紅蓮様
※注意
哀れだと思った。
捕らえられ、身に覚えも無く夏侯惇の激情を受け止めることを余儀無くされた、狐狸一族の娘。名を幽谷。
彼女には、自由が許されなかった。地下牢で厳重に拘束され、劇薬で身体を弱らせられ――――悲鳴すら上げられず地獄の毎日を過ごす。
夏侯惇の変貌は、曹操の想像を遙かに裏切った。
己の責務など忘れたかのように幽谷にばかり意識を向け、曹操が咎めても改善の傾向は見られない。
捕らえずに追いかけさせた方が、余程使えた。
「……」
「……親指を噛み切って逃げ出したのか」
部屋に飛び込んできた幽谷を見やり、曹操は目を細める。
両手は血塗れで、ぽたぽたと血が零れ落ちている。噛み千切って拘束を無理矢理に解き逃げ出してきたようだ。
夏侯惇はもう気付いているだろうか。いや、そうでなくとも定期的に交替する兵士によって知らされるのも時間の問題だ。
この血痕で、じきに居所が分かってしまう。
曹操は立ち上がり、肩で息をする色違いの瞳をぎらつかせた幽谷に歩み寄った。
逃げようとしたのを肩を掴んで引き寄せ、強引に座らせる。
抵抗しようとするも身体は思うように動かなかったようだ。悔しげに、苦しげに窶(やつ)れた顔が歪む。
親指の付け根の状態を確認し、ほうと吐息を漏らす。ここにも一応の備えはあるが、血止めと消毒くらいは出来るだろうか。
「少し待っていろ」
「ぇ……」
幽谷が歪んだ顔のまま曹操を見上げてくる。
曹操は立ち上がり、彼女から離れた。
部屋の奥から手当ての道具を持って戻る。そうして、幽谷の言葉も待たずに手当てを始めた。
幽谷は困惑しながらも、曹操を止めようとはしなかった。いや、困惑が大きすぎて、または激痛で、弱った身体が動けなかったのか。
何れにしろ、騒ぎ立てないのは有り難かった。騒ぎを聞きつけて駆けつけた夏侯惇にこの場面を見られれば、曹操が被害を被る可能性だって有り得る。今の彼は、曹操にすら僅かばかりの敵意を抱いている風にすら思えた。まったくの杞憂だと、信じたいが。
だが、廊下に血痕がある以上、悠長にもしていられない。
手当てを済ませてすぐ、曹操は幽谷の奥の方へ隠れさせた。自身は部屋を出て、血痕の走る廊下を見やった。西へと続いている。
そのまま暫く佇んでいると、ふと慌ただしい足音が聞こえてきた。
やはり、早かったな。
曹操は彼に向き直り、腕を組んだ。
「曹操様!」
「夏侯惇。……虜囚が逃げ出したようだな」
夏侯惇は頷き、血痕を見下ろした。
「あれは、曹操様のお部屋に?」
「ああ。私を襲って、外へ逃げた。布を奪って傷口を押さえていたが、まだ間に合うのではないか」
「……そうでしたか」
そこで彼は、主の心配をしない。
忠臣であった彼が、女一人でここまで変貌するとは。
……などとは、自分が言えた義理ではないか。
曹操は拱手もせずに駆け出した夏侯惇を見送り、曹操は片目を眇めた。
これは、逃がしてしまった方が、我が為には良いか。
それも夏侯惇と同じ、一人の女の為なのだけれど。
いや、いや。自分は彼とは違う。
自分はただ彼女が在るべき場所に戻るように、彼女の道を正してやっているのだ。類が違う。こちらには正当な、確固たる理由と自信がある。
曹操は部屋の中へ戻り、寝台を覗き込んだ。
幽谷は、いた。不審そうにこちらを見つめてくる。
「……何を、考えておられるのです」
かそけき声で問いかけてくる。
一応、喋れはするのか。
曹操は寝台を離れ、元々座っていた場所に戻った。
「あの……」
「今逃げたとてすぐに捕まる」
確実に逃す為に暫く時間を回復させた方が良い。
それに、その間に、夏侯惇も逃げ切ったものと思い込むだろう。そうすれば、呉攻めに躍起になる筈。
不審そうな幽谷の視線を無視し、曹操は中断して放置していた竹簡や書簡に目を通した。
