葵様
「ねえ何なの? 何なの君。何でいっっつも君の部屋来る度に肺を冒されなきゃなんないの? 君は肺殺しが特技なの? もう少し他人、特に肺に持病持ってる奴に優しくなれないの? ホント何なの君。あたしの肺の気持ちにもなってみろやボケェ」
「スミマセンデシ」
「どっせぇぇい!!」
「ぎゃあああぁぁぁぁ!!」
土下座する張飛の頭に、○○は容赦なく踵を落とす。
べしゃ、と顔面を床に叩きつけた張飛はそのまま身動きせず、微かな痙攣を繰り返した。
鼻を鳴らし部屋を見渡す。やおら、嘆息。
どうしてこいつの部屋はいつもいつも、散らかってるのよ……定期的に掃除してやってるのに。
この恩知らずめ、と手にした箒を回して柄尻で脳天を強めに突いてやる。
「本当にもう……毎日あたしが確認に来てやらないと駄目なの君は? 関羽と一緒になったら自分でどうにかしないといけないってのにさ」
「わ、悪かったって……」
頭を撫でながら張飛は立ち上がる。
「今度は十日後に来るからね。それで、片付けた状態を維持してなかったら……関羽を娶(めと)れない身体にしてやる」
「お前オレと姉貴がくっついてからやけにオレに厳しくねえ!?」
「そりゃ関羽はあたしの親友だもの。それをいとこに取られるとか、マジ勘弁だわ。この肺殺し」
「あでっ!」
また箒の柄で頭を殴りつけ扉の方へ追いやる。
「ほらほら、掃除するからさっさと出て行って」
「オレも手伝うって!」
「君が手伝うと埃が舞ってあたしの肺がキッツいの! さっさと出ろボケ!」
「いでぇ!?」
尻を思い切り蹴りつけて、追い出す。
扉をばしんと閉めて、部屋の中を改めて見回した。
分厚い布で口と鼻を覆い、気合いを入れ直す。「うし」頬を両手で叩き箒を握り直した。
‡‡‡
○○は生まれつき肺に持病があった。
少しの埃でも肺は過敏に反応、激しく咳き込んだ。
今ではそれも随分とましになってはいるが、酷く埃っぽい場所となると、未だ肺が強く拒絶する。
病弱だった両親の影響だろうとは、大人達の話。
祖父母も両親もすでに病で他界しており、身内と言えばいとこの張飛のみ。
○○を引き取ってくれた今の養父母は、事故で両親を喪(うしな)った張飛も引き取り、我が子のように優しく厳しく育ててくれた。○○の身体も、誰よりも気遣ってくれた。
関羽だってそうだ。
○○の身体を気遣って、○○が一人で何処かに出かけようとすると必ず劉備を連れて偶然を装って遊びに誘ってくれた。祝いの宴や全員での食事の際にも、彼女は片時も○○の側を離れず、少しでも咳き込めば外に連れ出してくれた。
周囲に助けられるだけの自分が、不甲斐なかった。
誰かの役に立ちたいと強く思うようになったのは、そうした後ろめたさから。
肺を患っている為に激しい運動は出来ない。長時間歩き続けるのも体力的に苦しい。
○○は、この動乱の中で誰よりも足手まといであることを自覚し、それを心から悔しがり、嘆いた。
役に立ちたいのに、自分は彼らの助けになることは一つとして無かった。関羽も張飛も、何もしなくて良いからと、○○は自分の身体を一番に考えてなどと言われるのが、空気の澱みに反応して咳き込むよりももっともっと苦しかった。
必死に考えた。
考えて考えて考えて――――無理矢理決めたのが《掃除》である。
場所が徐州の城の中だったということもあるが、とにかく、皆が快適に暮らせるように掃除をしようと考えが至った。
自分なりの、些末な足掻きだった。
養父母も、他の大人達も、○○の心情を察してくれた。あそこの掃除を頼めるか、子供の部屋を片付けたいから手伝ってくれるか――――○○に出来る範囲内で、頼んでくれた。
それもまた、助けられているのだと思うと悔しくは思ったが、それでも、気分はだいぶ違った。
