諸葛亮


※現代パロ



 天涯孤独の幽谷を引き取ったのは、小さな診療所を営む夫妻だった。

 夫の華佗と、妻の淡華。
 彼らは人ならざるモノを見る色違いの目を恐れた両親に捨てられた幽谷を、実の娘と思って正しく導いてくれた。
 小学校、中学校、高校と、見た目のことで色々と難癖を付けられ教師が介入する問題に発展したこともあったが、それは一部の人間に限ったこと。
 今日に至るまで彼女の交友関係は広すぎず狭すぎず、成人した今でも良好な状態である。

 こんな自分が普通の生活を送れているのは、間違いなく養父母のお陰。
 幼くして長男が病死してしまったと言う夫婦への恩返しとして医者を目指さねばと小学生なりに決めていたものの、二人はそれよりも幽谷が幽谷のやりたいことをしてごく普通の人間として生き、天寿を全うすることを願った。

 故に今、彼女は地元のカフェで働いている。
 カフェ『霊亀』は、華佗の旧友泉沈がオーナーを務める、一風代わったカフェだ。
 コーヒーよりも中国茶の種類が豊富で、更に客が望めば泉沈が無料で占いをする。
 子供の頃は養父母の休日には決まってこのカフェに連れてこられた。中学以降は一人で小遣いを持って訪れていた。幽谷も泉沈とは長い付き合いだ。華佗と同年代とは思えぬ程若作りなのもあって、兄のように慕っていた。
 将来カフェで働きたいと心の奥に閉じ込めていた希望を養父母が尊重してくれたお陰で、彼女は今、『霊亀』で働いていられるのだった。

 『霊亀』は、オーナーの占いが良く当たると評判で、これが目当ての若い女性の客が多い。
 だが、幽谷が勤め出してからは若い男性も増えたように感じる。中国茶がブームになっているのか、最近は男性も占いを好む傾向にあるのか分からないが、『霊亀』を気に入ってくれた客が増えるのは喜ばしいことだ。

 彼らの目当ては占いではなく幽谷なのだが、本人は全く気が付いていない。

 自身の体質が普通でないと理解しているから、恋愛に全く興味を持っていなかった。一生無縁なのだと決めてかかっていた。

 そんな彼女だったから、この日の出来事は、まさに寝耳な水だった。


「……私が、不倫相手……?」


 幽谷が怪訝に眉根を寄せた次の瞬間、痛烈な平手打ちを左頬に食らった。
 意味が分からなかった。

 真昼の営業中の店内でいきなり見知らぬ女性に怒鳴られたかと思えば、身に覚えの無い疑惑をぶつけられ、叩かれた。

 車道側の壁が全面ガラス張りの為、内外問わず衆目を引いている。

 事態の把握が出来ずにいる幽谷に助け船を出してくれたのはオーナーであった。


「申し訳ありませんが、お客様。一旦落ち着いて、詳細をお教え願えますか?」


 泉沈が氷嚢を幽谷の頬に当て、女性に穏やかな笑みを向ける。

 女性はきっと泉沈を睨むが、警察を呼んでも良いのだと伝えると大人しくなった。
 空いた席に案内し正面に泉沈が座り、幽谷は側にいると彼女がまた興奮するので一旦はカウンター席に座るように指示した。

 静かに女性を宥めながら女性から幽谷を夫の不倫相手と決めつけたのか理由を質す。
 だが落ち着いたのは表面上のみで、まだ興奮状態らしい女性の高い声は大きく、店内によく響いた。

 彼女の言い分はこうだ。
 ここ二年、女性の夫が若い女と不倫している。
 相談した弁護士の勧めで興信所に調べてもらったところ、夫が出張や残業と偽ってホテルなどで会っていた相手が幽谷と言う名前だと分かった。女性はカフェ『霊亀』の目の色が左右で違う店員が幽谷だと世間の噂で知っていた為即座にここへ来たらしかった。

 だが、幽谷には身に覚えの無い話だ。

 女性の夫の名前を聞いても、聞き覚えが無い。
 突きつけるつもりで持ってきた興信所の調査報告書を泉沈が許可を貰って目を通す。
 眉間に皺を寄せ、首を傾げた。


「この記述、おかしいですね」

「おかしい? 馬鹿言わないでよ。信用のある興信所に高い金払って調べさせたのよ? おかしい筈がないわ!」

「あなたは報告書をちゃんと最初から最後、添付された写真まで見たのですか?」


 溜息をつき、泉沈は胡乱げに女性を見る。

 終始強気だった女性は当然だと答える――――と思われたが、途端に勢いがしぼみ、視線を逸らした。
 打って変わって弱まった女性に、聞き耳を立てていた周りの客は一層興味津々だった。


