夏候惇





 夢を、見る。
 とても不思議な夢だ。

 夢の中では私は人間で、獣人の男性と何かから逃げている。
 宛など無い。何処に行くか考える暇すら無かった。
 追っ手を撒く為に、ただただひたすらに人の通らぬ悪路を逃げた。

 決まって男性に手を引かれ森の中を走っている場面から夢は始まる。
 そして――――。


『××××。大陸を出よう。別の大陸ではまだ獣人への差別は無いらしい』

『はい。○○○○。あなたと生きていけるのなら、どのような場所であろうと参りましょう』


 二人で笑みを交わした直後――――私は倒れるのだ。

 その時、世界の全ての動きが遅くなった。
 夢である為、痛みは無い。
 男性に手を握られたまま地面に倒れる自分。
 自分も、男性も、何が起きたのかすぐには分からなかった。

 地面に腕を突っ張って上体を起こし、やっと自分の腰が真っ赤に染まっているのを見た。
 赤の中心にナイフが深々と刺さっていた。

 ややあって周りの茂みが揺れ、黒装束の人間達が大勢躍り出た。彼らは素早く私達を取り囲む。

 男性は一人、私を庇いながら彼らを迎え撃つ。一人ひとり確実に息の根を止めていくうち、身動き出来ぬ私から敵を離そうと更に鬱蒼と生い茂る森の奥へ引きつけた。


 でも、私は死んだ。


 誰もいなくなった後、一人の獣人の娘が現れた。私と同じ歳くらいの若い娘だった。
 夢の中の私は、彼女を知っていた。

 彼女は、あの男性を――――だから私は彼女に殺された。

 そして、そこで夢は終わるのだ。


「また、この夢……」


 外で、鳥がさえずり朝の訪れを報せる。
 幽谷は頭を押さえながら身を起こした。

 ここ最近、毎日のように夢を見る。
 死んでいく人間の娘が自分になっているなんて、凄く不吉だ。
 それにその男性が夏侯惇に似ていたのも、好きで見ている訳ではないのだけれど、何だか申し訳なくなる。


「何なのかしら……」


 何かの暗示?
 だとしても何を示しているのか幽谷には皆目見当もつかない。

 毎日消化しきれないもやもやしたものを抱え、幽谷はあまり気分のよろしくない朝を迎える。


「おはようございます」

「ああ」


 寝室を出ると、すでに出かける支度をしていた夏侯惇が幽谷の顔を見て眉根を寄せる。手にしていた鎌や皮袋を机に置き幽谷へ歩み寄ってくる。


「今朝も顔色が悪いな」

「あ……」


 額に手を当てられる。


「また、夢見が悪かったのか?」

「……はい」


 夏侯惇には、起きると忘れてしまうのにすっきりしない夢を見ていると言ってある。
 連日見ている幽谷のことを夏侯惇は案じてくれている。覚えていたら、内容を訊かれるに決まっている。だから、覚えていないと嘘をついた。

 どうして彼に、あんな不吉な夢を話せようか。獣人の男性にそっくりで、人間になっている自分が殺される夢だなんて口が裂けても言えない。


「本当に心当たりが無いのか?」

「心当たりと言われても……どんな夢なのか覚えていないので、何が繋がっているのか分からないんです」

「少しも覚えていないのか?」

「はい。なのに、消化しきれないもやみたいなものだけが胸に残っていて……」


 夏侯惇は暫し思案し、渋面を作る。溜息をついた。


「やはり、夢の内容が分からないことにはどうも出来ないか」

「はい……」


 頭を撫でられ、椅子に座らされる。
 そこには簡単な朝食が並べられていた。
 夢を見るようになってから朝が遅くなってしまった幽谷を気遣って夏侯惇が朝食を担当している。料理など初めてで、最初こそ失敗が続いていたものの、数日経てば食べれる程度にまで腕が上達した。

 幽谷が食事に手をつけるのを視認し、夏候惇は山菜を採りに家を出た。

 幽谷も食事を終え片付けを済ませると空を確認してから桶を持って外出する。夏候惇は不要と言うが、幽谷も生活の為にやるべきことをやりたい。
 沢蟹や魚を獲ることは出来るので、と晴れの日には近くの川へ出掛ける。

 山菜ばかりでは筋肉もろくにつかないとは夏候惇の方が分かっている。
 だから、夏候惇が十日に一度近くの村に行って野兎の肉を山菜と交換してくる。
 村人は皆、先月の始めに村長の頭を悩ませていた山賊を討った夏候惇に対し恩を感じており、非常に友好的だ。肉以外にも色々な食材を貰ってくることもあるし、わざわざ家まで運んできてくれることもあった。ただ、後者の場合幽谷は急いで身を隠さなければならない為、ちょっと困る。