掃除が終わった後、『ありがとう』と言われるのが、たまらなく嬉しかった。中には○○が掃除したことで思った以上に見違えて、心から嬉しそうな顔をしてくれる人もいた。
役に立てている。そう実感出来た。
無論、掃除をしている時咳き込んで苦しくなることもある。
だけど、止められなかった。掃除することで、自分の存在意義を見つけられた。役に立つことで戦えない持病持ちの自分を許せた。
だから、今でも掃除は続けている。
「お邪魔しまーす……」
「……ん?」
誰もいないだろうと思いながら、声をかけて入った書庫。
意外なことに、机に木簡を広げている人物が一人いた。
賈栩だ。
○○は目が合うなり慌てて頭を下げた。すると相手も、頭を下げ返してくれる。
賈栩とは今まで話をしたことが無い。彼の今までの非情さを聞いているから、どうしても距離を置きがちだった。
話してみれば良い人かも? なんて関羽には言われたけれど……本当にそうなんだろうか。
箒の柄を両手で握り締めて、○○は無理矢理に笑顔を浮かべて見せた。
「えと……掃除をしますんで、ちょっと五月蠅くしちゃいますね。……あ、もし静かな方が良いんだったら後で出直します」
「掃除を? ……ああ、そう言えば、掃除を担っている猫族がいるのだったか。こちらが邪魔ならば、退出するよ」
○○は木簡を片付けようとする賈栩に待ったをかけた。
「あ、大丈夫です。あたしは平気です。あなたは?」
「俺も、別に多少騒がしくても気にはならないよ」
「そうですか。じゃあ、ぱぱっとやっちゃいますね」
ここは三日前にも掃除しちゃってるし……それ程長くする必要も無いかな。あまり長居すると賈栩さんの邪魔になっちゃうし。
木簡を納めた棚に歩み寄り、水を溜めた桶を置く。下から順に、木簡を取り出して中を濡らした古布で拭き上げた。女子の中でも背が低い○○では最上段は届かない。故に隅に置かれた小さな台に乗り上げての作業になる。
ただ、この台、非常に古くガタが来ていて、乗るには多少の不安がある。
慎重に、慎重に。
言い聞かせ、台の上で爪先立ちになった。
がぐ、がぐ、と左に右に傾いて、その度にひやりとする。
早く張飛に新しい台を作ってもらわないと、これじゃあ誰かが倒れて怪我をしてしまう。
「よ……っと」
一つ一つ丁寧に内容を確かめながら木簡を収納していく。
それが終われば、次の棚。また同じ手順で拭き上げていった。
掃除に集中してしまえば、賈栩の存在も気にはならない。気まずいかなと思ったけれど、賈栩も静かで存在感があまり感じられない。正直、それが有り難い。
賈栩と面識はほぼ無いに等しい。怖いという印象が先走ってしまって、彼と親しくしようとは思えなかった。
棚を移動するフリをしてちらりと賈栩の様子を窺う。
彼は無表情に木簡を見下ろしている。
こうして見ると、ただの見目の整った男の人なのに……どうして、あんなにも非情になれるんだろう。
気付かれる前にと、そそくさと掃除に戻る。
――――と、それから暫くした頃だ。
一番奥の棚に取りかかったところで、ふと声がかかる。
「失礼。その棚の木簡を取りたいのだが」
「え? あ、ああはい。今退きま――――ずっ!?」
言葉半ば、ばきっと音がしたかと思えば直後に右足が落ちた。そのまま外側に挫き後ろの棚へと倒れ込む。
あ、ヤバい。
ぎゅっと目を瞑った瞬間、腕を掴まれ傾ぐ身体が強引に方向を変える。ごきっと掴まれた腕が骨が嫌な音を立てたその直後に○○の身体が温かい物に包まれた。
痛みは来ず、音を立てた腕もさほど痛い訳でもなく。
○○はゆっくりと目を開け、えっと声を漏らした。顔を上げ、瞠目。
「か、賈栩さんっ」
この人、今、あたしを助けてくれた?
