両手で顔を覆い拒むように首をゆるゆる振った。

 違う。
 これは夢だ。
 まだ目覚めていないのだ。
 夢。

 これは夢――――。


「――――じゃない」


 口が、勝手に動いた。

 夢じゃない。

 夢じゃない。

 ならば、あれは何?


 私の『前世の記憶』だ。


 どうして分かるの。
 今まで分からなかったじゃないか。

 ……そうだ。

 きっと、あの子に出会ってしまったからだ。
 幽谷は意外にも冷静に分析する。

 光景と共に押し寄せて来たあの人への想い、あの子への罪悪感――――でも、それらは全て前世の自分のもの。私のものではない。

 私は狐の獣人の幽谷。夏侯惇様に保護されて、この地に安住出来た獣人の女。

 あの子は、前世の自分に自分を奪われると言った。

 でも前世の記憶を全て得た今、不思議とそうなる気がしない。
 前世の自分が生まれてから死ぬまで何をしてきたか覚えていても、私は彼女ではなく幽谷だとはっきり言える。

 彼女と私は全くの別人。前世とはただ魂が同じというだけ。人種も違うし、育った環境も違うのだから性格だって異なる。
 幽谷と前世の彼女ではあまりに違いがありすぎる。むしろこんな自分と一緒にしたら、彼女に失礼にあたる。

 でも、夏侯惇が寝言で前世の名前を呼んだのを私は喜んだ。もっと呼んで欲しいと願った。

 あの時はきっと、夏侯惇も幽谷のように前世の夢を見ていたのだと思う。
 夏侯惇に自分と同じ現象が起きていることが、自分は嬉しかったのではないだろうか。
 何故、それを喜ばしいと思ったのかは分からないが……。
 そうだとするなら、彼も前世の記憶を持っていることになる。幽谷を保護してくれたのも、その縁があってのことなのかもしれない。

 幽谷は、久し振りに朝らしい爽やかな心地で身支度を整えた。
 部屋を出ると夏侯惇が朝食の用意を終えていた。謝罪し、席に着いた幽谷の顔色を見て驚いた。


「今日は顔色が良いようだな。夢を見なかったのか?」

「いえ。夢は見ましたが、先程その正体が分かってすっきりしています」

「今日は覚えていたのか」


 幽谷の嘘を信じたままの夏侯惇に、幽谷は全てを話すべきか一瞬悩んだ。


「ただ前世の記憶を覗いていただけのようで――――」


 ガシャン。
 夏侯惇の手から、食器が落ちた。幸い机上に落下したそれは破損も無く無事だった。

 目を丸くする幽谷を凝視する夏侯惇の顔色がみるみる青ざめていく。


「思い出したのか?」


 動揺をあらわにする彼の声は、震えている。

 思わぬ反応である。
 この態度から彼もやはり記憶があるのだと確信したが、その動揺振りには驚いた。


「どう、されたのですか?」

「い、いや……何でもない。それよりも、質問の答えはどうなんだ」

「はい。全て思い出しました」


 ふらり。
 夏侯惇がよろめくように椅子に座る。

 頭を抱えてしまった彼のただならぬ様子に、幽谷も戸惑った。


「あの……」

「思い出したのなら、俺が何者か分かってしまったのだろう」

「前世では恋人でしたね。その縁もあって、私はこうしてこの森で平穏に暮らせているのでしょう。今の私達と人種が入れ代わっているというのは、前世の結末を思えば不謹慎かと思われるでしょうが、少し面白いです」


 すらすらと答える幽谷の様子を窺う夏侯惇は、警戒の色を滲ませつつ恐る恐る問いを重ねた。


「それ以外に、何か思うことは無いのか?」

「特には何も……あ」


 答えて、察した。


「もし、私が彼女のように前世に引きずられてしまうのではないかと危惧されていらっしゃるのなら、それは杞憂です。前世の女性は、魂は同じなのでしょうが、私と同じにしてしまっては失礼にあたる程の方です。前世の感情に引きずられて恩人である夏侯惇様にご迷惑をおかけすることはありません」


