夏候惇と周瑜
※現代
幽谷が、中途半端ながら前世の記憶を持っているとはっきりと自覚したのは、小学生に上がってようやっとのことであった。
それまで、幽谷は本気で自分が狐狸一族(フーリ)という神の血を引いた半獣だと思い込んでいて、周りにもそのつもりで対していた。
それがどんなに不気味だったか、幼い彼女には分からなかった。
人よりも早く立ち上がり、言葉を覚えた幽谷を英才と喜んだ両親も親族も、奇妙な言動を繰り返す幽谷に接するうち、見る目が年々変わっていった。
愛でるそれから、厭うそれへ――――。
それによって自身が異常であると自覚してからは、そういった言動を自制し、前世の記憶のことを胸の奥に秘めることとした。
結果、幼い割に頭が良すぎた彼女の想像力が暴走しただけだったと大人達は安心し、再び幽谷に親として惜しみなく愛情を注いでくれるようになった。
やがて、隠しておくことが当たり前となり、高校に上がる頃には幽谷自身、あれは前世の記憶なのではない、幼さ故に想像と現実の区別が付けられなかっただけだと結論づけた。
――――と、よもやそんなことを思い返すことになるとは、全く予想していなかった。
幼い自分の想像の中の登場人物が現実に存在していると、どうして考えられただろう。
会社でミスがあり、納入が納期に間に合わなくなったことを謝罪に取引先を訪れた際、応対した社員を見て驚愕した。平静を装い切れたか、分からない。
思わず呼ぼうとしてすんでのところで呑み込んだ名を、彼は名乗った。
『夏侯惇』と――――。
まさか、あれは幼児の作り話ではなく、本当に前世の記憶だったのか?
そんなことがあって、今、幽谷は思い出すこともほとんどなくなったその内容の全てを、思い返している。
前世での自分は、甘寧という九尾の狐を長とし、同時に母とする狐狸一族に《転生》した。
元は人間だったのだがこの辺は特に曖昧で、その頃は暗殺を生業としており、夏侯惇という男に恋をしていた程度しか残っていない。どうして人間から狐狸一族へ転生したのか、覚えている限りでは分からない。
狐狸一族の屈強な男達――――兄達との戸惑いも幸福感も大きかった暮らしだ。
種族が違いながらも狐狸一族として受け入れられている兄や姉もいた。
赤子から生まれた訳ではなかった幽谷を、末の妹として彼らなりに可愛がってくれた里の暮らしは賑やかで退屈知らずで、心安らいだ。
多忙な毎日に辟易している今になって思い出すと、この平和な空間が少しだけ羨ましくなる。
幽谷が持っている前世の記憶は、その程度。
わけても鮮明なのは人間だった頃の自分が夏侯惇に抱いていた恋情だ。
だからこそ夏侯惇を目にした時、幽谷は強い強い衝撃を受けた。
沸き上がる恋情は過去の幽谷のものであるのに、強まっていくにつれ今の自分のものであるように生々しく感じられる。
彼にもう一度逢いたいと、願うようにまでなってしまった。
されど、今回謝罪した取引相手は本来幽谷の担当ではない。元々の担当は発注ミスが発覚してすぐに体調不良を理由に休み、一週間も出社せぬまま電話一本で退職してしまった。
電話も繋がらず、自宅に行っても不在か居留守を使っているかで反応が無い。
その為、急遽幽谷と先輩社員が謝罪に向かったのだった。
幽谷に関しては見目が飛び抜けて良く、男性相手に受けが良いからという理由だけで選ばれたのだが、当然ながら幽谷は知らない。
そういった事情があった為、取引先に夏侯惇がいるとは実際に会うまで知らなかった。
今後は取引先からの評判が良い先輩社員が担当することに決まっており、幽谷がこの会社に関わることは無い。
一時の夢だったのよね、きっと。
偶然は、そう何度も重ならない。
幽谷は溜息をついた。
そこで、職場の社員の姿がまばらになっていることに気付く。
扉上の壁にかけられた時計を見上げると、就業時間が終わって四十分も経っているではないか。
片付けながら思案していたつもりが、いつの間にか手は止まり、思案に没頭していたらしい。
さして片付けていない机上を見下ろし、幽谷はまた溜息。
でも、暫くすればやはりまた夏候惇のことを考えてしまう。
接点が無いと思うと、逢いたいという気持ちは強まる一方。
いっそ彼の会社に行ってみようかなんて、迷惑なことを思い付いて、すぐに振り払う。
そんなことを考える暇があるなら、与えられた仕事を正確にこなさなければ。
机上を手早く片付けて、足早に職場を後にする。
そんな彼女のもとに、思わぬ僥倖(ぎょうこう)が降ってくる。
幽谷が退社するのを待っていたように、彼は会社の前に立っていた。
「……!」
思わぬ姿に驚き足を止めた幽谷に、退社後に来たらしくスーツ姿の夏侯惇は仏頂面で、大股に近寄った。
「あなたは、○○会社の……夏侯惇さん」
「覚えていてくれたのか……」
夏侯惇の顔が一瞬だけ弛んだが、すぐに元の仏頂面に戻った。
もしかして何か問題でもあったのだろうか?
