夏侯惇
最近、夏侯惇が幽谷の傍から離れない。
少し外に出るだけでも必ず共について来るし、家より一定の距離離れることも禁じられてしまった。
いきなりどうしてと訊ねても夏侯惇は危険だからの一言のみ。何が危険なのか、そのれはいつまで続くのか回答を求めても彼は答えてはくれなかった。
突然の行動制限に幽谷は戸惑い、珍しく小さな反発心も抱いた。
けれど、外を歩いている時の彼の周囲を必要以上に警戒する様子を見て、本当に不穏なことがあるのだと反発心を表に出せない。
あの雄々しき主に守られる森の中、危険なことなど無い。ここに移住してから、自分達の周りは平穏そのものだ。
不穏なことが起こるとすれば、それは恐らく外部からの脅威。
憶測の中で浮かんだのは夏侯惇に想いを寄せる娘の姿。
けどもそれは夢の中で幽谷を殺す獣人の娘にそっくりだからそう思うのであって、人間の娘に名のある武人が警戒するような要素があるとは思えない。
――――そう思っていた。
彼女の方から接触されるまで。
「……あんた、まだ思い出せていないの?」
「え?」
夏侯惇の目を盗んで薪を拾っていた時のこと。
刺々しい声が背後から降ってきた。
突然のことに幽谷の反応は一瞬遅れた。振り返って驚き、それから頭巾で頭を隠していないことにまず気付き、青ざめた。
固まる幽谷に、娘は忌ま忌ましそうに眉間に皺を寄せ舌を打った。
「図々しい女……しかも、よりにもよってあんたが狐の獣人だなんて」
「あの……思い出すとは、何を」
問いながら、背筋がひやりとした。
理由は分からない。
だが脳裏に、夢で見た光景がよぎる。
私が、この人そっくりの獣人に殺される光景が。
いや、まさか。
そんな筈はない。
だってあれは夢なのだから。
怒りに歪む娘から視線を逸らす。何故か彼女を正視出来ない。彼女の前に立つこと自体、後ろめたい気がする。
これまでだって無視はされるもののすれ違うことも、近くに立つことも複数回あった。だけど、こんなことは一度も無かった。
それがどうして今……。
夢で殺人者にしてしまった罪悪感からそう思ってしまうのだろうか。
また、舌打ち。
「本当、ムカつく女ね。前世から何も変わってない泥棒女」
「ど、泥棒……」
「そうよ。あんたは泥棒。前世でも今でも、あたしからあの人を奪った女」
どくりと心臓が跳ね上がる。
急激に体温が下がっていくような感覚に襲われ、全身に鳥肌が立った。
「仰っている意味が、分かりかねますが……」
返した声は、震えている。
娘は幽谷の胸倉を掴んだ。
「その反応。あんた、本当は分かってるんじゃないの?」
「そんなことは……」
「じゃあどうしてそんなに狼狽えているのよ!!」
怒声を間近に受け身が竦んで言葉が返せなくなってしまう。
娘は幽谷の身体を乱暴に大きく揺さぶる。
頑なに顔を合わせない幽谷は、彼女の目の端に溜まる涙に気付けなかった。
「分かっているんでしょう!? 自分だけ忘れたフリをしているんでしょう!? そうやって、あたしに見せつけてあたしを嘲笑って――――」
「幽谷!!」
身体を揺さぶる動きが止まったと思いきや、強い力で娘から引き剥がされた。
夏侯惇だ。
彼は息を乱し青ざめ、幽谷を守るように抱き締める。娘を睨みつけた。
夏侯惇に押し飛ばされたらしい娘は傷ついた顔をして、唇を真一文字に引き結ぶ。
「どうして、また繰り返さなきゃいけないのよ……! あなた達があたしの前に現れなければ、あたしはこんな惨めな思いをしなくて済んだのに!!」
夏侯惇の腕の力が強まった。
彼は、娘を申し訳なさそうに、憐れむように見ている。
「やっと、忘れられたのよ? 前世の記憶のこと。今の自分は違う。今の私は、恋をして、結婚して、幸せになるんだって、前向きに生きていたのに! どうして二人がであたしの前に現れるの!? 現れなければ、あたしはあたしを前世から切り離せたのに!!」
今度こそ取り戻したいと思わなかった筈なのに!!
