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宮綺が曹操に強引に滞在許可を貰って九日が経った。
関羽は早くも、宮綺と恒浪牙の相性が思いの外良いことを知った。
病弱故に殆(ほとん)ど屋敷から出ること適わず《素敵な物語》、わけても恋愛話に飢えていると言っても過言ではない宮綺と、宮綺に訊かれるとついつい、恥ずかしさで耳を塞ぎたくなるようなのろけ話を――――勿論天仙であることを宮綺は知らないので、それに繋がってしまう部分は嘘に置き換えて――――滔々(とうとう)と話してしまう恒浪牙と。
その二人の嬉々とした会話に、年頃の関羽もどうしても惹かれ、気付けば聞き入ってしまっている。
恒浪牙の愛妻がどんな人物か、恒浪牙ののろけを聞くうちに段々と分かってきた。
相当おっとりした女性で、人間が生き残る為に持つべき危機感とは縁遠い穏やかな気性らしい。
初めて会った時は医学知識を持った賊の頭領だった恒浪牙を悪者だと警戒こそすれ、それも恒浪牙が医者だと分かった時点で消え去った。恒浪牙が根城にしていた一帯に住まう者達が皆彼の医学に救われて慕っていることを知ると、恒浪牙が将来を不安視する程感動して褒め称えたという。
そんな彼女も医学を修めており、薬の知識は非常に豊富だという。昔は恒浪牙が診察、治療を行い、妻がその為の薬を調合していたそうだ。
彼女のお陰で、自分一人では力不足だった患者も救えた。彼女との出会いには、今でも深く感謝していると恒浪牙はとても優しい顔で言った。
宮綺は彼の話の話を聞いている内は、必ず身体が震えていた。興奮も感動も混ざって頬を赤らめ、まるで恋する乙女のように恒浪牙をじっと見つめていた。実際、恋物語に恋しているのだろう。
それを、宮綺を可愛がっている曹操軍の一部の武将が許す筈がなく。
夏侯惇も夏侯淵も曹操同様結界を通過出来ない為、李典が嫌がる宮綺を強引に連れ出すのが常である。
昨日ものろけ話の間に李典が現れ、宮綺は無理矢理部屋に戻されてしまった。
李典達からどんなにキツく叱られてもめげずに毎日恒浪牙と関羽を訪ねに来る持病持ちの彼女の執念には驚かされる。
だが今日は、持病が悪化したとのことで朝早くから恒浪牙が付きっきりで宮綺の看病をしている。
関羽は恒浪牙がいない間絶対に部屋を出ないこと、誰が結界を抜けて呼び出しても応じないように言われていたが、宮綺とはすでに談笑する仲になっている。
人の良い彼女が、病床の友人にじっとしていられる訳もなく。
少しだけ……急いで宮綺の部屋に行けば大丈夫だろうと、恒浪牙だって何事も無く宮綺の部屋を訪れれば小言程度で済む……と思う。
いつも以上に周りの様子に気を付けるのだと自身に言い聞かせ、関羽はこっそりと部屋を抜け出してしまう。
人の気配を避けながら遠回りをして、本人から聞いた記憶を頼りに宮綺の部屋を目指す。
されど――――。
「う、嘘……っ」
曲がり角を右に曲がった関羽はすぐに引っ込んだ。
額から冷や汗を流して身体を強ばらせた。
どうして、どうして、どうして!?
それは城を彷徨(うろつ)いているからなのだが、そんなこと今の関羽の状態では思いも寄らない。
関羽が曲がった廊下の先には、曹操がいた。
一人、こちらに背を向けて中庭を眺めている。
逃げなければと関羽は胸を押さえてその場から走り去ろうとした。
しかし。
「っ、きゃっ!?」
足がもつれて転倒してしまった。
反射的に出てしまった悲鳴が、曹操の耳に届く。
「そこに誰かいるのか」
「……っ!」
どっと押し寄せる恐怖に、指の先まで硬直する。まるで太い鎖に全身をがんじがらめにされたみたいに身動き出来ない。
かつ、かつ、と靴音がする。
いやに響くそれが、関羽の恐怖を高めていく。
逃げなければ。
逃げなければいけないのに。
今すぐに逃げなければ、曹操に見つかってしまったら、あの悪夢のように――――。
靴音が、止まった。
「……関羽?」
困惑したような声は、関羽にとっては死刑宣告にも等しかった。
ぎちぎちと、油の切れた絡繰りのように首を巡らし、振り返る。
そこに、狂気の悪魔がいる。
「……ひっ」
掠れた悲鳴が漏れる。
それからややあって、曹操が顔を歪めるのと同時に、関羽は金切り声を上げた。
そこからは、殆ど覚えていない。
気が付けば何処かの部屋の扉に寄りかかって座り込み、荒い呼吸を繰り返していた。
何処をどのくらい疾駆してきたのか、肺は痛み、咽から血の味がせり上がってくる。
目の前に誰かがいて、頭を撫でてくれているが、それどころではない。
呼吸を落ち着かせてから、関羽は顔を上げてその誰かを確かめた。
そして、深く深く、安堵。
「こ、こうろうがさん……」
呂律が回らない関羽に、恒浪牙は苦笑を返した。
その細い目が笑っていないのに、曹操に対して抱いたものとは類の違う恐怖を抱いた。
「あ……」
「おかしいですねぇ。私……絶 対 に 部 屋 か ら 出 な い よ う に 言 っ て お い た 筈 な の で す が」
「!」
「なのにどうして外であなたの悲鳴が聞こえて、あなたがこの部屋に飛び込んできたんでしょうねぇ……?」
頭を優しく撫でていた手が、不意に頭皮に爪を立てた。
これは、いけない。
これは小言では済まない。
関羽は汗だくの顔を青ざめさせ、小さく、掠れた声で謝罪した。
恒浪牙の向こうで、李典が呆れ果てた顔でこちらを見ている。
寝台から身を起こしている宮綺も、「あらあら……」と苦笑混じりである。軽く咳き込み、李典に寝ているように咎められた。
そもそも言いつけに背いて部屋を出、曹操に遭遇して錯乱状態になってしまったのが悪い。
関羽は観念して、恒浪牙の長い長い小言を甘んじた。
小言が終わると、恒浪牙に強制的に部屋へ送り返されることとなった。
「では、李典殿。私がいない間、宮綺殿のことをよろしくお願い致します」
「お前に頼まれなくても、」
「りてんさまなら、大丈夫です」
不機嫌そうな李典を遮り、宮綺は少しだけ身を起こして笑い、李典に小言を言われる前に再び横になった。
恒浪牙は宮綺に頷きかけ、李典に一礼して、関羽の襟を掴んで部屋の外へ連れ出した。
関羽は大人しく従いながらも、宮綺の言葉に違和感を覚えた。
『りてんさま』……?
宮綺は、李典のことはそんな風には呼んでいなかったと思う。
わたしの聞き間違いかしら……?
部屋に戻ってから素に戻った恒浪牙から先程よりもずっとずっと怖い説教を受けることになるとも知らず、一人首を傾げていた。
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