美月様





 先の戦で負った傷が疼く。

 まるで、夏侯惇に何かを訴えかけるかのように、何かを責め立てるように、疼いては記憶を呼び起こす。

 その疼きは何なのか、夏侯惇には分からない。
 ただ、疼きは必ず忘れ得ぬ甘い熱を伴った。

 疼きに誘発されて思い出されるのはたった一人の、美しい女性。彼の胸に住まう、愛おしい命の恩人。

 先の戦での失態で敗走した夏侯惇は、酷い損傷の為に意識が朦朧とし、曹操との合流だけを願って這々の体で戦場を離れた。
 方角も何も考えられなかった状態で行き着いた山にて、彼はとうとう絶入した。

 危険な状態だったところを、あの美妙(びみょう)なる女性に助けられたのだった。

 意識が回復して押し上げた瞼。
 朧な視界に捉えた彼女が鮮明になると、まだ夢を見ているのかと思ってしまった。それ程の美貌だったのだ。
 この女性の美しさはすでに人間の領域に無い。邪か聖の領域のそれだ。
 それだけの美貌を起き抜けに目にし、現実と夢を勘違いして再び眠り込んだのも、仕方のないことだと自分でも思う。
 あんなにも美しい――――禁忌的な美貌を備えた女性がいるものか。
 傾国? 絶世?
 いいや、そんな言葉では不足だ。
 だが、夏侯惇には彼女に相応しい形容詞は思いつかなかった。人外の美しさ――――それ以外には。

 もう一度目覚めた夏侯惇を、女性は心配そうに覗き込んでいた。寝返りを打ったのだろうか、顔にかかった髪を掻き分けてくれた指は冷たい。だが、確かな感触だった。
 そこでようやく、現実と知る。有り得ない美しさは、現実に在るものだと。

 女性は、○○と名乗った。
 もうずっと一人でこの山に住んでいるらしい。夏侯惇以外の人間に出会ったことが無いようで、最初は夏侯惇に対してどう接して良いか分からず少しだけ挙動不審だったり、辿々しい言葉遣いだった。
 必死に夏侯惇と話そうとする彼女が、段々と可愛らしく思えたのは、その美貌との差が大きい意外な一面だったからか。

 一目惚れだったのか、そんなやり取りのうちに好意を持ったのか、分からない。
 けれど目が覚めて三日程――――彼女が夏侯惇との距離感や接し方を把握した時には、彼女に相当惚れ込んでいた。

 その肢体は細く、夏侯惇の武骨な腕では簡単に折れてしまいそうだった。
 その髪は柔らかく、日に翳(かざ)せば不可思議な色合いに反射し目を惹き付けて、なかなか逃れられなかった。
 その瞳は優しく、全てを許容し包み込み、邪を知らぬ純粋で穏やかな光を湛えていた。
 彼女の全てが愛おしく、彼女の全てが欲しくて。
 傍にいるだけでもとても激しい恋慕に気が狂いそうになった。

 激情とも呼べるこんなにも熱い感情、生まれて初めてだった。
 どうすれば良いのか分からなかった。
 分からなかったが、どうすればこの想いを止められるのかも分からなかった。

 夏侯惇は感情を止められずに○○を求めた。

――――が、しかし。

 ○○はそれをやんわりと拒んだ。


『わたくしとあなたでは、住む世界が違います故。わたくしの為に、夏侯惇様の為に、わたくし達は道を重ねてはなりませぬ』


 ○○は、ややこを宥めるように、優しく穏やかに言った。

 それに夏侯惇は、心の中、何処か深いところで納得していた。
 彼女の美貌は人間の領域に無い。だとすれば、多数の人間のいる場では異質に見られてしまうだろう。異端と排他されてしまうかも知れない。
 自分と結ばれることで、他人の醜い感情の的になるかも知れない。

 元々、それが原因でこんな山で隠遁(いんとん)しているのだろうと、夏侯惇は推測する。

 愛おしくも、お互いの為――――否、○○の為に結ばれてはならないのだと、○○の言葉に頷く他無かった。よしや、嫌だと子供のように駄々をこねる自分に、理性も同意していても。○○の美貌が悲しみにくすむ方が、俺には辛い。

 だが、なかなか好意を隠せない夏侯惇に、○○は肉体的ではなく、精神的に愛し合うことだけを許してくれた。
 それが、たまらなく嬉しかった。
 不十分だと抗議するもう一人の自分を押し殺し、彼は甘美な時間に酔いしれた。