涙混じりに叫ぶ娘。
肩を怒らせ拳を握り締め、大粒の涙を流す。
こちらへ向けられる青い瞳が怒りと憎悪、そして、悲痛な想いを訴えてくる。
「あんた達に分かる? 自分が前世の自分に塗り潰されていく感覚。前世と切り離したいのに、前世の記憶が、前世の自分の感情が強烈過ぎて、平和に平凡に暮らしてきた普通の村娘なんて抗えないのよ。次第に当たり前だったことが異質に思えて来るの。血の繋がった親を親と思えなくなるし、自分が人間だってことも奇妙に感じて来るの。どうして頭に耳が無いのかしら、私は狐の獣人なのにって、本気でそんなことを思うようになるのよ。人間の耳が段々気持ち悪くなって――――こうなった」
娘が右側にかかる横髪を耳にかける。
あらわになったそこに、人間なら在るべきものが無かった。
耳殻が無い。
強引に千切り取ったような痛々しい傷痕が残っているのみだ。
「滑稽でしょう? 憐れでしょう? 気持ち悪いでしょう? そんなの自分が一番良く分かってる。あたしがあたしなのにあたしじゃなくなっていくのが恐い。でももうあたしは戻りたくても戻れないの。元の人間の村娘に。もう諦めるしかない。あんた達がそうしたんだから責任取りなさいよ。あたしに前世を繰り返させないで」
「悪いが、断る。俺がお前を選ぶことは無い」
夏侯惇はきっぱりと言った。娘を憐れむ眼差しは変わらない。けども、幽谷を抱き締める腕の力は強いまま。
それに安堵しつつも、幽谷は彼の腕の中にいることに強い罪悪感を覚えてきた。
娘が語る中に出てきた『狐の獣人』という言葉。
それを聞いた瞬間、ぞくりとした。
夢の中で幽谷を殺した彼女そっくりの娘も、夏侯惇そっくり恋人も、どちらも『狐の獣人』だったから。
『図々しい女……しかも、よりにもよってあんたが狐の獣人だなんて』
娘は憎らしげにそう言った。
まさか彼女の言うように、あの夢は私の――――。
「そう言われて、諦められる訳がないでしょう」
娘が、震える声で夏侯惇の言葉を拒んだ。
「あなたが手に入らないのなら、あの時と同じ結末にするまでよ。その女をあたしが殺してやる。絶対にあなた達を結ばせない。あたしを苦しめておいて自分達だけ幸せになんかさせない。逃げたって一生追いかけてやるんだから。恨むなら、あたしの暮らす土地に来た自分達を恨みなさいよね」
先にあたしの人生を壊したのはあなた達なの。
娘は夏侯惇を、そして幽谷を、底冷えのする眼光で睨めつけ、きびすを返す。
走り去る彼女の後ろ姿を見つめ、幽谷は胸を押さえた。
「前世……私の……」
呟いて、夏侯惇を見上げる。
夏侯惇は、娘の後ろ姿をじっと見つめている。
そこには先程と同じ、深い憐れみが浮かんでいた。
自分を抱き締めている腕に触れると、細いながらに逞(たくま)しい身体が大袈裟に跳ね上がる。
「すまない。幽谷。苦しかったか?」
「いえ……」
夏侯惇は腕を解き、幽谷の頭をややぎこちなく撫でた。
表情に微かな不安が滲む顔をじっと見つめていると、幽谷は胸が締め付けられるような息苦しさを覚える。
「あの……」
「あの娘の言ったことは気にするな。人が前世を覚えている訳がない」
幽谷を安心させたかったのだろう。
言いながら浮かべた笑みは、しかし、引き攣(つ)り、微かな不安が滲んでいた。
それが、幽谷の胸をざわつかせる。
‡‡‡
