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「……え……?」


 目を開けてまず目に入ったのは、人の顔である。
 見慣れた男性の――――夏候惇の寝顔。

 幽谷は固まった。
 どうして私、夏候惇殿に添い寝を……?

 大木の根本に出来たうろの中で寝た筈。
 土や苔の匂いに混じって獣の匂いがするから、家に連れ戻されたのではないらしい。
 さりとてあのうろの中でもない。迂路には獣の匂いは残っていたが、今ほど強いものではなかった。
 身を起こして周りの様子を確認しようにも、夏侯惇の腕が幽谷の身体を寝ているとは思えない力で拘束している。

 意外なことに、夏侯惇は抱き枕がないと眠れないらしい。

 二人で旅をしていた頃は野宿が多かったが、街に寄って携帯食料や燃料などを補給する際には宿を利用していた。
 二人用の部屋をあてがわれることもあり、並んだベッドに寝ていると何故か夏侯惇に抱き枕にされていたこともごく稀にあった。

 今の家に住み着いてからは部屋を分けていたから、この目覚めは少し懐かしい。

 夏侯惇は目覚めるまで抱き枕を放さない。
 暫くこのままで、彼が起きるのを待っていよう。
 幽谷は前のように、静かに目を伏せ、夏侯惇の微かな寝息を聞きながら彼の目覚めを待つことにした。

 だが。


「ん……」


 夏侯惇の口から、掠れた声が漏れた。
 起きるのかと思いきや、目は未だに伏せられている。
 どうやら寝言のようだ。

 目を開けた幽谷は、苦笑を浮かべた。

 と、寝言が再び漏れる。


「……×、××、×」


 目を剥いた。
 今の、は。

 夢の中の、自分の名前――――。

 どくり。心臓が跳ね上がった。
 それだけではない。どくどくと早鐘を打ち、体温が急速に上昇していく。

 その名前は自分を示すものではない。
 私は幽谷。

 なのに――――どうして。


 どうして、私は喜んでいるのだろう?


 疑問の答えは出なかった。

 その前に、夏侯惇が文字通り跳ね起きたからだ。

 幽谷を突き飛ばすように放して起き上がった彼は、すぐに幽谷に気付いて青ざめた。
 謝罪し幽谷の身体を起こす。


「怪我は無いかっ?」

「はい。大丈夫です」


 地面にぶつけた肩が少し痛いが、それだけだ。手当てせずともすぐに治るだろう。
 幽谷は心配は無いと彼を宥めて、ひとまず状況を確認することにした。


「ところで、どうしてあなたがここに? それに、私は大木のうろの中で寝ていた筈ですが」


 ぐるりと見渡したところ、なだらかな斜面は苔に覆われ、上には大木の枝葉が天井を作るように広がっている。
 斜面の下には小さな泉があり、宝石を散りばめたように朝日を反射して揺れる水面に水生の植物が青い花を咲かせている。

 幽谷と夏侯惇が寝ていた場所はやや凹んでおり、どうやら誰かの寝床だったらしい。


「ああ、それは……森の主がな」


 曰く、幽谷が出て行ってから夏侯惇は村娘を引き剥がし自身の部屋に案内してからもしつこく絡まれたものの、何とか振り解いて幽谷を探しに家を出た。
 とは言え幽谷が何処に行ったのか、方角すら分からない。
 そんな彼の前に、森の主である雄鹿が現れ、幽谷が眠るうろまで案内してくれたという。
 それから雄鹿の厚意で彼の塒(ねぐら)に寝かせてもらったと、そういうことだったらしい。

 もう一度周りを見渡すも、あの逞(たくま)しく神々しい姿は何処にも見られない。
 食事か、日課の森の巡回に出たのかもしれない。

 夏侯惇も見回し、思案する。


「もう一度礼を言っておきたかったが……次会った時にしよう。幽谷。家に戻るぞ」

「はい」


 頷き、幽谷はそう言えばと思い出したように問いかけた。


「何か悪い夢でも見たのですか?」


 夏侯惇の肩が小さく跳ねた。


「……そうだな。出来れば見たくない夢だった」

「どのような夢か訊いても?」


 返答は、少し遅れた。


「……とある男が、命よりも大切なものを失う夢だ」


 幽谷の心臓が、また跳ねた。


「大切な、もの……ですか」

「ああ。二度と見たくないのに、たまに見てしまう」


 夏侯惇は幽谷をじっと見つめ、その頬を撫でた。
 幽谷も夏侯惇を見返す。

 彼の手が背中に回り抱き寄せられるのに、身を委ねた。

 ……もう一度、さっきの名前で呼んで欲しかった。
 もう一度呼んでもらえたら、何かが分かりそうな、そんな気がする。

 この森に住み着く前には彼の欲を孕んだ眼差しを避けていた幽谷。
 それが今、まるで恋人にするように抱き締められているにも拘(かか)わらず、幽谷は大人しくされるがまま。

 そんな幽谷を、夏侯惇は熱のこもった眼差しで見下ろしている。目を細め、艶めく黒髪に唇を落とす。


「幽谷」


 嗚呼、違う。
 これが私の名前だけれど、呼んで欲しいのは別の名前。
 不満を感じつつ顔を上げると、夏候惇が顔を寄せてくる。

 幽谷は、夏候惇の目をじいっと見つめた。

 と、その時だ。

 近くの茂みから子兎が飛び出してきた。

 幽谷ははっとして夏候惇を押し退けた。腕から抜け、寄ってきた子兎を抱き上げる。
 子兎を撫でてやりながら夏候惇を振り返ると、彼は未だに鋭くも甘い熱を孕んだ眼光を向けている。

 くらり。軽い眩暈がした。

 夏候惇は、目を逸らす。


「帰ろう。家の様子も気がかりだ」

「あ、は、はい……」


 子兎を下ろすと、袖に噛みついて甘えてくる。
 愛くるしい姿にほだされかけた幽谷であったが、夏候惇に促され、後ろ髪を引かれつつ森の主の塒を出た。

 獣道を進んでいくと、不意に足を止める夏候惇。


「幽谷」

「? はい」


 夏候惇は振り返らずに言う。


「幽谷。お前は俺が守り抜く。何からも、必ず」


 強い口調だった。
 幽谷の名を言いつつ、幽谷というより自分に言い聞かせているようだ。
 怪訝に思って名を呼べば、彼は謝罪して歩き出す。

 その背が、真意を質(ただ)すなと訴えているように思え、幽谷は何も言えなかった。



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 思ったよりも長くなりそうなので、この辺で区切ります。



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