。たまたま町中で出会った夏侯淵さんを、お茶にお誘いしたのですから。
にこやかに応じて下さった給仕の女性に頭を下げ、私は夏侯淵さんに言葉を返します。
「それは、幼馴染みだからでしょうか。夏侯淵さんにも同じことが申せますが、何となぁく……考えていることが分かりますもの」
「……まあ、そーだけど」
夏侯淵さんと、彼の仰る『兄者』――――夏侯惇さん、もとい旦那様は、私とは幼少の砌(みぎり)から親しくして下さっておりました。
いつもいつも、外に連れ出しては色んなことから守っていただきました。
と、言いますのも、
「――――きゃう!」
「あっ」
ばしゃ、と。
後ろから背中にかけられたのは熱湯でした。火傷する程のものではありませんでしたけれど、唐突なことで思わず悲鳴を上げてしまった私に、給仕さんが慌てた様子で謝罪をなさいました。
「も、申し訳ございませんお客様!! い、今すぐお召し物を……」
「ああ、いえいえ〜。お気になさらず。慣れております故。むしろ熱湯でなかったのが不思議なくらい」
「え……?」
夏侯淵さんが、嘆息されました。彼が慌てていないのは慣れているからなのです。
私の身分を推測して青ざめる給仕さんを宥め、私は彼女が落としてしまった器を拾って、彼女の手に持たせました。
「良かったぁ。器が割れていなくって。あなたにお怪我はございませんか?」
「あ、はい……私は、何とも」
「ならば、問題はありませんね。さあ、お仕事にお戻り下さいな。とっても繁盛しておりますし」
私の対応が不思議でならないと言った様子の給仕さんの背中を押し、私は夏侯淵さんに渡された手拭いを背中に当てました。
「良かったな。出来立てじゃなくて、食べた後の煮汁で。色も薄かったし、帰ってすぐに洗えば大丈夫だろ」
「はい。あの方にお怪我が無くてようございました〜」
私が頷きますと、夏侯淵さんは呆れた風情で肩をすくめます。
「本当……お前の体質も大変だな。オレ達は慣れたけど」
「そうなのです。十日前なんて、私の部屋に大木が飛び込んできて滅茶苦茶になってしまいまして……、お陰で今も旦那様のお部屋にお世話になっているんです」
「……そういや、いつだったか一週間雨も降っていない山で、お前が通過した直後に大規模な崖崩れがあったよな」
「それは確か、二年前でしょうか。旦那様には一人で行くなと物凄ぉーく怒られてしまいました」
私は頬に手を添え、溜息をつきました。
そう、私は小さな頃からずっと、不幸体質なのです。
私の父や父の部下の方だけではなく、旦那様や夏侯淵さんに、毎日守っていただいておりました。
色んな方々に相談しては何か解決策は無いかと模索したのも、もう遠い過去のこと。私が成人する頃には、皆さんが諦めてしまいました。
それからも、旦那様が私を実家から旦那様のもとに呼び寄せて下さり、妻となった今に至るまで降りかかる不幸から守って下さるのです。
最近では、曹操様や猫族の方々も私のことを気にして下さいまして……私の不幸に曹操様も劉備さんも巻き込んでしまったのに、本当に優しい方々で○○は幸せ者ですね。
ほくほくとした思い出に浸っておりますと、夏侯淵さんが打って変わって顔を陰らせてしまいました。
「兄者……もしかしてまだ○○の右腕のこと、気にしてるのか?」
「ええ、そのようですね」
右腕には、大きな傷痕が残っています。
小さき頃に山中で太い枝が数本突き刺さってしまったのです。たまたま旦那様と距離が開いていた時に降りかかった不幸でありましたのに、どうやら、ご自身の所為だと思っておられるようなのです。でもあの時、更に足を滑らせて転がり落ちてきた熊から私を守って下さいました。それだけで十分嬉しいことでしたのに……。
「この傷は、私にとっては幸せの傷なのですが……どうにも伝わっていないようで。言葉とは、まこと、難しいですねぇ」
「……幸せの傷?」
「はい」私は大きく頷きました。
「だって旦那様がいなかったら、この傷だけで済まずに私は熊にぶつかって死んでいました。ですからこれは私にとっては九死に一生を得た私の、幸せの傷なのです。あの時は、ここまで前向きではありませんでしたから」
これを支えに、今まで生きてこれたというのもあります。
あの時守って下さった旦那様の、返しきれないご恩の象徴でもありますから、旦那様に負い目とは感じて欲しくないのですが……言葉だけでは上手く伝わらないものです。
「やっぱ、強いよな、○○」
「不幸で鍛えられましたから」
精神的な面で言われているのだと分かりましたから、私は笑ってそう返しました。
‡‡‡
「帰れ」
「ちょ、ちょっと夏侯惇……奥さんにそんな言い方しなくたって……!」
城の敷地内にある鍛錬場にて、旦那様は鋭い声で仰いました。
それを、慌てた様子の関羽さんが窘めますが、旦那様は一貫して私に帰るように仰います。
私はその言葉に従って、旦那様達にとお作りした差し入れを手渡し、関羽さんにも頭を下げました。
「関羽さん達の分もございますから、どうか召し上がって下さいな」
「あ、ありがとう……でも、良いの? 見て行かなくて――――」
瞬間、関羽と旦那様が同時に身体を反転させ、それぞれの得物を大きく薙ぎました。