『あんたは人間でしょう? 人間と獣人が結ばれる訳がないのよ。不幸にしかならない』
恋人の幼馴染みである狐の獣人の娘が、幽谷に必死に訴える。
『あたしは、あの人が辛い目に遭うのが嫌なの。だから、あの人のことは諦めて。あの人をあたし達のもとに返して』
今にも泣きそうな彼女を見つめながら、幽谷は思う。
嗚呼、彼女もあの人のことを愛しているんだわ。
だから異種族の恋に危機感を感じ、何としても彼を守ろうとしている。
それは私も分かっている。
人間と獣人は、相容れない存在。
私と彼の関係は決して許されるものではない。
このまま別れた方がお互いの為。私も彼も分かっている。
だけど――――もう、私は彼から離れられない。
離れたら私は自ら命を手放すだろう。それくらい、私はあの人を愛している。
彼への想いを守る為に何もかもを捨て去ってしまっても、私は後悔しない。
最上の幸せを、私は彼を愛することで知ったのだから。
私の覚悟の証が今、私の中に確かに息づいている。
言葉を返さず首を横に振り、ゆっくりと己の腹を押さえる。
小さく、謝罪した。
娘ははっと息を呑んだ。
『まさか……!』
『あの人の子がここにいるのです。……ですからもう、私は後戻りしません』
娘が青ざめ、よろめいた。幽谷をぎらついた目で睨む。激しい憎悪と、切なくなる程の羨望が、潤んだ瞳にの奥で揺れている。
幽谷は視線を地面に落とした。
『待ってよ……ちょっと……獣人と人間の間に子供なんて出来る訳がないでしょう……? 信じない。あたしは絶対に信じないわよ……』
『私も驚きました。ですが、本当のことなのです』
『別の男と寝たんでしょう?』
『いいえ。私の身体は、あの人だけのもの。あの人にそう誓いました。私は全てを捨ててでも、あの人と共に生きていきます』
『嘘よ……』娘は頭を抱えゆるゆるとかぶりを振る。
『嘘ではありません』
『いいえ。嘘よ。嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘絶対に嘘!! あの人に言ってやる! 他の男と寝たって言ってやる!』
娘は泣きながら怒鳴り、走り去る。
幽谷は、その背に小さく謝罪するしかなかった。
これは、恋人と逃げるひと月前の出来事である。
‡‡‡
いつもと違う夢だ。
恋人と逃げる前の夢。
まるでただの夢ではないと示すかのように、突然変わった。
それに今回の夢は、感覚がいやにリアルだった。
夢なのに、自分の中に息づく存在の脈動が確かに感じられた。今までより強い、我が身に起こったような現実感があった。
その為、目覚めた幽谷はまず自身の腹へ意識を集中させた。現実の自分に、そんな感覚が全く無いことに心底安堵した。
「この夢は……」
胸を押さえた幽谷の脳裏に、閃光が走った。
刹那、数えきれない程大量の光景が、怒濤のように押し寄せた。
見たことも聞いたことも触ったことも無い筈のそれら全てに、はっきりとした既視感を覚えた。
あまりに情報量が多く、流れ込む勢いに恐怖した幽谷は引き攣った悲鳴を漏らす。
止めて――――誰に向けてか、呟く。
両手で顔を覆い拒むように首をゆるゆる振った。
違う。
これは夢だ。
まだ目覚めていないのだ。
夢。
これは夢――――。
「――――じゃない」
口が、勝手に動いた。
夢じゃない。
夢じゃない。
ならば、あれは何?