「え、あ、私、それは……」

「この写真、何処からどう見ても幽谷ではありませんね。こんなにしっかり顔が写っているのに、どうして気付かなかったのです?」


 泉沈は呆れ果て、声も次第に女性を責めるようにキツくなる。
 幽谷は泉沈に呼ばれた。

 テーブルの横に立つと、写真を見せられる。

 何処かの通りを腕を組んで歩く男女の正面を写した写真である。こんなにも分かりやすい写真を撮れた興信所を、素直に凄いと思った。
 男性は幽谷の年齢の倍はあるだろう。対して女性は同じ程――――否、同じ歳だ。

 男性に無くとも、その女性には見覚えがあった。


「あ……この方、」

「確か、君の知人だったね」

「はい」


 数年経っているが、間違いない。
 彼女は高校の同級、クラスメートだ。
 ただ、それなりに親しくはしていたものの、あくまでもクラスメートとしての域。高校を卒業してからは彼女が県外の大学に進学したことで自然と疎遠になり、つい先月カフェに来店した時に向こうが先に幽谷に気付き少し思い出話をした程度の関係でしかない。連絡先も交換しなかったし、以降彼女がこのカフェに現れることは無かった。

 二年の関係となると、幽谷と再会する以前から勝手に名前を借りていたことになる。
 だから、偶然再会した時に連絡先を交換せず、このカフェに二度と現れなかったのかもしれない。

 女性は顎を落として固まった。

 泉沈は興信所の報告書の文面に視線を戻す。
 幽谷に見えるように傾けられたので、覗き込んだ。
 幽谷の名を使った知人の周辺を調べたものだった。
 泉沈の指がある場所を押さえる。


「現在○○町のアパートに同年代の男(銀行勤務)と同棲……本名も確認されていますね」

「ちゃんと目を通していれば、彼女が別人であることはすぐ分かった筈でしょう」


 写真の中の知人は、幽谷のように色違いの目ではなかった。
 カモフラージュの為に他人の幽谷の名前を借りていたのだろうが、これではあまりにお粗末だ。
 せめて私以外の、地元ではない人間の名前を借りれば良かったものを……。


「あなたがきちんと調査報告書を読んでいればすぐに判明したことです」

「で、でもこの人がこの女に名前を貸さなければこんなことにはならなかったわ!」

「彼女に、自分の名前を貸した覚えはありません。二年前はまだ疎遠でしたし。先月一度だけここでお会いした時も彼女は高校時代の思い出話ばかりで、そんな話は全く……」


 直後、女性の両手がテーブルを叩く。


「あの女と会ったのね!? 何よそれ、やっぱりグルだったんじゃない!」

「グル? いえ、彼女とは連絡先の交換はしておりませんし、以降ここへは一度もおいでになっては……」

「あんた、私を虚仮にするのも大概にしなさいよ! グルだったなら当然、あんたにも慰謝料払ってもらうから!!」

「はあ……」


 グルではないのだけれど……。
 彼女はどうあっても幽谷を不倫の共犯に仕立て上げたいらしい。 

 泉沈が彼女を宥めようと何を言っても慰謝料払え、慰謝料払えと、繰り返し怒鳴る女性に、幽谷は困惑する。

 普段感情を表に出さずに柔和な態度を崩さない泉沈も、さすがに苛立ちが表情に滲み出ている。


「これでは埒が明かない。幽谷。警察を呼ぼう」


 その言葉で女性はますますヒートアップ。
 ならばこっちも弁護士を雇って徹底的に戦って慰謝料を勝ち取るまでだと高々に宣言した。

 本当に、こちらは全く知らぬところで巻き込まれただけで無関係なのに……どんなに言っても彼女は耳を貸さなかった。

 本当に警察を呼ぼうと泉沈が腰を上げた時、折悪く客が入店した。

 スーツ姿の青年である。黒革の鞄を提げ、店内を見渡した後こちらを見て大股に歩み寄ってきた。
 胸に金色のバッジがある。

 弁護士バッジだ。


「失礼」


 無表情に女性に名前を確認し、彼女が頷いたのを視認すると名刺を渡した。


「弁護士の諸葛亮と申します」


 女性は驚いたように諸葛亮を見返した。


「弁護士? 私はまだ弁護士事務所には行っていないけど」

「あなたの夫に依頼されて、あなたをお捜ししておりました」

「あの人が!? どうして!?」

「あなたと離婚をしたいと」


 甲高い声を上げる女性へ、諸葛亮は淡々としたものだ。

 泉沈は席を譲ると幽谷を連れてカウンターに戻る。頬の状態を確認し、まだ氷嚢を当てるように言った。

 諸葛亮は周囲に憚って声を潜めているが、また更に興奮し出した女性によって周りに内容がただ漏れだ。
 夫の浮気で憤慨していたこの女性、長年に渡るモラハラ、DV、結婚前からの不特定多数との不貞行為を理由に離婚と多額の慰謝料を夫から請求されているらしい。
 ただ、夫も現在は関係が解消されているとはいえ不貞行為があったことを認めており、女性の態度次第では慰謝料全額と相殺、財産分与もするつもりだそうだ。

