あの少女に言われた通り、関羽は中腹辺りまで降りて周泰が来るのを待った。
 しかし、怖かった。本当に怖かった。
 自分よりも小さな女の子だったのに、あの気迫に気圧されてしまった。
 木の幹に寄りかかって手を組み天を見上げる。

 静かだ。虫の音、梟の鳴き声――――博望坡の惨劇など知らないことのように、この山は静かだ。
 右を見ても左を見ても、下を見ても闇ばかり。無数のささやかな光も届かない山の中。
 でも、あの周泰の周りに漂っていた黒い靄みたいに恐怖は感じられなかった。
 劉備から感じたモノがそのまま靄となって可視化したみたいに……一体周泰には何が起こっているのだろう。

 うずくまって呻き、身動ぎしなかった周泰の容態が、とても心配だった。

 どれくらい待っているのか、分からない。
 闇の中では目安になる物は無く考え事ばかりしている自分の感覚も信用ならない。関羽は次第にまだかまだかとそわそわし始めた。降りてきた方を見やっては目を凝らし、歩き出しそうになる自分をはっとして押しとどめる。
 それを繰り返しているうち、後ろの急斜面から枝を踏み締めるような音がした。

 獣か――――警戒して身構えたのも一瞬のこと。
 ガサガサと飛び出した影に関羽はあっと声を上げた。


「周泰!」


 手に小さな炎を灯し、関羽の前に現れた彼は、無表情に関羽を見下ろし背を向けた。歩き出す。
 呆気に取られていると数歩歩いた先で振り返る。
 ……あ、帰るのね。
 さっきのことは何も言わず、黙して降りようとしている。
 それが、関羽の干渉を拒んでいるという意思表示であると察して関羽は少しだけ肩を落とした。小走りに周泰に追いつこうとして、足下への注意が疎(おろそ)かになる。

 彼の目の前で、足を地面の隆起部分に引っかけた。
 倒れ込んだのを周泰が受け止める。
 頬が剥き出しの右胸に触れ、その冷たさに悲鳴を上げる。


「冷たい! 周泰、大丈夫なの?」

「問題は無い」


 周泰は関羽の手を離そうとした。

 だが関羽は強く握って放さず。両手で包んだ。
 少しは温かくなるだろうかとさすってみるが、冷たさをより感じるようになるだけでなかなかうまく行かない。


「こんなに身体を冷やしていたら体調を崩してしまうわ。何か身体を覆える物は……そうだわ。そっちの外套、それを右にかけましょう。左は服を着ているんでしょう?」


 周泰は言葉を返さない。関羽の手を少しばかり乱暴に剥がし、大股に歩き出す。

 関羽は待ってと声をかける。
 けれども返ってきたのはやはり無言だった。


「周泰!」

「……」

「周泰ってば!」

「……」


 反応を返さない周泰に痺れを切らし関羽は駆け出す。周泰の前に回り込んで無理矢理に止めた。
 両手を腰に当てて周泰を睨め上げると、彼は小さく溜息を漏らす。


「体調を崩せば幽谷も心配するわ。だからせめて言う通りにして」

「必要無い」

「あるわ! 良いから、ほら!」


 聞き分けのない子供……という訳ではないけれど、頑なに外套の位置を変えようとしない周泰に手を伸ばし、強引に外套を剥がす。
 周泰がちっと舌打ちしたのと、視界が一気に明るくなったのはほぼ同時であった。

 関羽は驚愕に言葉を失った。

 それは一瞬のことだ。
 外套を剥いだ、そのほんの一瞬。
 爆発のように明るくなったかと思えば、剥き出しの右肩に炎が点ったのだ!
 勢いよく燃え盛るそれは背中からも生じ、混ざり合って斜め上へ延びていく。

 まるで、鳥が翼を広げるが如く。


「つ、ばさ……?」


 そう、翼だ。
 炎の片翼が、外套を取り去った瞬間に現れたのである。
 関羽がその場に座り込むのに、周泰は暗鬱とした溜息を漏らし関羽の手から外套を取り上げた。

 その時、外套の裏が見えた。何かの文様が描かれた札が、びっしりと縫い付けられている。


「あ……え?」

「お人好しも、時には気疎(けうと)い」


 苛立った声に、関羽は身体を硬直させる。
 何がどうして、そんな姿になってしまっているのか分からない。
 ……でも、わたしが、周泰にやってはいけないことをしたんだってことは、分かる。
 でなければこんな風に苛立ちはしない。

 周泰は外套を羽織ると関羽の腕を乱暴に掴み強引に立たせた。その合間に、炎の片翼は消え失せた。外套が、封印のようなものなのだ。


「あ、あの、周泰……」

「歩け」


 ……怒っている。
 関羽は肩を縮めて頷く。周泰に謝罪するが、寡黙な彼はやはり、何の反応も返さなかった。

 周泰にした失態で、自己嫌悪は強まるばかりだ。
 自分でやり遂げたいと思ったことも満足に出来ない。心配は空回りして逆に他人の触れてはいけない部分に触れてしまう。
 わたし、こんなに駄目な人間だったかしら……。
 独白し関羽は周泰の背中を見上げた。

 もう一度謝ろうとして、止めた。
 彼の気配が、関羽の言葉を拒絶しているように思えたから。



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