けれど担当を引き継いだ社員が問題を起こしたとは聞いていない。仕事にそつがない彼がミスをすれば、それだけで社員の間では大きな話になるだろうに。
相手の言葉を怖々と待っていると、夏侯惇は気まずそうに口を歪めた。
少しの間、視線をさまよわせて、やがて意を決したように、幽谷を見据えた。
その強い眼差しに気圧されて一歩退くと、はっとして謝罪した。
「脅かしてしまってすまない。今日は会社のことではなく、個人的にお前に用があって来た」
「わ、私に……ですか?」
夏侯惇は頷いた。
一度深呼吸をすると、頬が急速に紅潮していく。
えっとなって首を傾げると、どもりながら、
「良ければ、その……今から、しょ、食事でもどうかと……」
幽谷は目を瞠った。
「食事……わ、私と、ですか?」
「あ、ああ……」
自らを指差して躊躇いがちに確認する。
夏侯惇も、ぎこちなく頷き肯定する。
幽谷は言葉を失った。
驚きよりも、嬉しくて声も出せなかった。
どうして私なんかに……。
たった一度ほんの数時間会話しただけではないか。
幽谷にとっては印象深い人物でも、夏侯惇にとっては仕事上出会う不特定多数の内の一人に過ぎない筈――――。
返事を返せずにいると、夏侯惇の表情が曇った。
「やはり、急なことで不快に思われたか」
嫌がっていると思われたらしい。
我に返った幽谷は慌てて首を横に振った。
「いっ、いいえ! ただ、まさか我が社が御社にご迷惑をかけてしまったのに、誘っていただけると思っていなくて驚いてしまっただけです」
「では、」
「私などでよろしければ、是非」
頭を下げると、夏侯惇から吐息を漏らす音が聞こえた。
見上げた彼は安堵したように、柔和に微笑んでいた。
その初めて見る穏やかさに胸がときめき身体が熱くなる。
「では、行こう」
「はい」
幽谷は、何度も頷いた。
‡‡‡
突然得た幸福のひとときは、とても甘美だった。
身も心もとろけそうになりながら、夏侯惇とお互いのことを話した。
共に過ごす時間を少しでも延ばしたくていつもよりも食事のペースを下げたことは、夏侯惇には秘密である。
会計時にお互いが相手の分を払おうとしてレジの前で少しもたついたが、結局押し切られて夏侯惇が全額支払った。
レストランを出る時の名残惜しさといったらなかった。胸を締め付けられているように苦しくて、まだそんな季節でもないのに寒くて、切なかった。
けれど、一生分の運を尽くした僥倖はまだ終わっていなかった。
夏侯惇はまた幽谷を食事に誘いたいと、連絡先を交換したいと言ってくれたのだ。
これ程の幸せを享受(きょうじゅ)して本当に良いのだろうか。
舞い上がりながらも、不安がよぎる。
それでも誘惑には勝てずに、是非にと交換した。
仕事用の携帯ではなく、私用の携帯に夏侯惇の番号を登録する指は、感極まって震えていた。
夏侯惇は家まで送ってくれると言ってくれたが、さすがにこれ以上の幸福は罰が当たってしまうからと辞退させてもらった。
危ないからと携帯でタクシーを呼ぶ彼の背中は、至極寂しげだった頷いたのに胸が締め付けられる思いだった。
夢見心地で帰宅すると、リビングには父の姿は無かった。
代わりに、
「遅かったじゃないか、幽谷」
リビングでくつろいでいる母と見目の良い少年を見下ろし、幽谷は肩を落とした。溜息が出る。
片方の、初老の女性は己の母。
もう片方の少年は名を周瑜と言い、身内ではなく隣の家に住む父の幼馴染夫婦の一人息子である。
幽谷が生まれたばかりの頃から家族ぐるみの付き合いがあるので、こうして周瑜がこちらの家に入り浸ることも珍しくない。
「周瑜……」
また、うちで夕飯を食べたのね。
呆れて呟くと、彼は整った顔に人懐こそうな笑みを浮かべた。
