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狐狸一族の里は壮観だった。
暫く長江を進んでいくと、船は細い支流へ入った。
厳格な佇まいの天まで届こう程に高い絶壁に挟まれた支流は曲がりくねり、川幅も一定ではない。ぎりぎり船が通れる程度の幅も、蒋欽の手慣れた櫂捌(さば)きで危なげ無く通過した。
渓谷の奥へ進めば進む程、空気が澄んでいくのが分かった。
吸い込めば関羽自身の隅々まで浄化されていく――――深い安らぎに、緊張も不安も解けて消えていく。
この清浄な空気のお陰だろうか、我が身に迫る絶壁も圧迫感を感じずまるで守ってくれているように感じて親しみが湧いてくる。
「上だ」蒋欽の言葉に顔を上げてその光景を目にする頃には、心底からの感嘆の声を上げられるようになっていた。
狐狸一族の里は、両側の断崖絶壁をくり抜いて作った数十の穴にはめ込むように建てられた家屋で構成されていた。
家から家へは梯子や、丸太を鎖や鉄の杭などで堅く固定した橋や通路で移動可能だ。
体格の良い狐狸一族の男が数人移動しても、小走りに渡ってもびくともしていない。
こちらに気付いた一人の狐狸一族が、快活な笑顔で歓迎してくれた。大きく手を振り、
「おぉーい!! 孫権様と猫族の女の子が来たぞー!!」
大気を揺さぶる大音声が渓谷に響き渡る。
知らせを受けてぞろぞろと家屋の中にいた狐狸一族が現れた。
「おー、孫権様じゃねえっスか! 周泰に会いに来たんですかー!」
「猫族のお嬢ちゃんは何でここにいるんだー!?」
「あれだろーっ!? お袋に連れて来られたんだろー!?」
「ごめんなぁー! うちのお袋、ほんと自由過ぎててさぁー!!」
頭上から親しげに話し掛けてくる狐狸一族達。
大音声が重なり反響して、騒がしいと言うより、少々やかましい。
しかし耳を塞ぐなんて失礼な真似は出来ず、関羽はぎこちなく笑って耳の奥の痛みに耐えた。
孫権は慣れているようで、凪いだ表情で手を振る狐狸一族に手を振り返している。
それもそうか。
孫家と狐狸一族の関係を思えば、彼が狐狸一族の里に招待されるのも不思議ではないのだ。
「弟達よ! 客人の耳を壊すつもりか!」
蒋欽が弟達を咎める。……が、距離が近い分関羽の耳に追い討ちをかけてしまった。
耐えかねて耳を両手で押さえて前のめりになると、孫権が「大丈夫か」心配そうに声をかけてくれた。
甘寧が呆れた声を長男にかける。
「蒋欽。お前が関羽にとどめを刺したぞ」
「ぬ……あいすまぬ」
「い、いえ……」
首を左右に振るが、回復するまでは耳から手が話せなかった。
痛みが失せ、まともに音が拾えるようになったのは、里の真下の桟橋に上がってからだった。
孫権に差し出された手を取って下船した関羽に、蒋欽はしょんぼりと背を丸めて繰り返し謝罪した。
それを気にしていないからと宥め、上に繋がる人工の洞窟に入る。
大柄な蒋欽が余裕で入る広々とした洞窟内は、天井に張り付いた蛍に似た虫の尻が放つ光に照らされていた。小さいのに、これがなかなかに明るい。十数歩先の地面や壁もはっきり見える。
地面は良く均(なら)され凸凹が無く歩きやすかった。
甘寧を先頭に長く続くやや急な傾斜の洞窟を抜けると、壮観な眺めが関羽を迎えた。
桟橋からは遠く離れた位置に出ており、桟橋がまるで小枝のように小さい。
遥か下を流れる支流は日の光を反射して美しい羽衣のように輝き、上を見れば崖の上に背の低い木々や植物が生き生きと、しかし強かに太い根を生やしているのが見えた。見たことの無い純白の鳥達が群れを成して目の前を飛んでいく。
