時計屋様





 ○○が私室の外へ出たのは、十八歳の時だった。

 それまで、目に入れても痛くない程に過保護に育てられた彼女は、物知らずで身内以外と離したことが一度も無かった。

 その所為で彼女は異様な程の人見知りに育ち、特に面識の無い異性の前では双子の兄が傍にいなければまともに返事すら出来なかった。それすら愛おしいと思う両親は、親馬鹿以上で救いようが無いと、双子の兄は呆れ果てていた。……その両親と自分も同じ穴の狢であることを自覚せずに。

 ○○が生まれてから後生大事に可愛がられるのには理由がある。

 男女の双子である為だ。
 男女の双子――――龍鳳胎は縁起が良いと大層喜ばれる。
 龍は皇帝、すなわち男。
 鳳は皇后、すなわち女。
 ○○も兄も、両親は惜しみ無く可愛がりそれは大事に大事に育てた。

 兄は今、武将として、公孫賛の信頼篤く己の責務に励んでいる。
 元々でろでろに甘やかす両親を反面教師に育った彼は、家の誰よりもしっかりとした生真面目な青年に成長しており、○○も両親よりは比較的ましな方の兄に育てられたと言って良かった。
 だが、そんな彼も、そろそろ急ぐべき縁談を○○になかなか持ってこない。自分は妻を娶(めと)って子も出来ているというのに。

 自分が縁談を持ってくると両親――――そうでもしなければ、兄が妻を迎えることにも良い顔をしなかった二人は、娘を手放そうとしないのである――――にはっきりと言っているのだから、現在も最愛の妹に相応しい相手を捜しているのだろう、とは思われる。
 彼も彼で○○に対して過保護だから、きっと厳しい目で男を値踏みしているに違い無い。その目に適う男が、果たして幽州にいるのだろうか。

 まさか○○はこのまま一生嫁げぬのでは――――とは、使用人全員の懸念であった。

 が、その懸念は突如として裏切られることとなる。



‡‡‡




『○○殿。お初にお目にかかる。趙雲と申す者だ。彼と同じく公孫賛様に仕える武将だ。以後よろしく頼む』


 一目惚れと言うのは、こんな感覚なのだろうか。
 一瞬にして全身が発火した。思わず自分の身体を見下ろして確認してしまった。

 いつも色んなことを教えてくれた敬愛する兄が見合い相手として紹介したのは、兄の同僚の青年だった。
 年上だが、兄と気安く会話し、○○にも優しく微笑みかけてくれた。

 けども、他人と、特に異性とどう離したら良いのか分からない○○は、恥ずかしさと緊張から真っ赤な顔を俯かせ、口を真一文字に引く結んで言葉を封じてしまった。何か言うと、変な声になってしまいそうで怖かった。この人に、些末なことさえ変だと思われたくはなかった。
 それではいけない。好かれる為にはちゃんと会話をしなければならないと分かっているけれど、やっぱり顔を――――いや、身体の一部すら視界に納めるのが恥ずかしくて、たまらず兄の後ろに隠れてしまうという無礼を働いてしまった。

 しかし、兄から予め聞いていたのか、趙雲は気分を害した様子も無く、それ以降も屋敷を訪れては○○と会ってくれた。その度に、ちゃんと兄も呼んでくれた。その気遣いが恥ずかしくて申し訳なかったけれど、嫌われていないのだと安心出来た。嬉しかった。

 趙雲は、少しずつ自分に慣れてくれれば良いと、優しい言葉をかけてくれた。
 まずは趙雲の姿を視界に納めても平気になるように、次にそれが大丈夫になると、目を合わせて――――は、どう足掻いても駄目だったからと後回しに、計画を変えて手を握る練習に移った。
 これが、なかなか難しい。
 触れてきた異性なんて、兄と父くらいだ。でもそれは身内だからであって、まだ親しくもない、まして見合いの相手に触れて、彼女が平気な筈がなかった。指先一本を掠めただけでも大きく距離を取って逃げた。

 それに、趙雲も苦笑を禁じ得なかった。兄だけは、予想以上だと呆れていたが。

 とんと駄目な○○に、しかし趙雲は根気強く付き合ってくれた。時間をかけて、最終的には兄がいなくてもちゃんと話せるようになろうと、そう言ってくれた。自己嫌悪に落ち込んでいたその時は、涙が出そうだった。

 さすがに毎日とまではいかなかったけれど、趙雲は何度も○○と会って、その度に練習をしてくれた。

 その甲斐あって――――約二年をかけて、ようやっと趙雲と二人でも話せるようになった。……顔を見なければ。
 やはり、顔を見るのだけは、どうしても駄目だった。
 恥ずかしい。口元を見るだけでも身体が燃えて灰になってしまうのではないだろうかと思うくらい。
 それは多分趙雲だからだ。好きな人の顔だから、見れないのだと思う。

 趙雲は、次の段階に行こうと、○○を城下に連れ出してくれた。
 運動をしたことも無い、動きも反射神経も鈍い○○を、彼は目を離さずにしっかりと手を引いて、はぐれないように導いてくれた。
 生まれて初めて出る外の殷賑(いんしん)な光景に混じり、○○の心は浮き足だった。うきうきとせり上がる歓喜に、足が落ち着いてくれない。右へ左へ、興味の向くままに趙雲を連れ回した。