 女性は発狂したように金切り声を上げ口汚く猛抗議した。

 諸葛亮は涼しい顔で受け止め、淡々と言葉を返していく。
 やがて般若の形相となった女性は頭を両手でがりがり掻いて、言葉にならない怒鳴り声を上げながら店を出ていった。

 しん、と店内は静まり返る。

 泉沈は新しくコーヒーを煎れながら苦々しい顔を作った。


「実際はどちらも有責になるようなことをしていた訳だ。彼女の方が酷かったみたいだけれど」

「……そうですね」


 モラハラ、DV、結婚前からの不特定多数との不貞行為……。
 幽谷の名をかたって既婚者と交際していた知人など、あの女性の前では霞んでしまう程だ。
 ……もしかすると、そんな女性であると名乗る前に愚痴か何かで聞かされていて、関係を持った際に自己防衛の為に他者の名前を使ったのかもしれない。

 どちらにしろ、こちらにしてみれば良い迷惑だ。


「この場合、私の件はもう気にしなくて良いのでしょうか」

「うーん。一応僕から封統に相談しておくよ。こういうの専門の弁護士じゃないから難しいと思うけど。何かあったらこちらも彼女に頼んでみよう。幽谷。これをあちらの先生に」


 事態をおさめてくれたお礼にとコーヒーがカウンターに載せられた。
 幽谷は頷き、コーヒーを手にカウンターを離れた。

 女性がテーブルに放置したままの資料を読み始めた諸葛亮の邪魔にならない位置にそっと置くと、無表情に、


「コーヒーなど、頼んでいませんが」

「店からのお礼です」

「私は己の仕事をしただけであって、礼を言われることでは、」

「いえ。彼女がなかなか落ち着いて下さらなくて、とても困っていたので」


 幽谷が去った後、諸葛亮は資料を読みながらコーヒーを飲んだ。
 読み終わると泉沈に名刺を渡し、コーヒーの礼を言って、恐らくは依頼人へ電話を掛けながらカフェを出ていった。

 代金を払う要らないの問答があったが、結局は泉沈がまた利用してくれれば良いと言って収めた。



‡‡‡




 あれから、二ヶ月。


「どーも、泉沈」

「おや。封統ではないですか。珍しいですね」


 黒髪の小柄な女性客がカウンター席に座った。スーツ姿で胸に弁護士バッジをつけている。
 名は封統。同じ施設にいたこともあり、幽谷が小さな頃からずっと姉のように慕っている女性だ。
 実は彼女も幽谷とは違った色違いの目を持っているのだが、カラーコンタクトで黒に統一していた。

 近くに事務所を構えており、仕事の合間を縫って立ち寄ってくれるのだが、最近ある目的を持って幽谷に会いに来るので、正直少々辟易している。


「で、あの話、クソ医者にしてないよね?」

「ですからあの話についてはお断りを……」

「こっちが信用出来る見合い相手を捜したんだ、変な奴じゃないって」


 そう、見合いである。
 恋愛っ気の無い幽谷の将来を心配した淡華が華佗に隠れて封統に相談したことから始まり、自身の大学時代の友人にまともなのがいると見合いを持ちかけてくる。

 幽谷自身は頑なに断っているが淡華が乗り気でなかなか収まらない。

 封統自身は里親と上手くいかなかった頃に心を砕いてくれた淡華への恩義もあり、対して毛嫌いしている華佗への嫌がらせ目的もあり、結構しつこい。
 今日も今日とて頑なに断る幽谷に、写真を持ってきたと見せようとする封統を泉沈が眺める。