それらが弾き返した物が天へと上がり、私の方へと落下してきます。
見上げた顔に突き刺さるその前に、旦那様が素手で柄を掴んで止めて下さいました。
「まあ、立派な短剣」
「○○ーっ!」
旦那様が短剣を背後へと放り投げますと、それを受け取りながらこちらへ駆け寄ってくる猫族の方が。
「悪ぃ! ○○! 怪我とかしてねーか!?」
「張飛さん。はい。旦那様と関羽さんが守って下さいましたから」
頷きますと張飛さんはほ、と息を吐いて安堵したように笑います。
「ねえ、張飛。この短剣は?」
「それが、分かんねえんだよ。関定と鍛錬してたらいきなり空から降ってきて、驚いた関定が弾いたらこっちに飛んじまってさー。ほんと、○○に怪我が無くて良かったーっ」
「……」
そこで、旦那様は私の肩を少し強めに押しました。
「帰れ」
もう一度、短くそう仰って、鍛錬場の奥へと行かれました。
それを見送りながら、関羽さんは悲しそうな、張飛さんを怒ったような顔をなさいました。
「本当……どうして奥さんにあそこまで冷たくするのかしら。夏侯惇ったら」
「○○、本当に後悔してねえの? 夫があんなんで」
「はい。私は、ちゃぁんと、分かっております故」
旦那様が私をどう思っているのか、ちゃぁんと。
だから、素直になれない旦那様の態度も、許せるのです。いえ、可愛らしくて愛おしく思えるのです。
私は小さく笑って、お二人に頭を下げて鍛錬場を後にしました。
‡‡‡
旦那様が私にだけ冷たくて素っ気無いのは、私ここへを呼び寄せてからでした。一時出会わなかったからだろうと思って、こちらも距離を置いていたのですが、すぐに違うと分かりました。
旦那様が、私のことを愛して下さっているからこその、あの態度だったのです。
愛情表現が苦手なのと、私が幼馴染みであること。それが重なって、どんな風に接したら良いのか分からなくて、素直になれなくなってしまったのがどうやっても直せなくて、意図せずすっかり定着してしまったようです。
でなければ、私みたいな厄介者を娶(めと)ってまで守ろうとはなさらなかったでしょう。
それに、何となぁく、分かるのです。
冷たい言葉をかけた後、目を見るとちょっとだけ後悔しておられますし、不安がってもおられます。
私が張飛さんや関定さんみたいに、親しい殿方と話した後ですと、声は低く言葉もちょっとだけ刺々しくなって、妬心(としん)が見え隠れします。
私が閨(ねや)に入ってくると、ちょっとだけ機嫌が良くなります。
私を抱く時、手付きは優しく私をいたわってくれますし、眼差しも、いつもとは打って変わって穏やかで優しいものです。
ああ、私は愛されているのだなと、何度も実感出来るのです。
周りからすれば、そこまでキツく当たらなくても良かろうに――――そう思われるのでしょうが、私はちゃんと分かっていますから、無理をして変わろうとしなくて良いのです。
旦那様が後悔して不安に思うのなら、その分、私が愛情を沢山露わにすれば良いのですし。
私にとっての問題は、この腕の傷の誤解だけです。
それもいつか、必ず解いて見せます、愛の力は何でも出来るんです。
「○○」
「お帰りなさいませ、旦那様」
私がお迎えに出ますと、旦那様は真っ先に私の顎を掴んで顔をじっと見下ろしてきました。指で肌に触れて、何かを確かめておられるようです。
ややあって、吐息を漏らして離れました。
「……傷は無いな」
「はい。旦那様に守って下さいましたから」
腕に手を絡めて密着しますと、いつもなら振り払う筈の旦那様が、今日に限ってはそのまま歩き出してしまわれるのです。
私はさすがに驚いて離れようとしましたが、旦那様に腰を抱かれて引き寄せられてしまいました。
やや急ぎ足に向かうのは旦那様のお部屋。
部屋に入るなり扉を乱暴に閉めて、寝台へ。
押し倒された私が何かを言う前に、顔を寄せて口を塞ぎ、腰を撫でられました。合わさった口から舌が入ってきます。
いつもならこんなことはなさらない筈なのに……これは一体どうしたことでしょう。
「ん……ぁ、旦那様……?」
「……今朝、背中を濡らしたらしいな」
「え? ええ……でも火傷には至らなくて、」
「濡れた背中を隠さずに町に出たと?」
「それは大丈夫です。夏侯淵さんが手拭いを貸して下さいました。それである程度は隠せておりましたよ」
とは言え、半分だけだったと思いますが。
それは言わずに置いて旦那様に大丈夫でしたと笑いかけますが、……ああ、機嫌が悪くなってしまわれました。
襟に手をかけられ、首筋に噛みつかれました。
それに身体を震わせつつ、胸がほんわりと温かくなる感覚に笑みが隠せませんでした。
――――背中が透けたくらいでこんな風になるのですから。
やはり、旦那様は私をちゃんと愛して下さっています。
旦那様の背に両手を回しました。すると、幸せの傷が袖から露わになります。
旦那様。幸せ者ですね、私。
不幸体質で色んな迷惑をかけているけれど、今、とても幸せです。
この暫く後、体質が災いして邪魔が入るとは、思いもしておりませんでした。
それに関してはさすがに……すっかりその気だった旦那様に、申し訳なく思いました。
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