 いつもの場所で桶に水を汲みつつ川面を見下ろし魚を確認する。

 桶を縁に置き、慎重に川に入り、一匹の魚に狙いを定めた。
 川の流れにゆらゆら揺れる銀をじいと睨み――――。


「――――はっ」


 魚を下から掬い上げ川原へ放る。
 びたんと岩の上に落ち、びちびち跳ねる魚を桶に入れる。
 もう一匹も同様に川原へ上げ、本日の食料確保は完了である。

 今日はいつもより上手く獲れて少しだけ気分が良くなった。

 しかし、折角浮上した気分も、家に帰ると一気に暴落してしまうのである。


「あ……!」


 家が見えて来、幽谷は扉の前に立つ女性の姿を認め咄嗟に姿を隠した。

 あの人……まただわ。
 肩の辺りで綺麗に切り揃えた濃紺の髪に、垂れ目の下に泣き黒子、意思の硬さを表すかのように真一文字に引き結ばれた唇。
 流通の限られた村の中で試行錯誤して整えた上品な化粧と清楚な身なりは、想いを寄せる異性の為。

 熱のこもった強い眼差しで周りを見渡す彼女を物影からじっと見つめ、幽谷は目を細めた。
 ざわり。胸がざわめく。

 近くの村から足繁く通ってくるあの女性の名を、幽谷は知らない。耳を隠して何度か顔を合わせたことはあるものの、彼女は夏侯惇としか口を利かないのだ。幽谷が挨拶をしても耳に入っていないみたいに徹底的に無視される、もしくは夏侯惇の見ていないところで物凄く鋭い敵意のこもった眼光で睨めつけられる。

 幽谷は女性にとって敵。
 何故なら、彼女は夏侯惇に惚れているから。
 夏侯惇と結ばれたい彼女としては、幽谷は排除したい邪魔な存在なのである。

 危機感を覚える程の強烈な敵意を向けられる側としては、正直相対するのは遠慮したい。
 しかも今は耳を隠していない状態。この姿で見つかると非常に厄介だ――――。

 この場を離れようとした幽谷の視界端から、夏侯惇が家に向かって歩いてきた。

 「夏侯惇様!」女性の歓喜に弾んだ、それでいて媚びるように甘い声が聞こえた。
 彼女は驚く夏侯惇に飛びつき、腰に腕を回して密着する。

 夏侯惇が目に見えて狼狽(うろた)えた。彼の顔が赤いのがここからでも分かる。

 ざわり。再び胸がざわめく。
 自然と足が前に出、はっと動きを止める。

 幽谷はもう一度夏侯惇と女性見やり、物言いたげな顔をしてその場から足早に離れた。

 胸がざわつく理由が分からず、朝よりもずっとずっともやもやした。



‡‡‡




「……あの、村に戻られなかったのですか?」


 幽谷は、嫌な予感を覚えながら問いかけた。

 夏侯惇と同居する小さな家屋。
 部屋数を見ても住めるのは二人が限度であるの明確な屋内に、何故か女性がいる。しかも夏侯惇に腕を絡ませて。

 窓からは橙色の日光が差し込んでいる。村へ戻るには遅すぎる。
 となるともう、ここに泊まるしか無いのだけれど……。

 夏侯惇を見やると、彼も疲れ切った顔をして脱力していた。心なし、苛立っているようにも思える。

 幽谷の視線に気付いた夏侯惇は、小さく謝罪した。


「何度も、暗くなる前に帰れと言ったんだが……」

「あたしは今日はここに泊まります。ですから、あなたの部屋を借りますね」


 言外にお前は出て行けと言いながら、実に堂々としたものである。
 感心も呆れも怒りも通り越して、幽谷は無表情になる。

 これに焦ったのは夏侯惇である。


「待て。使うならば俺の部屋にしろ。俺が床に寝れば良い」

「そんな! 夏侯惇様を床に寝かせる訳にはいきません! あなたもそう思いますよね?」


 視線を向けられるが、これは同意を求めるものではない。幽谷に強要するものであった。

 幽谷は溜息をついた。


「……分かりました」

「幽谷!」


 お前が気遣う必要は無いと、夏侯惇は言ってくれた。
 しかし、こちらに強い敵意を剥き出しにする彼女と同じ屋根の下で一晩過ごせる気力は無い。それに加えて、彼女のことだ、きっと幽谷の目も憚らず夏侯惇に積極的に迫っていくに決まっている。