 夏侯惇様に迷惑をかけて、今の関係を壊したくない。
 心の中で、もう一度繰り返す。

 幽谷は家の中をぐるりと見渡した。
 この家にある家具は、ほとんどが二人分。幽谷と夏侯惇の分だ。

 この地に暮らし始めてだいぶ経つ。
 いつの間にか、同じ屋根の下で暮らしているのが当たり前になっている生活が、申し訳なく、またむず痒く
感じられる。
 けれど、長らく女という道具として扱われた幽谷にとって、誰かと共に過ごす穏やかで温かな暮らしは決して嫌ではない。
 昔は、こんな生活を望むことすら思いつかなかった。縁遠いものだった。

 あの娘のように前世の記憶に塗り潰され夏侯惇に迷惑をかける時。
 それはすなわち、この穏やかなかけがえのない暮らしも壊れる時だ。

 今の生活は、とえも心地良い。
 絶対に壊したくない。
 壊してしまったらきっと二度と得られない。

 どうやら素晴らしいもの程、一度得ると手放しがたくなるものらしい。

 案外、今朝は無意識のうちにこの心理も働いていたのかもしれないと、今更気付いた。

 顔を、夏侯惇へ戻す。


「……私は今の生活を手放したくありません。ですから、前世の自分だという女性が別人にしか思えない他に、平穏な今を壊しかねないなら前世のことなどどうでも良い、というのもあるのだと思います」


 夏侯惇は軽く目を瞠る。


「今の生活を気に入っているのか?」

「はい。夏侯惇様に保護していただく前は、自分にこんな生活が送れる日が来ると思いもしませんでしたから。望むことすら考えが及びませんでした」


 当時の自分が見たら、どう思うか。
 きっと、同姓同名のそっくりな別人だ、自分じゃないと思うのだろう。
 それくらい、あの頃の幽谷に救いなど無かった。

 夏侯惇に出会って、彼から恵んでもらえたのだ。

 前世の記憶を無念だと思う。孕んだ子供共々殺された彼女を憐れに思う。
 それだけだ。前世といえど、言葉は悪いがとうに終わった他人事でしかないのだ。

 幽谷の様子に、夏侯惇は安堵したらしい。
 肩を少し下げ長々と溜息をつく。
 ややあって、薄く笑んだ。


「そうか……それなら良い」

「ところで、夏侯惇様はいつ、前世の記憶を?」

「お前に一目で惚れた直後だった」

「……」


 ……。

 聞き間違いだろうか。


「今……何と?」

「お前に惚れた直後、前世の記憶が俺の頭に流れ込んできた」


 思い出すよりも、お前に惚れたのが先だ。
 そこを、彼は強調する。

 幽谷は反応に困った。
 惚れた……私に?
 何と言葉を返して良いのか分からない。

 だが、自分に向けられていた視線の正体がこれで分かった。
 あれは、そういうことだったのか……。

 幽谷は黙って腰を上げた。

 逃げる態勢になった彼女を制するように、「言っておくが」と夏侯惇。


「惚れたと言っても、お前と想いを通わせたいとは思っていない。そこまでは望まん。惚れたお前を守りたいというのは、俺自身の自己満足で完結させている。見返りを求めてやっていない」

「……そうなのですか?」

「ああ。だから俺に恩返しで無理に応えようなどとは考えもするな。ただ、前世の記憶に引きずられてお前と共に行くと決めたのではなく、俺自身がお前を守りたいと思ったからだと、それを分かってくれさえすれば良い」


 幽谷はぎこちなく頷いた。
 だが……どうしてか、彼の言葉をちょっと残念に思う自分がいるのに、戸惑う。
 内心首を傾げつつ、夏侯惇に促されるままに食事に手を伸ばした。

 と、夏侯惇がふと、


「……あの村娘のことだが」

「あ、はい」

「彼女の言っていることはほとんど嘘だ」

「え……嘘っ?」


 幽谷は瞠目する。

 夏侯惇は頷いた。
 曰く、彼女は間違いなく前世で人間の娘と愛し合った狐の獣人を愛していた彼と同族の娘。
 だが彼女自身も夏侯惇と幽谷のように自分と切り離していて、昨日語ったことの大半は彼女が自分の為についた大嘘なのだそう。

