……嗚呼、大変なことになってしまったわ。
 関羽は心中にて独白し、抱えた膝に顔を埋めた。
 部屋の隅に置かれた寝台の更に隅に座り込み外の様子にびくびくと震える彼女は、心の中で仲間の名前を一人ずつ呼ぶ。
 帰りたい。
 ここにいるのがそら恐ろしい。
 あの曹操に、会いたくない。

 関羽は今、襄陽城にいる。部屋を与えられある程度の自由も許されているが、囚われの身である。

 捕まったのは長坂で曹操軍に追いつかれた時。
 新野の民を無惨に殺される中抵抗していたところを曹操に見つかり、応戦するも簡単に捕まってしまったのだった。
 その時の曹操の形相には背筋が凍った。
 瞳には色よりも深い深い闇があり、どろどろした情念があり、強い強い執着があり――――泥沼の中に放り込まれたような恐怖に頭が真っ白になった。
 彼が同胞だの選ばれた存在だと言っていたけれど、それよりも何よりも彼の側にほんの少しでもいたくなかった。無様でも良い。曹操という闇から逃げたかった。

 だが曹操によって襄陽城に連れ込まれ強引に花嫁にされそうになった関羽を助けたのは、曹操の部下の青年であった。
 今はその青年の監視の下、この部屋に引きこもっている。
 外に行って曹操に遭遇したらどうしよう。何をされるか分からない。
 長坂で、この城で見た彼の満面の闇の笑顔が関羽の精神をごっそりと殺いだ。

 長坂で、恋しい仲間が殺されてしまったこともある。
 鍛錬は愚か食事も摂ろうと思わぬ程に関羽は参っていた。

 そんな彼女の唯一の安らぎと言えば、自分を助けてくれた青年。
 敵として接するも、面倒見が良い彼はあれこれと親のように叱りつけてくる。
 曹操のようにおどろおどろしい情念から守ろうとしているのも何となく感じられ、曹操軍の中で唯一の良心なのではないか、そう思えてしまう程関羽の中で彼の存在は大きかった。

 彼は毎日とまではいかないが、暇を見つけては様子を見に来る。
 それが、関羽には待ち遠しかった。親の帰りを待つ留守番の子供は、きっとこんな気持ちなんだろう。ちゃんと来てくれるのが分かっているから、早く来て欲しいと思ってしまう。
 関羽が細く吐息を漏らした――――まさにその時を見計らったように、扉の外に気配を感じ関羽は表情を輝かせ、しかしすぐにきゅっと唇を引き結んだ。まだ、彼だと決まった訳じゃない。曹操の可能性だってある。わたしを殺そうとする武将の誰かかもしれない。

 声が聞こえるまで、関羽は待った。

 ややあって、


『十三支。俺だけど』

「……っ! い、今開けるわ!」


 彼だ!
 関羽は慌ただしく寝台を飛び降り扉を開け放った。


「李典っ。今日も来たの?」


 言って、自身の声が弾んでいることに反射的に口を押さえる。

 だが、目の前の青年――――李典は、それを咎めはしなかった。
 咎めは、しなかったけれども。

 そのこめかみはぴくぴくと痙攣し、口端もひきつっている。笑っているように見えるが、決してそうではないと、関羽は分かった。自分の身なりを見下ろし、あっと声を漏らす。


「この……破廉恥な格好で出てくるな!!」

「ご、ごめんなさい!」


 これがいつもの服装なのに。
 心の中で反論しつつも、関羽は素直に謝った。



‡‡‡




 婚儀のさなか、李典は唐突に席を立ち粛然とした儀式に水を差した。
 曹操の隣で、曹操に愛おしげに手を握られる関羽の顎を掴み口を開けさせた。


「李典、貴様何を……」

「李典! 祝儀の途中だぞ。控えろ!」


 気色ばむ曹操、どよめく臣下達など気にも留めず、李典は関羽を無機質な目を向けて、


「――――曹操様、こいつ、舌噛もうとしてますけど」

「あ……っ」


 かんざしに添えていた花も抜き取って舌打ちする。


「この花も、食べれば毒になる。曹操様に……じゃないな。舌を噛もうとするくらいだ。大方閨(ねや)に入る前か入った直後にでも自尽(じじん)するつもりなんだろう」

「……何、だと……」


 関羽は青ざめ、しかし頑なに否定した。


「そ、そんなつもりはないわ……わたしは、本当にこの花が好きなだけ……」

「……口では何とでも言えるしな。十三支が口で俺や曹操様に勝てると思うなよ」


 李典は蔑み、関羽の整えられた髪を引っ張って懐に手を入れた。
 曹操が立ち上がった瞬間取り出したそれを眼前に突き出す。曹操は目を剥いた。

 李典が関羽から奪ったそれは、抜き身の懐剣。鈍い光を放つそれは、毒が塗られてあった。


「随分と念の入ったことで。花が駄目でも毒を仕込んだこれで自分を切りつけるつもりだったか? 賢しいとは思ってたけど、頭の使いどころを間違えてる」

「はっ、放して……返して!! もう一生皆のもとに帰れないのなら、死んだ方がましよ!! わたしは……っ、皆を殺した曹操の妻になんて、死んでもなりたくない!! 死なせて!!」


 関羽は李典を殴りつけて離れようとする。
 李典は痛みに顔を歪めつつも、死なせて死なせてと騒ぐ関羽に髪を引っ張って扉の方へ強引に歩かせた。

 曹操を一瞥すると、彼は関羽の強い拒絶に傷ついた顔をしていた。何故、どうしてと、表情が語りかけている。


「関羽……」


 親に置いていかれた子供のような顔は、大群を率いる奸雄としては情けない、絶対に見せてはならない表情だ。
 嘆息しつつ広間を出、金切り声で半狂乱になって泣き叫ぶ関羽を連れて行ったのは、自分の部屋だ。
 寝台に押し飛ばし、暴れる関羽を押さえ込んで猿轡(さるぐつわ)を噛ませ両手両足を縛る。


「んんっ、んーっ!!」

「まったく……面倒ばかりかける」


 自身は離れた場所に座って側に置かれた台から書簡を取った。関羽のことを放置し、書簡を読み始める。

 関羽は暫く暴れていたが、李典がこちらの様子に全く関心が無いのに気付くと、不審がって段々と落ち着きを取り戻した。
 完全に冷静になったのを見計らい李典は書簡を置く。


「十三支を娶ろうとしただけで十分すぎる醜聞だってのに、その途中でお前に死なれたら、曹操様は良い笑いものだ。曹操様の評価はそのまま俺達の評価でもある。夏侯惇殿達も貶めるような真似は許さない」

「……っ」

「さっきのあれで、暫くは曹操様もお前に近付かないだろ」


 李典は腰を上げ、寝台に歩み寄る。関羽の拘束を解いて抱き上げると部屋を出、


 ぽいっと廊下へ放り投げた。


「いたっ! 何するの!?」

「落ち着いたらさっさと部屋に帰れ。二度と死のうとするなよ。ただでさえ不細工なお前の更に不細工な死体見るとか、本当ごめんだから」

「不細工……!?」


 冷たく言い、犬か猫にするかのようにぞんざいに手を振って追い払う李典は、すげなく扉を閉めた。
 関羽が文句を言おうと扉を開けると、向こうから押さえつけられており、びくともしなかった。



――――されど、彼は翌日にこれでもかと嫌そうな顔をして自ら関羽の部屋を訪れるのだ。
 お前の所為でお前の監視役にされたんだけど、と。



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