「ご両親には?」
「こっちで食べるって言ってある」
「そう……」
「で、アンタは? 取引先の人と食事に行ったっておばさんが言ってたけど? 男?」
「いいえ、女性です」
咄嗟に嘘をついた。
けれどそれは間違いではないと、周瑜の性格を知る幽谷は思う。
男と答えれば、彼が面倒な行動を起こして夏侯惇に迷惑をかけるかもしれない。
病弱で入院することも多かった両親に代わって面倒を見ていた所為か幽谷に良く懐いている周瑜は、幽谷が自分以外の男と親しくすると、小さい頃こそ機嫌が悪くなって暫く口を利いてくれなくなる程度だったのが、中学生になるとそれだけでは済まなくなった。
幽谷の知らないところで執拗に悪質な嫌がらせを繰り返し、幽谷から離れるように仕向けていたのだ。
周瑜のこの行動に気付いたのは彼が高校に入ってから。
以降は幽谷もなるべく男性との付き合いは必要最低限に抑え、仕事上の付き合いであっても周瑜には悟らせないようにしている。
幽谷が夏侯惇という男に心を寄せていると分かれば、何をするか分からない。
夏侯惇に迷惑をかけない為にも、彼にだけは黙っておかなければ。
そう思っているのだけれど。
「幽谷。あなた、早く良い人を見つけたら? 私やお父さんに似ずに綺麗な顔をしているのに、今まで一度も彼氏なんて作ったこと無いじゃない」
母は、嘆くように言う。
私に浮いた話が無いのは私だけの所為だけではないのだけれど……周瑜のことを話したとて、母は信じまい。
周瑜が裏でそんなことをしていると知っているのは、幽谷だけだ。幽谷が知ったのも、偶然だった。
「大丈夫だって。幽谷が嫁ぎ遅れたらオレがもらってやるから、おばさん」
「そうねえ、助かるわぁ。周瑜君も十分美形だし、二人が結婚してくれるなら産まれてくる子供が楽しみね」
「勝手なことを言わないで。私にも選ぶ権利はあるでしょう」
放っておけば変な想像が好き勝手に膨らんでいく二人を止めると、周瑜の目が一瞬だけ変わった。
その変化を見逃さず、幽谷は着替えると言って部屋へ逃げた。
あの目になった時には言葉に気を付けなければ、周瑜に勘ぐられてしまう。
幽谷は自室の鍵を閉め、長々と溜息をついた。
ベッドに座り、携帯を取り出す。
この時ばかりは携帯を大事に持ち、夏侯惇へお礼のメールを数十分かけて何度も何度も書き直して、ようやっと送った。
登録された夏侯惇の名を見、幽谷は頬を赤らめ微笑んだ。
‡‡‡
幽谷が風呂に入っている隙を狙って、周瑜は彼女の部屋へ入った。
鍵がかかっていたが、リビングの固定電話が置かれた棚の一番下の引き出しに合い鍵があることを彼は知っている。
幽谷が戻ってくる前に済ませてしまおうと大股にベッドに歩み寄った周瑜の目的は、彼女の仕事用とプライベート用それぞれのスマートフォン。
手早くロックを解除し、メールや通話履歴、電話帳などを細かくチェックする。
プライベート用から見慣れない、しかし嫌な覚えのある登録を見つけ、顔が歪んだ。
「夏候惇……」
メールのやり取りを見るに、今日食事に誘ったのはこの男。
……嗚呼。
忌々しい。
舌を打つ。
「……アイツ、《こっち》でも邪魔をするつもりかよ」
低く言う。
今すぐ登録を削除したい衝動を抑え込み、周瑜はスマートフォンを元の場所に戻し、足早に部屋を出る。
階段を降りて何事もなかったようにトイレに行くフリをしながら、頭の中ではすでに幽谷から自分以外の男を排除する算段を練っていた。
アイツには渡さない。
《あっち》でもそうだったのだ。《こっち》でだって、幽谷はオレのものだ。
幽谷に近付くことは絶対に許さない――――。
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