 何故そんな嘘をついたのか。
 その理由は彼女が患う病にある。
 元々、都でも有名な舞台女優だった彼女は、肺に大病を患った。婚約者の勧めもあって二人で故郷に戻り、療養していたという。
 しかし、病は治る兆しを見せず。
 婚約者に連れられて国一番の医者に診てもらったところ、治療法がまだどの国にも無いと言われ、得られたのは余命幾何(いくばく)も無しという不穏で不確かな情報のみ。

 娘自身は何となく察しはついていたから、余命を宣告されても落胆も動揺もしなかったという。
 自分の身よりも、絶対に諦めないと宣言した婚約者の将来が心配だった。
 人が良すぎる婚約者は現在も娘の為にあちこち奔走して治療法を探し回っている。
 騙されたこともあるらしい。
 怪我をして帰ってきたこともあったらしい。

 自分の為にいつか取り返しのつかない目に遭ってしまうと胸を痛めていたところに、幽谷達が近くの森へ移住して来た。
 娘は夏侯惇が自分を見て驚いたことから二人共自分と同じく記憶を持っていると思い、夏侯惇に協力して欲しいと密かに、必死に頼み込んだそうだ。

 前世の記憶について、娘は婚約者に話していた。
 婚約者の目がある時にだけ、夏侯惇に言い寄っているフリをして彼が諦めるように仕向けた。
 幽谷が見たのは、そういう場面だったらしい。


「そんな事情が……ですが、あの耳の傷痕は……?」

「あれは去年、婚約者がいない間に事故に遭って切り落としたそうだ」


 それを上手く利用して、あの迫真の演技を……。
 昨日のことを思い出し舌を巻いた。
 演技だとは全く分からなかった。演技と言われても、俄には信じられないくらい。

 都に知れ渡る女優ともなれば、あれくらい容易いのか。
 いや、きっとそれだけ彼女が必死だったのだ。


「……役者とは、凄いのですね……」


 素直な感想を漏らすと夏侯惇が小さく笑った。


「でもそれを私に話しても良いのですか?」

「彼女は話を通して欲しいと言っていたが、お前が記憶を取り戻すことの無いように俺が黙っていた。だが、それももう必要無い。お前は思い出してしまったし、二人に光明も差したからな」

「光明?」

「知り合いに腕の良い医者がいる。診療所も持たず、いつも何処にいるか分からん奴だ。いつも飄々として胡散臭いが、腕はこの国どころか大陸一だ。そいつとようやく連絡が取れた。幸い隣国にいるらしくすぐに来るそうだ。あいつの腕なら治療の目処はたつだろう。そう、婚約者にも伝えてある」


 だからもう彼女の嘘は必要無いと言った夏侯惇は、穏やかな顔だった。

 幽谷もほっとした。


「それはようございました」

「解決すれば揃って謝罪に来るだろう。その時、耳を隠す必要はない」

「どうしてです?」

「森の主に認められているのなら、その人に何の問題も無いそうだ。少なくとも彼女はそう言っていたし、婚約者も彼女がそう言うのならと特に気にしていない。二人の前だけでなら耳を晒しても問題無い」


 ……後で、森の主にお礼を言いに行かなければ。
 そう思いつつ、幽谷は頷いた。

 そして、二人は食事に戻る。


「幽谷」

「はい」

「心配するな。お前の暮らしは俺が守る。ずっとだ」

「……ありがとうございます」


 夏侯惇は、目を細めて頷いた。



○●○



 取り敢えず浮かんだネタを注ぎ込んだ結果、起承転結を無視した話になりました。
 夏侯惇の知り合いの医者というのは言わずもがな本編で出まくってる仙人です。

 夏侯惇が制限をかけたのは夢主に前世の記憶を取り戻すきっかけを与えない為。彼はずっと自分を前世の恋人と認識されたくなくて取り戻させまいとしていました。前世に引きずられて想われるのは嫌なので。

 娘が夢主に接触したのは協力してくれることに対しての感謝と、迷惑をかけている謝罪の為です。ところが体調を心配して追いかけてきていたのに気付き、慌てて演技をしたという流れです。根が良い人なので、慌てていたあまりに乱暴になってしまったことを、心の中では物凄く申し訳なく思っています。
 多分、かなりの勢いで夢主に謝罪しまくるんだろうなと。

 ちなみに婚約者は、娘の演技を全部見抜いています。夏侯惇もそれを知っているので医者を紹介したのでした。



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