夜叉様





「よお、幽谷」

「諸葛亮殿。長兄より、これを渡すようにと」

「助かる」

「無視かよ」


 柴桑城の広間に、諸葛亮はいた。周瑜の姿もあるが、これは無視して良かろう。彼には特に用も無い。
 幽谷は蒋欽に渡すようにと頼まれた、狐狸一族(フーリ)軍の編成と、一族の者それぞれの戦闘力を詳しく著(あらわ)した竹簡の束を諸葛亮に手渡した。

 さほど時間もかからずに役目を終え、これから劉備と茶会をしている筈の尚香の様子でも見に行こうかと思案していると、不意に腰に腕が回り、腹を撫でながら背後に引き寄せられた。
 言わずもがな、周瑜である。
 密着させられこめかみを痙攣させた。

 諸葛亮が呆れた様子で溜息をついた。


「放していただけませんか、周瑜殿」

「オレを無視するのが悪い。傷つくんだぜ? アンタに無視されるの」

「いつものことのように思えるが」


 すかさず諸葛亮が言うのに、幽谷は大きく頷いた。
 手の甲の皮膚を抓(つね)って強引に腕を離す。
 いてて、と周瑜は抗議の声を上げて幽谷を解放した。

 触られた部分を、埃を払うようにはたくと、諸葛亮が幽谷を呼んだ。
 近寄ると腕を掴まれ、近くの席(むしろ)の後ろに、斜めに座らされた。すると、密着するように諸葛亮が座る。自然と背中を諸葛亮の右半身に寄りかからせる形となった。

 これに、周瑜が面白くなさそうな顔をする。
 諸葛亮の目の前に座り、憮然と睨む。

 それに、諸葛亮は涼しい顔だ。


「幽谷、周瑜。今から読み上げる狐狸一族の男達について、お前達の印象を聞きたい。嫌なら周瑜、お前は帰れ」

「良いのか? 幽谷じゃまともなこと聞けないぜ?」

「……」


 幽谷を振り返り、諸葛亮はまた溜息を漏らす。
 幽谷はこてんと首を傾けた。



‡‡‡




 周瑜の言葉は、的を射ていた。
 幽谷は戦場に出た場合の狐狸一族を知らないのだ。
 おまけに周瑜曰く、狐狸一族は鍛錬でも本気を出さない――――否、出せないそうだ。本気の戦闘になると、必ず村が壊される。その為こちらでも鍛錬は加減をするのが当たり前。戦でも本気を出すことが無いのだそうだ。その必要が無い程、呉軍の能力が高いとも言えるが。

 幽谷は勿論、周瑜の話でも、狐狸一族の実力は推し量れないと、そういうことだった。
 だが、参考にはなった。知らないよりは、少しでも知っていて損は無かろう。


「……助かった。周瑜。幽谷も」

「いえ、私は一族について軍略の為になることは、周瑜殿よりも存じません故。お力になれず、申し訳ございません」


 諸葛亮は首を横に振り、立ち上がった。

 話が終わったと判断した周瑜は、幽谷を呼んだ。


「じゃあ、幽谷。飯でも食いに行こうぜ」

「いえ、尚香様の様子を見に行かなければなりませぬ故」


 劉備との茶会は、もう終わっているかもしれない。
 封統が姿を消し側で監視していたから、大丈夫だとは思うけれど、念の為。

 周瑜と諸葛亮に拱手してその場を辞した幽谷は、しかし広間を出てすぐに諸葛亮に呼び止められた。


「何でしょう?」

「私も行こう。劉備様に話がある」

「分かりました」


 茶会が終わっていれば、劉備を探す手伝いをした方が良いか。尚香の様子も一時確認して、劉備を見つけた後に戻れば良い。
 諸葛亮が隣に並んだのを確認して歩き出す。

 身長が近い為か、歩幅はほぼ同じだ。お互い速度に気を遣わずに済む。
 女性にしては高く、孫権と同じ程の身長をしている幽谷は、女官からもよく身体のことで羨ましく思われることが多い。何を食べたらそんな身体のなれるのか問われることも屡々(しばしば)だ。……特に、変わった物は食べていないと思うのだが。
 いや、色々と無頓着な幽谷にはむしろ、この体格が何故良いのか、羨ましがられる理由が皆目分からなかった。先輩として――――というだけではないのだが――――あれこれと幽谷の世話を焼いてくれる侍女達は、どれも自分らしさを持っていて、それぞれの個を持っていて、何処にいてもそれぞれが浮き上がっている。幽谷にしてみれば、彼女らの持っている群衆の中でも埋もれない個性こそが羨ましいのに。

 噂をすれば影と言うものか、諸葛亮の横で考え事をしていた中、側を通りかかった侍女に呼び止められて、幽谷は再び足を止めることになった。


「幽谷。今から姫様のもとへ行くの?」

「はい。尚香様のもとに、猫族の長殿はいらっしゃいますか。諸葛亮殿がお捜しなのですが」

「ついさっきお茶会が終わったところよ。甘寧様にお会いになりたいと仰っていたけれど、まだそう遠くへは行かれていないと思うわ。急げばすぐにでも会えるのではないかしら」

「そうか。……感謝する」


 諸葛亮の言葉に侍女は頭を下げ、幽谷に含みのある笑みを向けた。
 ……ああ、彼女達にもあの話が行っているらしい。
 面倒臭いと、思ってしまうのは仕方がない。
 諸葛亮も侍女の表情から読み取ったらしい。少々辟易した風情で吐息を漏らし、幽谷の腕を引いて歩き出した。


