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 曹操軍は撤退を始めた。
 隊列も何も無く、大勢の怪我人が仲間に背負われ退いていくのを見ていると、処置が早く適切に行われれば命は助かるだろうが、後遺症が残るだろうものばかりだ。

 曹操軍の撤退中も猫族と新野の民は避難を再開させ、赫蘭も気を失った周泰の中に戻った。
 甘寧が引き連れてきた屈強な男達――――幽谷と同じようにこめかみから獣の耳を生やした狐狸一族と、呉からの援軍が殿(しんがり)を引き受けてくれ劉備は趙雲が、周泰は狐狸一族の長男である蒋欽が背負って運ぶこととなった。
 劉備と周泰を側におかぬようにとの甘寧の指示により、隊列の中央に劉備を、殿軍に周泰を配置。関羽は曹操軍の転進への警戒もあって蒋欽の隣を歩くことを選んだ。周泰の容態を窺いながら、後方への注意も怠らない。

 蒋欽の側にはもう二人、幽谷と、全身を外套で覆い隠した人物がいた。その人物は寡黙だが、多分男性だ。関羽と同様周泰の様子を気にしているさなかに彼の名を低い声で呟いたのを聞いた。

 周泰の友人なのかも知れない。


「あの……蒋欽さん」

「周泰ならば大丈夫だ。お袋が慌てておらぬからな。あの人が取り乱しておらぬなら、万事問題ないのだ」


 快活な笑顔で自信満々に断言する大男の言葉に、関羽の中に渦巻く不安は一瞬で払拭される。どうしてか、蒋欽の声にはそれだけの力があった。初対面なのに、親に肯定された時の穏やかな安堵感に似たものが、胸を満たす。


「そうですか……」

「ああ、そうだ。そうだ」


 蒋欽は何度も大きく頷き、幽谷と外套の人物にも頷きかける。
 幽谷は無表情ではあるものの、耳の状態から彼女も安堵しているのが分かる。

 曹操軍から受けた被害は小さくはないが死者は報告されていない。先程新野の民の様子を確認してみると、どうやら劉備と周泰の暴走は知られていないらしい。怪我人を運ぶのは猫族の役目と甘寧に指示され、それに反発する人間は一人もいなかった。
 後になって蒋欽に教えられたことだが、この時甘寧が幻覚で劉備と周泰の暴走を隠していたのだそうだ。
 ただでさえ逃げ惑う者達に更に恐怖を与えてしまうと、恐慌状態になって保護が難しくなるし、精神的な後遺症が酷くなる可能性があるからと。

 良かった、とは思えない。
 民の目に触れなかったからといって、劉備や周泰のしたことは事実。
 この事実に劉備や周泰が何も思わない筈がないのだ。

 ただ、彼らを責めるものがいるかいないかの違い。

 劉備は目が覚めた時、きっと――――いいや、絶対に自分を責め苛む。自責という重しを自ら胸に落とし続けるのだ。
 彼は、本当に優しい人だから。

 助けた子供達に穏やかな笑みで接していた周泰も同じだと思う。

 まるで劉備のように全く性質の異なる人格『貪着』に替わった周泰。
 彼は身体から噴き出していた無数の蟲は一体何だったのか。
 劉備に噛み付いて、何をしたのか。
 金眼の妖気を喰らったと赫蘭は言っていた。
 劉備のことを餌だと甘寧は言っていた。

 周泰は、一体何を秘めているのか。
 それが分かれば、関羽だって彼の苦しみに寄り添えるかもしれない。

 蒋欽に訊けば答えてくれるだろうか。
 隣を歩く大男を見上げる。

 と、蒋欽が見計らったように関羽を見下ろし、ゆっくりと首を左右に振った。

 まるで関羽の考えなど分かっているみたいに拒否の意思を見せた蒋欽に、関羽は気まずくなって視線を逸らした。



‡‡‡




 劉備にとって、周泰は天敵である。
 周泰が四霊だからなどという単純な理由ではない。
 同じ四霊の幽谷と周泰は、まるで真逆の存在だ。
 周泰はあまりに異端な人生を送ってきた。
 深く冷たい沼の底のような場所で背負った業、貪着に完全に呑み込まれてしまえば、劉備の命をも容易く喰い尽くすだろう。

 背負っていると、周泰の苦しげな息遣い、弱々しい鼓動が伝わってくる。
 周泰が生きていることに安堵しつつも、蒋欽はこの正邪を併せ持ってしまった弟を憐れに思う。


『今日からこいつ、うちの末っ子だから』



 唐突だった。
 甘寧が、まだ小さな子供だった周泰を何処からか連れて来た時、蒋欽は全身が粟立った。
 この子供は恐ろしい存在だと、頭の中で警鐘が鳴った。

 それは蒋欽だけではなかっただろう。狐狸一族は皆一様に、直感しただろう。

 だが本能の訴えも気にならないくらいに、狐狸一族は周泰を憐れんだ。

 家族の存在を知らず、どんなものか知らぬ家族愛に飢(かつ)えた小さな童を、新しい弟が出来たと狐狸一族はすんなりと受け入れた。
 自分達が知っている家族の絆から生まれる温もりを嫌と言う程しつこく教えた。

 それが、周泰にとっての幸福と信じて疑わなかった。

 けれど――――。


 生き物としての、人としての幸せを教えたことで、弟は自身の中の軋轢に余計に苦しむことになったのではなかろうかと考えてしまう。


 自分達がよかれと思ってしたことは、正しかったのだろうか。
 よもや不安になるなんて、思いも寄らなかった。

 すまぬな、貪着。
 心の中で謝罪するのは、周泰の邪を象徴する人格へ。
 いつだって貧乏籤を引き道化を演じる貪着。

 周泰は劉備に似ているようで、まるで違う。
 それを、彼女が知ることはあるだろうか――――。

 視線を落とせば、時折不安げに周泰の容態を確認する猫族の少女。名を関羽と言うらしい。

 彼女が周泰に周りと異なる感情を抱いているのはすぐに分かった。
 兄としては、可愛い弟を好いてくれる女性が現れたことは純粋に嬉しい。

 だが、周泰を好きでい続けるなら、関羽は周泰だけを見てはいられないだろう。
 周泰の正体が関羽に知れた時、彼女は受け入れるだろうか。
 二人の関係が劉備と全く違うと、分かってくれるだろうか。
 貪着の存在を認めてくれるだろうか。
 その上で、添い遂げてくれるだろうか。

 不安げにこちらを見上げてくる関羽の考えを察し、蒋欽は静かに首を横に振った。

 関羽以上に、狐狸一族長男の不安は大きい。



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