 胸焼けに似た不快感を覚えつつ、幽谷は夏侯惇が何かを言う前に頭を下げて足早に家を出た。

 己は獣人。この緑の生い茂る場所の何処ででも眠れる。
 手頃な大木のうろを見つけ、誰もいないことを確認、中へ入った。
 うろの中は存外広い。女にしては長身の幽谷が座ってももう一人分の余裕があった。

 幽谷は苔むした地面に身体を横たえ、目を伏せる。

 今宵もきっと、あの夢を見るだろう。
 暗鬱としたもやもやを抱えたまま、眠った。

――――案の定、同じ夢を見た。
 けれど、同じだのに何かが違う。
 それに気付いたのは、己の死の直前であった。

 嗚呼、なんてこと……。

 獣人の娘に殺される。
 ナイフで心臓を貫かれて。
 それは同じ。

 違うことは一つ。

 ぼんやりともやに包まれているかのようだった獣人の娘の顔が、はっきりと見えた。
 夏候惇に想いを寄せる、村娘の顔だった。

 ……でも。

 人間の女(わたし)の手を引く夏候惇様そっくりの獣人の男、そして今まさに私の胸にナイフを刺した、あの娘と瓜二つの顔を持つ獣人の娘。
 夢の全てが、しっくり来る。


『どうしてあんたなのよ』

『どうしてあんたがあの人の心を……』

『本来あの人の隣にいるべきなのはあたしだったのよ』

『あんたが現れなければあたしが彼と結ばれていた筈』

『あんたがあの人の前に現れたから全てが壊れたんだわ』


 ぶつぶつと、しかしはっきりと聞き取れる恨み言。
 それだけでも彼女が如何に彼を愛していたか分かる。

 だけど、私だってそう。
 私もあの人と共に生きていきたいのよ。
 あなたと同じ。
 あの人を愛しているから。

 人種なんて関係ない。

 自分の心に従うことの何が悪い?
 己の頭で選択するのは、自由で、恐ろしい。
 あの人に会うまで知らなかった。
 今はそんな不安定な感覚も愛おしい。

 彼を想い、この幸せを振り返り、微笑みを浮かべる。

 途端、獣人の娘は金切り声を上げてナイフを引き抜き、何度も何度も身体を刺した。
 泣き叫ぶ彼女を見上げながら、息絶えた。

 夢が、終わる。
 いつものように寝覚めの悪い朝が来る――――。



‡‡‡




「……え……?」
 目を開けてまず目に入ったのは、人の顔である。
 見慣れた男性の――――夏候惇の寝顔。

 幽谷は固まった。
 どうして私、夏候惇殿に添い寝を……?

 大木の根本に出来たうろの中で寝た筈。
 土や苔の匂いに混じって獣の匂いがするから、家に連れ戻されたのではないらしい。
 さりとてあのうろの中でもない。迂路には獣の匂いは残っていたが、今ほど強いものではなかった。
 身を起こして周りの様子を確認しようにも、夏侯惇の腕が幽谷の身体を寝ているとは思えない力で拘束している。

 意外なことに、夏侯惇は抱き枕がないと眠れないらしい。

 二人で旅をしていた頃は野宿が多かったが、街に寄って携帯食料や燃料などを補給する際には宿を利用していた。
 二人用の部屋をあてがわれることもあり、並んだベッドに寝ていると何故か夏侯惇に抱き枕にされていたこともごく稀にあった。

 今の家に住み着いてからは部屋を分けていたから、この目覚めは少し懐かしい。

 夏侯惇は目覚めるまで抱き枕を放さない。
 暫くこのままで、彼が起きるのを待っていよう。
 幽谷は前のように、静かに目を伏せ、夏侯惇の微かな寝息を聞きながら彼の目覚めを待つことにした。

 だが。


「ん……」


 夏侯惇の口から、掠れた声が漏れた。
 起きるのかと思いきや、目は未だに伏せられている。
 どうやら寝言のようだ。

 目を開けた幽谷は、苦笑を浮かべた。

 と、寝言が再び漏れる。


「……×、××、×」


 目を剥いた。
 今の、は。

 夢の中の、自分の名前――――。

 どくり。心臓が跳ね上がった。
 それだけではない。どくどくと早鐘を打ち、体温が急速に上昇していく。

 その名前は自分を示すものではない。
 私は幽谷。

 なのに――――どうして。


 どうして、私は喜んでいるのだろう?