「じゃあ、幽谷。頑張ってね」

「……いえ、あの……」

「……幽谷。構うな。面倒だ」

「はい」


 離れていく侍女を見送るのもつかの間、幽谷は諸葛亮の手に引かれるまま廊下を進んだ。

――――と、通りかかった部屋がいやに騒々しい。
 何度立ち止まらされるのか。
 諸葛亮は「ここは騒がしい」と低く呟いてその部屋を通過しようとした。

 が、


『こ、恒浪牙殿どうか落ち着いて……!!』

『これが落ち着いていられるか!? バラす! このクソガキぜってーバラす!!』


 劉備と、恒浪牙の声である。


「……あの、見つかりましたが」

「……」


 物凄く、面倒臭そうな顔で睨まれたが、幽谷にはどうしようもない。
 幽谷は思わず苦笑して、扉に手をかけた。



‡‡‡




 中は酷い有様だった。
 激しい乱闘振りを臭わせる惨状を見渡し、寝台に足を組んで座る姉に目をしばたたかせた。
 何故かびしょ濡れの恒浪牙は劉備に後ろから羽交い締めにされて、肩で息をしている。普段は温厚な喋り方をする彼も、最近こうして本来の口調戻ることが非常に増えた。

 封統がからかい、恒浪牙と乱闘になり、劉備がその仲裁に入っている、といったところか。


「……大丈夫ですか」


 取り敢えず、恒浪牙にそう声をかけてみた。
 ぎろり。睨まれた。


「劉備様。封統。この騒ぎは?」

「ええ、と……」

「別に。ただこいつ殺そうとしたらそこのクソ天仙が邪魔して勝手に水被ってキレただけ」

「止めに入ったのに二度も冷水かけられてキレねえ馬鹿が何処にいる!? 放せ劉備!! 今日という今日はバラす!!」

「だから、落ち着いて下さい……!!」


 劉備は必死に恒浪牙を封統から離そうとする。
 諸葛亮が、何度目かの溜息を漏らした。額を押さえてやおら首を左右に振った。


「封統……劉備様を殺すのは止めろ。劉備様も、封統に構うのはお止め下さいと申した筈です」

「うん。……ごめん」


 封統は舌打ちし、立ち上がる。指を鳴らすと同時に、幽谷の視界が一瞬歪む。身体がひやりとして――――濡れた。
 幽谷は一瞬何が起こったか分からなかった。
 ややあって、水を被ったのだと分かった。

 ……。

 ……。

 ……何故私が?


「あの……」

「……封統」

「きゃあ大変。幽谷服脱いで着替えなきゃー」


 白々しく言って、彼女は大股に部屋を出ていく。
 そうして何の悪意かびしょ濡れの幽谷を諸葛亮に押しつけた。


「わあ諸葛亮まで濡れちゃった!」

「……」


 諸葛亮のこめかみが、ぴくりと震えたのは気の所為ではあるまい。
 封統は廊下を飛び出し屋根の上へと行ってしまう。暫くは、姿を現しはしないだろう。

 すぐに離れると、劉備にようやっと開放された恒浪牙が舌打ちしてびしょ濡れの髪を掻き分けた。


「……完全に八つ当たりされたな幽谷」

「ああ、はい。そのようです」

「諸葛亮と一緒に、この部屋にいろ。俺と劉備で周泰呼んでやるから」


 幽谷と諸葛亮を部屋に押しやり、恒浪牙は劉備に目配せした。
 劉備は苦笑混じりに頷き、二人に「すぐに呼んでくるから待ってて」と足早に部屋を出ていった。諸葛亮は、劉備に話があったのに。

 残された二人の間に生じるのは、暗鬱とした諸葛亮の嘆息だった。


「何故私まで……」

「ですが、私よりもましかと。姉上も、敢えて私に水に落としたのでしょうし……」


 幽谷は水と相性が良い。水に浸かることで傷も癒すことも出来るし、水を用いた術の方が得意だ。それに、かけられたからと言って恒浪牙のように怒りもしない。
 だからこそ、八つ当たりで幽谷に水をかけたのだ。
 ……まあ、それで諸葛亮も巻き添えを食ったのは、幽谷も困るけれども。


「ずぶ濡れのお前と共にいるのはこれで二度目だな」

「ああ……はい。そう言えば以前にも似たようなことがありましたか」

「あの時はお前が川に落ちたのだがな」


 嘆息混じりに、諸葛亮は言う。彼は、今日は一体何度息を吐くのだろう。

 幽谷は外套を脱いだ。
 すると諸葛亮にそれを取り上げられ、胸を隠すように持たされた。


「あの……窓辺に干しておきたいのですが」

「止めろ、それと私には背を向けておけ」

「……? はあ……」

「理解していなくても背を向けろ。良いな」

「……了解です」


 顔を逸らされながら言う。

 幽谷は小首を傾げながら、彼の言葉に従った。
 近くの椅子に腰掛け足にぴったりと張り付いた服を摘んで剥がす。
 諸葛亮にキツく怒られた。


「何もするな、大人しくしていろ」

「……はい」


 何処か苛立っているようにも思える諸葛亮の様子を窺いながら、幽谷は周泰が来るまで待っていた。


 封統にちょっかいをかけて氷水を大量に浴びせられた蒋欽と、そのとばっちりでまた冷水を浴びた恒浪牙と共に周泰と劉備が訪れるまで、さほど時間はかからなかった。


「何だ諸葛亮殿、幽谷に手を出さんかったのか」

「……」

「し、蒋欽殿。それ以上諸葛亮をからかうのは……」



⇒後書き+レス

17/18

[] []