 愛していると、何度も伝えた。
 けれども彼女は、夏侯惇の言い慣れない愛の言葉を、嬉しそうに、悲しそうに、寂しそうに――――ただ受け入れるだけ。彼女の口から愛していると、確かな言葉を聞いたことが無かった。それに近い言葉を聞いたのは、別れの時のみ。
 ○○も好いてくれているのは間違い無いのに、彼女は言葉を返してくれなかった。
 それも、きっとお互いの為なのだろう。
 お互い夢中になりすぎない為に、彼女だけは一線を引いて、それを夏侯惇にも分かりやすく示してみせる。

 それ以上を求めてはならなかった。○○からもたらされる一線を引いた愛情に満足しなければならないのだと、何度も言い聞かせた。

 愛おしい。
 彼女への愛に狂わされても、良いと思った。
 狂わされなくとも、このまま戦えなくなれば一生ここで暮らせるのではないか――――そんな、曹操に忠誠を誓った過去の自分を裏切る考えまで浮かんだ。
 それ程に夏侯惇は美しすぎる○○に入れ込んでいた。

 自分の責務すらも放棄しかけた夏侯惇を、現実に繋ぎ止める為だろう。○○はたまに夏侯惇の暮らし振りを訊ねたりした。

 夏侯惇が曹操への忠義を捨てなかったのは、それ故のことだった。

 傷がある程度癒えると、○○は夏侯惇に在るべき場所に帰ることを勧めた。
 そして旅立ちの時にたった一匹の、存在するかも分からぬ妖を殺し、その毛皮を持って帰って欲しいと告げた。
 それを名残惜しくも受け入れ――――本当に現れた狼に似た妖を殺めて毛皮を剥ぎ、持ち帰って。

――――今、夏侯惇は以前のように曹操軍に身を置いている。
 放り出そうとした罪を購う為に、曹操に忠誠を新たに誓い、○○との記憶を胸に秘めて日々を過ごす――――……。


「……兄者、その毛皮、一体何の動物なんだ?」


 夏侯惇の私室、寝台に敷かれた毛皮を指差し、夏侯淵は訊ねた。

 疼きに気を取られていた夏侯惇ははっと我に返った。
 ああ……そういえば夏侯淵に兵法を教えようとしていたのだった。
 その為に竹簡を机に並べていたことを思い出した夏侯惇は毛皮を一瞥する。


「ああ……以前話しただろう。俺が世話になった女性の最後の頼みで、谿辺(けいへん)という妖を殺して剥いだ毛皮だ」

「妖? そんなものいるのか?」

「分からない。……が、見たことの無い動物を妖として扱うこともある。これも、そういう動物だったのだろう」


 「ふうん……」夏侯淵は淡泊な返しをする。
 毛皮を取ろうとしたのを夏侯惇は止めた。


「悪いが、夏侯淵。触らないでもらえるか。……大事な物なんだ」


 そう言えば、夏侯淵は沈黙して手を下げる。彼や曹操だけには、○○とのことを掻い摘んで話していた。全てではないが。
 だが、話す夏侯惇の様子から、漠然と事情は察したのだろう。曹操も夏侯淵も、○○のことを疑おうともしなかった。ただただ、無事に戻った夏侯惇を労い、彼を助けた○○にも感謝の意を示した。その時、○○のお陰で忠誠心を捨てずにいられたことに、心から安堵した。

 ここが、夏侯惇の在るべき場所なのだと、改めて実感する。


「兄者……まだその女のことを?」

「忘れる筈もないだろう」

「……そうだけどさ。会えるか分からないんだろう?」


 それは……分からない。
 だが、いつかは会いたいと思う。
 会って、改めて感謝と愛を告げて――――。

 それで、終わりたくは、ない。

 夏侯惇は寝台に近付き、毛皮を取り上げた。
 強く握り締め、目を伏せる。

 いつかまた、あの山に行こうと思う。
 きっと、彼女はいる筈。
 あの山と一生を共にすると言っていたのだから。
 山を出られないのなら、何度も何度も会いに行こう。こちらから、色んな土産を持って、孤独を癒そう。恩返しと、愛を向けよう。

 せめて、それくらいなら許してくれる筈。
 よしや、完全には愛し合えなくても。共にはいられずとも。
 精神的な繋がりはある。

 その証が、この毛皮なのだ。
 この毛皮があれば自分はいつの日にか○○と会える。

 夏侯惇は、毛皮を胸に当て、愛おしい名を、求めるように呼んだ。














 一途に想う男は知らない。

 愛した女の命が散っているなど。
 その命の残滓がそこ在るなど。

 その残滓に、守られていることなど気付かずに、彼は女に懸想する。



 知らぬまま、恋い焦がれて、求め、彼は一生を生きて行く。



 男を愛する女が、そう願ったから。



⇒後書き+レス

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