 疑問の答えは出なかった。

 その前に、夏侯惇が文字通り跳ね起きたからだ。

 幽谷を突き飛ばすように放して起き上がった彼は、すぐに幽谷に気付いて青ざめた。
 謝罪し幽谷の身体を起こす。


「怪我は無いかっ?」

「はい。大丈夫です」


 地面にぶつけた肩が少し痛いが、それだけだ。手当てせずともすぐに治るだろう。
 幽谷は心配は無いと彼を宥めて、ひとまず状況を確認することにした。


「ところで、どうしてあなたがここに? それに、私は大木のうろの中で寝ていた筈ですが」


 ぐるりと見渡したところ、なだらかな斜面は苔に覆われ、上には大木の枝葉が天井を作るように広がっている。
 斜面の下には小さな泉があり、宝石を散りばめたように朝日を反射して揺れる水面に水生の植物が青い花を咲かせている。

 幽谷と夏侯惇が寝ていた場所はやや凹んでおり、どうやら誰かの寝床だったらしい。


「ああ、それは……森の主がな」


 曰く、幽谷が出て行ってから夏侯惇は村娘を引き剥がし自身の部屋に案内してからもしつこく絡まれたものの、何とか振り解いて幽谷を探しに家を出た。
 とは言え幽谷が何処に行ったのか、方角すら分からない。
 そんな彼の前に、森の主である雄鹿が現れ、幽谷が眠るうろまで案内してくれたという。
 それから雄鹿の厚意で彼の塒(ねぐら)に寝かせてもらったと、そういうことだったらしい。

 もう一度周りを見渡すも、あの逞(たくま)しく神々しい姿は何処にも見られない。
 食事か、日課の森の巡回に出たのかもしれない。

 夏侯惇も見回し、思案する。


「もう一度礼を言っておきたかったが……次会った時にしよう。幽谷。家に戻るぞ」

「はい」


 頷き、幽谷はそう言えばと思い出したように問いかけた。


「何か悪い夢でも見たのですか?」


 夏侯惇の肩が小さく跳ねた。


「……そうだな。出来れば見たくない夢だった」

「どのような夢か訊いても?」


 返答は、少し遅れた。


「……とある男が、命よりも大切なものを失う夢だ」


 幽谷の心臓が、また跳ねた。


「大切な、もの……ですか」

「ああ。二度と見たくないのに、たまに見てしまう」


 夏侯惇は幽谷をじっと見つめ、その頬を撫でた。
 幽谷も夏侯惇を見返す。

 彼の手が背中に回り抱き寄せられるのに、身を委ねた。

 ……もう一度、さっきの名前で呼んで欲しかった。
 もう一度呼んでもらえたら、何かが分かりそうな、そんな気がする。

 この森に住み着く前には彼の欲を孕んだ眼差しを避けていた幽谷。
 それが今、まるで恋人にするように抱き締められているにも拘(かか)わらず、幽谷は大人しくされるがまま。

 そんな幽谷を、夏侯惇は熱のこもった眼差しで見下ろしている。目を細め、艶めく黒髪に唇を落とす。


「幽谷」


 嗚呼、違う。
 これが私の名前だけれど、呼んで欲しいのは別の名前。
 不満を感じつつ顔を上げると、夏候惇が顔を寄せてくる。

 幽谷は、夏候惇の目をじいっと見つめた。

 と、その時だ。

 近くの茂みから子兎が飛び出してきた。

 幽谷ははっとして夏候惇を押し退けた。腕から抜け、寄ってきた子兎を抱き上げる。
 子兎を撫でてやりながら夏候惇を振り返ると、彼は未だに鋭くも甘い熱を孕んだ眼光を向けている。

 くらり。軽い眩暈がした。

 夏候惇は、目を逸らす。


「帰ろう。家の様子も気がかりだ」

「あ、は、はい……」


 子兎を下ろすと、袖に噛みついて甘えてくる。
 愛くるしい姿にほだされかけた幽谷であったが、夏候惇に促され、後ろ髪を引かれつつ森の主の塒を出た。

 獣道を進んでいくと、不意に足を止める夏候惇。


「幽谷」

「? はい」


 夏候惇は振り返らずに言う。


「幽谷。お前は俺が守り抜く。何からも、必ず」


 強い口調だった。
 幽谷の名を言いつつ、幽谷というより自分に言い聞かせているようだ。
 怪訝に思って名を呼べば、彼は謝罪して歩き出す。

 その背が、真意を質(ただ)すなと訴えているように思え、幽谷は何も言えなかった。



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 思ったよりも長くなりそうなので、この辺で区切ります。



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