賈栩は無表情に○○を見下ろし、台の方を見やった。
「確か、新しい物が昨日には置かれていたと記憶しているんだが……」
「え?」
「……ああ、あそこにある」
「……あー……」
……普通に置いてありました。あたし、馬鹿じゃん。
いやでも、新しいの入れたんだったら古いの捨てろよ!
そう、心の中で怒鳴る。
賈栩は相変わらず無表情だ。
○○を放し、立ち上がる。手を差し伸べてくれた。
「立てるかい」
「あ……はい。ありがとうございます……」
意外と、優しい……?
有り難く手を重ねて立ち上がり、足の僅かな痛みに顔を歪める。
賈栩もそれが分かったようだ。
「失礼」
「あ……っ」
賈栩は屈み込み、右足に触れる。
見た目こそ変わりは無い足首を触り、無表情に踝(くるぶし)を押したりして○○の反応を確かめた。
だが関羽と似て、○○の衣服は丈が短い。その体勢で見上げられたら……ちょっと、いやかなりヤバいかもしれない。賈栩がそれに何かを思うような人間だとは思えないけれど。
やや緊張しながら賈栩が離れるのを待つ。
捻挫は軽かったみたいだ。時間が経てば痛みは失せた。
「手当てするようなものではないが、念の為、暫くは座っていた方が良いだろう」
「あ……ありがとうございます。……って待って!」
賈栩が見上げた瞬間丈服を押さえる。だが実際彼の頭は腰の辺りで、恥ずかしい杞憂であった。
一人顔を赤らめる○○に、賈栩は「何か?」と。
「いえ……ありがとうございます、助けていただいて……」
「どういたしまして。一旦掃除は中断して、あちらに座っていると良い」
賈栩は破損した台を持ち上げて、○○を見やった。
○○は頭を下げた。彼の言葉に従って、念の為足を庇いながら賈栩が座っていた机の方へ。椅子に座ると、賈栩が台を持って扉の方へ。
「あ……賈栩さん。それはあたしが処分しておきます」
「いや、良い。そのままで。お嬢さんに何かあると、俺が叱責を受けるだろうからね」
「は?」
「猫族に釘を刺されたよ。掃除担当の猫族には手を出すなとね」
肩をすくめ、苦笑を浮かべる。
あ……笑えるんだ、この人。
また、意外。
じっと見つめていると、彼は何を思ったのか、
「安心して良い。何もしないさ」
「え? ああ、いえ、あたしは別に……。ただ、意外なことばっかりで」
賈栩は不思議そうな顔をした。
「意外?」
「怖い人だとばかり思ってたから、助けてくれたし、苦笑いとかしてるのが、とても意外なんです」
「それは、まあ……猫族を愛せと言われたからね」
「……あたし達を愛してくれるんですか?」
「さあ」
賈栩は肩をすくめ、書庫を出ていく。
それを見送りながら、○○は頬杖をついた。口と鼻を覆った布を取り去る。
「本当、意外……」
意外と、そんなに怖くない。
さっきだって、助けてくれたばかりか足まで診てくれた。それに抱き留められた時も温かかったし、心臓の鼓動がして――――。
「――――そう、言えば……」
あたし、さっき賈栩さんに抱き締められてたんだっけ。
思い出し、はっと背筋を伸ばす。顔を赤らめて両手の頬を押さえた。今更だけど、恥ずかしい。
異性に抱き締められる感覚って、あんな感じなんだ。賈栩さんの身体、見た目よりしっかりしてたな。
……嗚呼、あたし何考えてるんだ。恥ずかしい。
けれど羞恥が思いの外すぐに落ち着いたのは、やはり何処かで賈栩が人間ではないのかも、と勝手に思っていた自分がいたからだ。
本当にあの人も人間なんだと、改めて知らされた。
……あたし、結構賈栩さんに対して失礼なことを思ってたのね。ごめんなさい、賈栩さん。
心の中で、謝罪した。
木簡を見やり、
「……今度、個人的に話してみる?」
もう少し、賈栩さんについて知ってみちゃおうか。
自分に、問いかけてみる。
答えは言わずもがなである。
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