私の『前世の記憶』だ。
どうして分かるの。
今まで分からなかったじゃないか。
……そうだ。
きっと、あの子に出会ってしまったからだ。
幽谷は意外にも冷静に分析する。
光景と共に押し寄せて来たあの人への想い、あの子への罪悪感――――でも、それらは全て前世の自分のもの。私のものではない。
私は狐の獣人の幽谷。夏侯惇様に保護されて、この地に安住出来た獣人の女。
あの子は、前世の自分に自分を奪われると言った。
でも前世の記憶を全て得た今、不思議とそうなる気がしない。
前世の自分が生まれてから死ぬまで何をしてきたか覚えていても、私は彼女ではなく幽谷だとはっきり言える。
彼女と私は全くの別人。前世とはただ魂が同じというだけ。人種も違うし、育った環境も違うのだから性格だって異なる。
幽谷と前世の彼女ではあまりに違いがありすぎる。むしろこんな自分と一緒にしたら、彼女に失礼にあたる。
でも、夏侯惇が寝言で前世の名前を呼んだのを私は喜んだ。もっと呼んで欲しいと願った。
あの時はきっと、夏侯惇も幽谷のように前世の夢を見ていたのだと思う。
夏侯惇に自分と同じ現象が起きていることが、自分は嬉しかったのではないだろうか。
何故、それを喜ばしいと思ったのかは分からないが……。
そうだとするなら、彼も前世の記憶を持っていることになる。幽谷を保護してくれたのも、その縁があってのことなのかもしれない。
幽谷は、久し振りに朝らしい爽やかな心地で身支度を整えた。
部屋を出ると夏侯惇が朝食の用意を終えていた。謝罪し、席に着いた幽谷の顔色を見て驚いた。
「今日は顔色が良いようだな。夢を見なかったのか?」
「いえ。夢は見ましたが、先程その正体が分かってすっきりしています」
「今日は覚えていたのか」
幽谷の嘘を信じたままの夏侯惇に、幽谷は全てを話すべきか一瞬悩んだ。
「ただ前世の記憶を覗いていただけのようで――――」
ガシャン。
夏侯惇の手から、食器が落ちた。幸い机上に落下したそれは破損も無く無事だった。
目を丸くする幽谷を凝視する夏侯惇の顔色がみるみる青ざめていく。
「思い出したのか?」
動揺をあらわにする彼の声は、震えている。
思わぬ反応である。
この態度から彼もやはり記憶があるのだと確信したが、その動揺振りには驚いた。
「どう、されたのですか?」
「い、いや……何でもない。それよりも、質問の答えはどうなんだ」
「はい。全て思い出しました」
ふらり。
夏侯惇がよろめくように椅子に座る。
頭を抱えてしまった彼のただならぬ様子に、幽谷も戸惑った。
「あの……」
「思い出したのなら、俺が何者か分かってしまったのだろう」
「前世では恋人でしたね。その縁もあって、私はこうしてこの森で平穏に暮らせているのでしょう。今の私達と人種が入れ代わっているというのは、前世の結末を思えば不謹慎かと思われるでしょうが、少し面白いです」
すらすらと答える幽谷の様子を窺う夏侯惇は、警戒の色を滲ませつつ恐る恐る問いを重ねた。
「それ以外に、何か思うことは無いのか?」
「特には何も……あ」
答えて、察した。
「もし、私が彼女のように前世に引きずられてしまうのではないかと危惧されていらっしゃるのなら、それは杞憂です。前世の女性は、魂は同じなのでしょうが、私と同じにしてしまっては失礼にあたる程の方です。前世の感情に引きずられて恩人である夏侯惇様にご迷惑をおかけすることはありません」
夏侯惇様に迷惑をかけて、今の関係を壊したくない。
心の中で、もう一度繰り返す。
幽谷は家の中をぐるりと見渡した。
この家にある家具は、ほとんどが二人分。幽谷と夏侯惇の分だ。
この地に暮らし始めてだいぶ経つ。
いつの間にか、同じ屋根の下で暮らしているのが当たり前になっている生活が、申し訳なく、またむず痒く
感じられる。