‡‡‡
自身に与えられた食事は、全て幽谷に与えた。
女官が運んでくる際、見つかるかとも思ったが、彼女は気配を殺すのが上手い。更には紙と筆を乞うたかと思えば何か文様を描いて懐に入れて、人が来た際にはそれを銜えた。すると曹操にも、彼女の存在が認識出来なくなってしまう。
それが四霊の力なのか、狐狸一族のそれなのか曹操には分からない。
だが、曹操は幽谷について詳しく知ろうとは思わなかった。興味が無いのだ。
それから数日、幽谷は曹操の私室で体力回復に努めた。傷も、人間よりは回復速度は速い。
血色も良くなり、夏侯惇も落ち着いている。そろそろここから逃げても良い頃合いだろう。
「行け」
「え?」
新月の夜中、唐突に言えば、彼女は虚を突かれた顔で目を丸くした。
「逃げるならば、今だろう。あまり長居しても迷惑だ」
「……ならば何故、私をここに?」
「我が目的の為だ。夏侯惇には、将として働いてもらわなければ困る。これ以上役に立たないのならば、軍より外す他無いが……それでは戦力も士気も下がる。呉攻めの前にそれは避けたい」
全ては幽谷の為ではない。
全てはたった一人の同胞――――関羽を手に入れる為。
その為に、幽谷も夏侯惇も、部下すらも利用しているに過ぎないのだ。
曹操の言葉に、幽谷は納得したような、それでも不思議そうな顔をした。彼女には曹操の尊い想いなど分かるまい。いや、分からなくて良い。分かるのは、分かって良いのは同じ血を持った自分と関羽のみなのだから。
「行け。今のお前ならば、誰にも見つからずに逃げるくらいは造作も無かろう」
「……、……お世話に、なりました」
複雑な感情に強ばった声の後扉が静かに開かれる。
閉じられる前に見やるが、そこにはもう誰の姿も無く、濃密な闇が広がっているだけだった。
曹操は吐息を漏らし扉に背を向ける。
それから暫くそのままでいると、
『曹操様』
「李典か。入れ」
扉が開く。
華奢な若武将は、周囲の様子を確認して、部屋に入って扉を閉めた。曹操に拱手し、扉を振り返った。
「座れ」
「いえ、すぐに夏侯惇殿の監視に戻るので。最低でも二日くらいは必要でしょう? 《あれ》が無事に逃げるには」
曹操は寸陰沈黙し、頷く。
李典には、幽谷を匿う間夏侯惇の監視を命じていた。責務を放り出してまで探しに出ぬようにと、念の為だ。
そして――――もう一つ。
李典を見、鼻で笑った。
「それ程に殺したかったか? あれを」
「……、いえ、別に」
ゆらり。ゆらゆら。
李典の双眸が揺れる。
曹操は「残念だったな」と声をかけた。
李典はばつが悪そうに顔を逸らす。ぎこちなく拱手して、
「……監視に戻ります」
「ああ」
部屋を辞した。
曹操は寝台に腰掛ける。窓の外を見やりこれからのことを思案した。
――――李典がすぐそこで独白した言葉にも気付かずに。
「……殺すよりも、ずっと酷いことかもしれません」
‡‡‡
草原を駆け抜ける幽谷は、ふと足を止めた。
遙か後方――――襄陽城を振り返り、目を細める。
「あの姿……本当に、あの人なの?」
奸雄、曹操。
関羽に対し見せたおぞましい執着は、夏侯惇や邪に染まった劉備にも劣らない。
それなのに……幽谷を匿っている時の曹操は、まるで別人だった。普通の、人間であるように見えた。
どれも、曹操だというのだろうか?
「……いえ、そんなことどうでも良いわ」
私は、逃げなくてはならない。
逃げて、家族のもとに、主のもとに戻らなくてはならない。
一刻も早く――――自分の居場所に。
幽谷は、表情を引き締めて、背を向けた。
駆け出す。
南。
家族の待つ、呉へ。
⇒後書き+レス
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