 そんな時に、彼は来店した。
 諸葛亮だ。

 諸葛亮は前と同じ弁護士バッジを胸につけたスーツ姿であった。
 若く見目の良い諸葛亮に、店内の女性達の目が一瞬で集まる。

 封統が諸葛亮を見、「あれ」と軽く目を瞠った。


「あいつ……」

「知り合いなんですか?」

「知り合いって言うか……あ」


 諸葛亮は幽谷を見つけると足早に近付いた。

 封統が咄嗟にケーキを食べるフリをして顔を伏せる。
 それを不思議に思いながらも、幽谷は諸葛亮へ頭を下げた。


「いらっしゃいませ。お久し振りです」

「あの件が片付きましたので、そのご報告に。依頼人の希望通りの結果となり、あの女性には今後あなたに接触しないよう注意してありますので、こちらに迷惑がかかることは無いでしょう」

「そうですか……」


 ほっとする。
 幽谷は胸を撫で下ろした。


「彼女を訴えることも出来ますが」

「いえ、それは考えていません」


 あれから、知人も店に来ない。幽谷に接触してこない。
 ずっとこのままならこの件は終わりとするつもりだ。

 「良かったですね」泉沈も安堵の表情だ。


「しかし、あれは相当拗れると思いましたが、意外に早く落ち着いたのですね」

「良識のある方々が働きかけて下さったお陰で。コーヒーを一杯お願い出来ますか」

「畏まりました」


 封統の隣に座ったところで、諸葛亮は彼女に気付く。
 途端に眉間に皺が寄り、


「……封統か」

「……」


 封統は顔を上げ、にやりと口角をつり上げた。
 弁護士なのに、悪者のような笑みである。

 封統は幽谷と諸葛亮を見、写真を幽谷へ見せた。


「これ、お前の見合い相手」

「え……」


 私服姿の諸葛亮が写っている。
 見合いの相手が、諸葛亮さん……。
 途端に気まずさがむくむくと膨れ上がり、写真を取り上げようと手を伸ばすが、封統は席を立って逃げた。


「しっかり《ご縁》があるんじゃん」

「何のことだ」

「僕がセッティングする前に見合い出来てるじゃんってこと」

「見合いだと……」


 諸葛亮ははっとして幽谷を見た。
 青ざめた。


「まさか……」

「僕が言っていた子、幽谷のことだよ。いやあ、手間が省けて有り難い有り難い」


 手で顔を覆う諸葛亮。
 見合いの話は彼にもしてあったようだ。


「専門外だけど兄の友人でどーしても断れない依頼があるから、見合いはその後でってことだったっけ? その件が片付いたんなら見合いしても良いんだろ?」

「違う。受けるということでなく――――」

「ごっめーん、諸葛亮の声小さくて聞こえなーい」


 何とも愉しげな封統である。
 幽谷が彼女を止めようと口を開く前にコーヒー代を投げ渡し、颯爽と店を出ていった。

 慌てて追いかけても、人並みに上手く紛れて逃げられて、すぐに見失ってしまう。

 肩を落として店に戻ると、泉沈がやたら嬉しそうにしている。


「まさか、封統が紹介するつもりだったのは諸葛亮さんだったとは思わなかったな。この人なら華佗も納得するかもしれない」

「店長……少しはこちらの気持ちも汲んでいただけませんか」

「どちらかというと、僕は淡華サイドだからなあ」


 にこやかに言う。

 幽谷は、嘆息した。

 諸葛亮も苛立たしげな顔でコーヒーを睨んでいる。
 恐る恐る謝罪すると、一瞥の後首を横に振られた。


「あなたが謝られることではない。あいつには、私からキツく言っておきます」

「私からも、あの人に断りを入れておきます……」


 母にも、言っておいた方が良いだろう。
 いや、母の前に父に相談しておくべきか。
 こうなることなら早くに父に言っておくべきだったと、後悔した。

 渋い顔をしてまた溜息をつく幽谷へ、泉沈が不思議そうに首を傾げる。


「そんなに嫌な相手かな」


 そんな失礼なことを言っているのではない。
 幽谷は泉沈を睨んだ。


「嫌かどうかの問題ではなく、母の下らない心配から勝手にあれこれと話を進められて、諸葛亮さんに迷惑がかかっているという問題です」

「母親の真剣な心配を下らないと言ってはいけないよ」

「だから……」

「いやあ、良かった良かった。幽谷が婚期を逃して一生独り身なんてことになってしまったらどうしようと思っていたから、ほっとしたよ」

「……」


 眩暈が、した。

 また溜息をつくと、諸葛亮がコーヒーをろくに飲まずに代金を置き「私はこれで」


「またどうぞ」

「……」


 諸葛亮は無言で頭を下げ、店を出ていった。

 幽谷は一人、頭を抱える――――。


「そうだ、相性を占ってみよう」

「止めて下さい」



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 思い付いたネタを勢いに任せた上、中途半端な知識で書いた結果、かなりぐだぐだです。


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