けれど、長らく女という道具として扱われた幽谷にとって、誰かと共に過ごす穏やかで温かな暮らしは決して嫌ではない。
昔は、こんな生活を望むことすら思いつかなかった。縁遠いものだった。
あの娘のように前世の記憶に塗り潰され夏侯惇に迷惑をかける時。
それはすなわち、この穏やかなかけがえのない暮らしも壊れる時だ。
今の生活は、とえも心地良い。
絶対に壊したくない。
壊してしまったらきっと二度と得られない。
どうやら素晴らしいもの程、一度得ると手放しがたくなるものらしい。
案外、今朝は無意識のうちにこの心理も働いていたのかもしれないと、今更気付いた。
顔を、夏侯惇へ戻す。
「……私は今の生活を手放したくありません。ですから、前世の自分だという女性が別人にしか思えない他に、平穏な今を壊しかねないなら前世のことなどどうでも良い、というのもあるのだと思います」
夏侯惇は軽く目を瞠る。
「今の生活を気に入っているのか?」
「はい。夏侯惇様に保護していただく前は、自分にこんな生活が送れる日が来ると思いもしませんでしたから。望むことすら考えが及びませんでした」
当時の自分が見たら、どう思うか。
きっと、同姓同名のそっくりな別人だ、自分じゃないと思うのだろう。
それくらい、あの頃の幽谷に救いなど無かった。
夏侯惇に出会って、彼から恵んでもらえたのだ。
前世の記憶を無念だと思う。孕んだ子供共々殺された彼女を憐れに思う。
それだけだ。前世といえど、言葉は悪いがとうに終わった他人事でしかないのだ。
幽谷の様子に、夏侯惇は安堵したらしい。
肩を少し下げ長々と溜息をつく。
ややあって、薄く笑んだ。
「そうか……それなら良い」
「ところで、夏侯惇様はいつ、前世の記憶を?」
「お前に一目で惚れた直後だった」
「……」
……。
聞き間違いだろうか。
「今……何と?」
「お前に惚れた直後、前世の記憶が俺の頭に流れ込んできた」
思い出すよりも、お前に惚れたのが先だ。
そこを、彼は強調する。
幽谷は反応に困った。
惚れた……私に?
何と言葉を返して良いのか分からない。
だが、自分に向けられていた視線の正体がこれで分かった。
あれは、そういうことだったのか……。
幽谷は黙って腰を上げた。
逃げる態勢になった彼女を制するように、「言っておくが」と夏侯惇。
「惚れたと言っても、お前と想いを通わせたいとは思っていない。そこまでは望まん。惚れたお前を守りたいというのは、俺自身の自己満足で完結させている。見返りを求めてやっていない」
「……そうなのですか?」
「ああ。だから俺に恩返しで無理に応えようなどとは考えもするな。ただ、前世の記憶に引きずられてお前と共に行くと決めたのではなく、俺自身がお前を守りたいと思ったからだと、それを分かってくれさえすれば良い」
幽谷はぎこちなく頷いた。
だが……どうしてか、彼の言葉をちょっと残念に思う自分がいるのに、戸惑う。
内心首を傾げつつ、夏侯惇に促されるままに食事に手を伸ばした。
と、夏侯惇がふと、
「……あの村娘のことだが」
「あ、はい」
「彼女の言っていることはほとんど嘘だ」
「え……嘘っ?」
幽谷は瞠目する。
夏侯惇は頷いた。
曰く、彼女は間違いなく前世で人間の娘と愛し合った狐の獣人を愛していた彼と同族の娘。
だが彼女自身も夏侯惇と幽谷のように自分と切り離していて、昨日語ったことの大半は彼女が自分の為についた大嘘なのだそう。
何故そんな嘘をついたのか。
その理由は彼女が患う病にある。
元々、都でも有名な舞台女優だった彼女は、肺に大病を患った。婚約者の勧めもあって二人で故郷に戻り、療養していたという。
しかし、病は治る兆しを見せず。
婚約者に連れられて国一番の医者に診てもらったところ、治療法がまだどの国にも無いと言われ、得られたのは余命幾何(いくばく)も無しという不穏で不確かな情報のみ。
