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あれからどのくらいの日数が経ったのか、関羽は分からなくなっていた。
いつの間にか呉と猫族の同盟は無事に結ばれており、来たる曹操軍との対峙に備えて、どこもかしこも、だれもかれも、慌ただしく物々しい。
猫族にとっては曹操との不如意な因縁を断ち切る大事な局面だと言うのに、関羽はずっと心ここに在らずといった体であった。
食事を摂ったのか、毎晩ちゃんと寝ていたのか、そんな記憶すらあやふやである。
勿論、そんな関羽の様子には誰もが気付いている。
皆、関羽を案じて暇を見付けては街に誘ったりしてくれるものの、関羽は何をするにも上の空だ。
何度諸葛亮に叱られただろうか。覚えていない。
現状、劉備軍にとって攻めの要である関羽がこの状態であることは、重要な問題だった。
だからこそ諸葛亮も良く気にかけ、叱咤するのだが、関羽の心は別のことに囚われ逃れられないでいる。
周泰。
彼が、関羽の意識を掴んで放さないのだった。
柴桑に到着するなり蒋欽は周泰を連れて狐狸一族の里へ戻り、以降一度も姿を現さない。
平時は、あの外套の人物――――呉の君主、孫権の護衛として彼の側についているらしいのだが、周瑜が言うには目覚めはしたようだがまだ大事を取って里で静養中なのだそうだ。
周瑜も心配そうだったし、周泰を誰よりも信頼しているという孫権も日に何度も甘寧や狐狸一族の者達に周泰の容態を訊いているそうだ。
大丈夫、なのよね……。
一日に何度も何度も彼を想っては溜息をつく。
そんな関羽を、とうとう見かねたらしい。
「わーっ!」
「きゃあぁぁ!?」
彼女は突然背後に現れた。
心臓が口から飛び出したかと思うくらいの悲鳴を上げて前に逃げた関羽は胸を押さえて振り返り、口をぱくぱくと開閉させた。
関羽の反応がツボに入ったのか腹を抱えて笑う、赤き九尾。
「っな……な、っか、かん……っ!?」
「いかんなぁ。関羽。戦場だったら叫ぶ暇も無く、頭と身体がさようなら、だ。たとえ味方の居城に在っても、不測の事態に備えて常時周りを見ておけよ。間者や暗殺者が潜り込んでないとも限らん」
言っていることはもっともなのだけれど、にやにやして言われるとからかわれているようにしか思えない。
関羽は深呼吸を繰り返して自分の心臓を落ち着かせた。
「あの……わたしに、何がご用ですか?」
「お前の意思次第では用があるし、お前の意思次第では無いとも言える」
「……? えっと……それって、どういう……」
「周泰の様子が気になるか?」
関羽は口を閉じた。息を呑んでにやにやしている甘寧を凝視した。
甘寧は目を細め、「周泰の様子が気になるか?」もう一度問う。
周瑜の様子が気になるか、ですって?
そんなの……決まっている。
関羽はゆっくりと、深く頷いた。
甘寧が頷き返す。くるりと身体を反転させ、歩き出す。
「なら来ると良い」
「え?」
「気にならねえのか? ならついて来なくて良いぜ」
困惑する関羽を置いて甘寧はどんどん廊下を進んでいく。
元々宛ても無くさ迷っていた関羽であったから、この後何か用事がある訳ではない。
いや、用事があったとしても関羽はこちらを優先しただろう。
「ま、待って下さい! 行きます!」
関羽は角を曲がった甘寧を急いで追いかけた。
角を曲がると、
「あ……!」
甘寧は立ち止まっており、もう一人、彼女の側に立っている者がいた。
孫権である。
「孫権様」
「んじゃあ、行くか。船待たせてるからなー」
甘寧は片手を挙げて再び歩き出す。
孫権も関羽を一瞥したのみで甘寧に従う。
関羽は先程の甘寧の言葉を思い出し、納得した。
自分に声をかけるなら、孫権も誘うのは当然だ。
じゃあ、本当に周泰に会いに行くのね。
期待が胸の内で急速に膨らんでいく。
逸る胸を押さえて関羽は二人を小走りに追いかけた。
甘寧はまるで散策でもしているようなのんびりとした足取りで城を出、船を待たせていると言っていたのに柴桑も出てしまった。
川沿いを歩いて暫くすると、桟橋に停まる船が見えてくる。
あれが、彼女の言っていた船らしい。
桟橋には久しく見ていなかった蒋欽が立っていた。こちらに気付いて片手を挙げた。
「お袋。準備は出来ておるぞ」
「おう。んじゃ早速出てくれ」
「ん? 周瑜はおらぬのか」
「あいつは練兵に忙しそうだからまた今度な。孫権が教えてやれば良い」
孫権が短く頷く。
甘寧は一足先に船に飛び込んだ。大きく揺れる船体の上で平然と立って関羽達を待っている。
「お袋……これは近くの村から借りた船だ。大事に扱ってくれ」
「ああ、大丈夫大丈夫。息子達が新しく造ってやれば良い」
「儂らは船は作れんぞ……」
蒋欽が困り顔で呟く。
「……私から言っておこう」
見かねた孫権が言うと、
「おお、悪いな孫権」
待ってましたとばかりに、甘寧。
……それでも、誰もこの九尾を憎めないのである。
孫権の無表情にも、微かに呆れが見える。
「ということだ。問題は無い」
「……申し訳もありませぬ」
「構わぬ」
蒋欽は孫権に深々と頭を下げた。
孫権は彼の肩を叩き幾らか揺れの収まった船へ乗り込んだ。
関羽を呼び、手を差し出す。
「あ、」
「不安定な上に揺れている。ゆっくり乗ると良い」
「ありがとう、ございます……」
優しい人だ。
関羽は怖ず怖ずと手を重ね、船を乗り込んだ。乗ってみると、構えていたよりも大丈夫だった。きっと孫権が支えてくれたお陰だろう。
体勢を崩さずに腰を下ろした関羽を見、孫権も座る。
甘寧は船首に立ち、蒋欽は船尾にて櫂を取った。
「周泰は、安定しているのか?」
船が動き出して暫く沈黙していた孫権が、不意に口を開いた。
「それを今から確かめてみると良い。オレから聞いても変わるまい」
「……そうだな。すまない。気を遣わせる」
甘寧は肩越しに振り返り、
「年寄りが若者を可愛がるのもからかうのも慈しむのも、自然なことさ」
こちらに向けられた微笑みは、深い慈愛に満ちていた。
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