狐狸一族の家屋の隣に、彼らの住まいだろう巣が幾つか作られてある。
向かいの崖にかけられた通路を駆け抜けて行ったのは二匹の子猿。それをゆっくりと追いかける二匹の雌猿は母親だ。
通り掛かった家屋に住む狐狸一族が窓から身を乗り出し猿の親子に木の実を与えて頭を撫でてやる。
彼の脇から、額に傷痕のある強そうな雄猿が飛び出し、親子とは別方向に堂々と歩いていく。きっと、群れの頭だ。
猿は彼らだけではない。色んな所で、毛繕いや昼寝などをしている。
頭の雄猿の頭上を真っ青な蝶が優雅に踊るように飛んでいく。高度を上げて止まったのは庇の上に咲く色とりどりの鮮やかな花々。
船からは見えなかった神秘的な生命力に溢れた里。関羽は感嘆の声を上げた。
まさに、神の一族が住まう秘境。
「凄い……!」
関羽の肩まである欄干の隙間から顔を出し、無邪気な笑顔でどんなに優れた画家であろうと完全には表現しきれぬであろう景色に見入る。
蒋欽も甘寧も、その様子を微笑ましそうに眺めていた。
関羽は気付いていないが、周りの狐狸一族もだ。
「劉備にも……ううん、みんなにも見せてあげたい……!」
すっかり興奮状態の関羽は、招かれた側であることも忘れそんなことを口走る。
それを咎める者は誰もいなかった。
「ま、そのうちな」
甘寧に頭を撫でられ、やっと我に返る。
欄干から顔を抜いて甘寧達の温かい眼差しを一身に受けていることに気付き、顔を真っ赤にして俯いた。
「ご、ごめんなさい……わたしったら……」
「いいや。尚香も似たような反応だったし。故郷の景色を気に入ってくれるのが嫌な奴は、うちにはいないよ」
関羽の背中を軽く叩き、甘寧は近くにいた息子を手招きする。
「どうした? お袋」
「この二人が周泰のことを酷く気にしててな。あいつは今何処にいる?」
問われた狐狸一族は驚いたように関羽を見た。目を真ん丸にしてこめかみに生やした狐の耳を上向かせ、甘寧に視線を戻す。手振りで何やら甘寧に伝え、甘寧が頷くのを見るや、感動したみたいに頬を上気させ身体を震わし、
「……!」
「え?」
関羽に親指を立てた。
「何ですか?」
「いや、何でもない。周泰なら、さっきこっちの山頂に登っていったの見たぜ」
輝かしいくらいにこやかに上を指差す狐狸一族に、甘寧は淡泊に「ありがとよ」返し、上を仰いだ。
蒋欽を呼び、
「んじゃ、ちょっくら登ってこい」
「承知した」
「え? 甘寧様はいらっしゃらないんですか?」
片手を振って何処かへ歩いていく甘寧の背を困惑して見つめながら、関羽は蒋欽に問い掛ける。
蒋欽は顎を撫でながら遠い目をして苦笑いを浮かべる。
「頂上はなあ……お袋は一人でないと行かんのだ。誰かを連れて行くことは絶対に無い」
「どうしてですか?」
問うと、蒋欽は複雑そうな顔をして顎を撫でた。
「実際に見れば分かる――――ものではないな。お袋なりに思うところあってのことなのだろうとは察するが、儂に詳しくは分からぬ。すまぬな」
「いいえ。わたしの方こそ不躾な質問をしてしまってごめんなさい」
「構わぬさ。では、参ろうか」
「はい」
「孫権様もよろしいか?」
「構わない。山頂へは何度も登っている」
孫権は頷いた。
蒋欽は頷き返し、山頂へ続く階段へと歩き始めたのだった。
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