娘自身は何となく察しはついていたから、余命を宣告されても落胆も動揺もしなかったという。
自分の身よりも、絶対に諦めないと宣言した婚約者の将来が心配だった。
人が良すぎる婚約者は現在も娘の為にあちこち奔走して治療法を探し回っている。
騙されたこともあるらしい。
怪我をして帰ってきたこともあったらしい。
自分の為にいつか取り返しのつかない目に遭ってしまうと胸を痛めていたところに、幽谷達が近くの森へ移住して来た。
娘は夏侯惇が自分を見て驚いたことから二人共自分と同じく記憶を持っていると思い、夏侯惇に協力して欲しいと密かに、必死に頼み込んだそうだ。
前世の記憶について、娘は婚約者に話していた。
婚約者の目がある時にだけ、夏侯惇に言い寄っているフリをして彼が諦めるように仕向けた。
幽谷が見たのは、そういう場面だったらしい。
「そんな事情が……ですが、あの耳の傷痕は……?」
「あれは去年、婚約者がいない間に事故に遭って切り落としたそうだ」
それを上手く利用して、あの迫真の演技を……。
昨日のことを思い出し舌を巻いた。
演技だとは全く分からなかった。演技と言われても、俄には信じられないくらい。
都に知れ渡る女優ともなれば、あれくらい容易いのか。
いや、きっとそれだけ彼女が必死だったのだ。
「……役者とは、凄いのですね……」
素直な感想を漏らすと夏侯惇が小さく笑った。
「でもそれを私に話しても良いのですか?」
「彼女は話を通して欲しいと言っていたが、お前が記憶を取り戻すことの無いように俺が黙っていた。だが、それももう必要無い。お前は思い出してしまったし、二人に光明も差したからな」
「光明?」
「知り合いに腕の良い医者がいる。診療所も持たず、いつも何処にいるか分からん奴だ。いつも飄々として胡散臭いが、腕はこの国どころか大陸一だ。そいつとようやく連絡が取れた。幸い隣国にいるらしくすぐに来るそうだ。あいつの腕なら治療の目処はたつだろう。そう、婚約者にも伝えてある」
だからもう彼女の嘘は必要無いと言った夏侯惇は、穏やかな顔だった。
幽谷もほっとした。
「それはようございました」
「解決すれば揃って謝罪に来るだろう。その時、耳を隠す必要はない」
「どうしてです?」
「森の主に認められているのなら、その人に何の問題も無いそうだ。少なくとも彼女はそう言っていたし、婚約者も彼女がそう言うのならと特に気にしていない。二人の前だけでなら耳を晒しても問題無い」
……後で、森の主にお礼を言いに行かなければ。
そう思いつつ、幽谷は頷いた。
そして、二人は食事に戻る。
「幽谷」
「はい」
「心配するな。お前の暮らしは俺が守る。ずっとだ」
「……ありがとうございます」
夏侯惇は、目を細めて頷いた。
○●○
取り敢えず浮かんだネタを注ぎ込んだ結果、起承転結を無視した話になりました。
夏侯惇の知り合いの医者というのは言わずもがな本編で出まくってる仙人です。
夏侯惇が制限をかけたのは夢主に前世の記憶を取り戻すきっかけを与えない為。彼はずっと自分を前世の恋人と認識されたくなくて取り戻させまいとしていました。前世に引きずられて想われるのは嫌なので。
娘が夢主に接触したのは協力してくれることに対しての感謝と、迷惑をかけている謝罪の為です。ところが体調を心配して追いかけてきていたのに気付き、慌てて演技をしたという流れです。根が良い人なので、慌てていたあまりに乱暴になってしまったことを、心の中では物凄く申し訳なく思っています。
多分、かなりの勢いで夢主に謝罪しまくるんだろうなと。
ちなみに婚約者は、娘の演技を全部見抜いています。夏侯惇もそれを知っているので医者を紹介したのでした。
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