 趙雲はやっぱり優しい人だった。何に興味を持ったのか分かるとそれが何なのか横で教えてくれた。
 あちこち連れ回して迷惑ではないかと思ったのだけれど、趙雲は武将だ。おっとりとしたのろい○○に付き合うのは、体力的にも楽らしい。


「趙雲様、私、あちらに行きたいです」

「ああ。まだ夕暮れまでは時間があるから、そんなに慌てなくても良い」


 慌てなくても良い――――初めて言われたかもしれない。
 普段からおっとりしている所為で、どんなに慌てていても兄も両親も○○がそうとは分からなかった。初めて、慌てていてそれと分かってくれた人がいたことに、ささやかな感動を覚えた。


「○○? どうかしたか」

「……いいえ、何でもございません。早く参りましょう。時間が勿体ないです」

「ああ。そうだな。だが、行けない場所があってもまた後日行けば良い」

「ありがとうございます」


 この優しい人が、旦那様になってくれたら、どんなにか幸せだろう。 
 私はこの人と夫婦になりたい。この人に尽くしたい。けれど趙雲様はどうなのだろう。もしも彼も同じ気持ちでいてくれているのなら、これ以上の幸運は無い。もう、死んでも良いくらいだ。

 人を避けるフリをして、そっと身を寄せてみる。触れ合う直前で恥ずかしくなって止めた。


「○○?」

「あ、いいえ。す、少し足がもつれてしまってっ……こんなに長く歩けたのは初めてなので」

「少し休むか?」

「いいえ。このまま楽しみたいです。初めての城下なので、休む時間も惜しいです」


 趙雲は一瞬だけ承伏しかねるような反応をしたものの、早くと腕を引っ張ると、何も言わずにいてくれた。

 けれど――――。


「ごめんよ、退いておくれ!!」

「え? ……きゃぁっ!」

「! っと……」


 先を急ぐ壮年の男にぶつかり、勢いに負けて後ろに倒れたのを、趙雲に支えられた。
 その時に足を挫(くじ)いてしまった。幸いにして趙雲には伝わっていないようだ。
 ○○は痛む足に努めて平静を装い、趙雲に礼を言う。


「大丈夫か」

「はい。趙雲様のお陰で」


 身を離して歩き出そうとすると、踏み出した瞬間に足首に鋭い痛みが走った。思った以上の激痛に声が出てしまった。

 ああ、知られてしまった。


「足を痛めたのか」

「あ、いえ……大丈夫です。大したものではありませんし……」


 痛みは大きいが、それよりも城下を趙雲と見て回りたい。
 ○○が大丈夫だと繰り返すが。趙雲は何も言わない。

 かと思えば小さく謝罪して、身を屈め――――。


「ひゃ……っ!?」


 背中と膝裏に当たった物を感じた瞬間に膝裏を強く押されて体勢を崩す。同時に、浮遊感。胃の腑が下に置いていかれるような感覚に息が詰まった。
 不安定な感覚に趙雲の衣服を掴むと、間近に彼の顔があって抱き上げられた事実を思い知らされた。
 羞恥に身体を強ばらせた。真っ赤な顔を俯かせる。


「あ、あの……趙雲様……っ! この体勢はっ、その、」

「足首が赤く腫れている。このまま屋敷へ帰ろう」


 趙雲は○○の答えも待たずにきびすを返した。人波を縫うように大股に歩き、○○の屋敷へと至る。
 迎え出た使用人に○○の足のことを伝え、手当ての為に必要な消耗品を頼んだ彼は、また足早に○○の私室へと。
 寝台に座らせ、また断りを入れて○○の挫いた足を手に取った。
 赤く晴れ上がった足首を見下ろし、嘆息した。


「……悪化しているな」

「あの……」

「暫くは安静にした方が良さそうだ」


 暫くは安静……。
 それでは、次に出かけられるのはいつになるか分からないのですね。
 ○○はほうと吐息を漏らした。まだ、城下を回っていたかったのに。

 趙雲は○○の様子に気付いたのか、苦笑混じりに顔を上げた。瞬間目が合って反射的に顔を逸らしてしまう。


「足が完治したら、また城下に出よう。今度は、こんなことが起きぬよう、俺も気を付けるよ」

「……はい」

「そんな顔をしないでくれ。俺は、○○の柔らかく笑っている顔が好きなんだ」


 ○○はえっとなって趙雲を見下ろし、また顔を逸らした。
 すると趙雲は手を取って甲に口を付けた。


「約束する。だから、もう悲しい顔はしないでくれ」

「……」


 ○○は一瞬だけ趙雲を見――――背を向けた。


「○○」

「……」


 両手で顔を覆い、俯く。

 それに、やや焦ったように趙雲が案じてくるのに、か細い声を絞り出した。


「……見ないで下さいまし」


 全身が熱い。
 恥ずかしい。
 けれど同時に、趙雲の言葉が嬉しくもあって。○○を慰める為のものであると分かっていても、嬉しくてたまらなくて。
 暫くそのままでいると、後ろから頭を撫でられた。

 それは、言うまでもなく趙雲の手だ。

 手を軽く離し、横目でちらりと趙雲を見やる。
 また恥ずかしくなって俯き手の下でぎゅっと目を瞑った。

 一瞬見えた彼は、とても幸せそうな顔をしていた。

 その理由を、○○はまだ、知る由も無い。



 使用人や怪我を聞きつけた両親が部屋に飛び込んでくるまで、○○はそのまま恥じらい、趙雲はそんな○○の頭を撫でながら眺めていた。



⇒後書き+レス

3/18

[] []