李典へ手紙を送った姫君とは、どんな人なのだろう……。
 恒浪牙と一緒に部屋に戻り独りでなくなった関羽は、寝台に腰掛けずっとそのことばかりを考えている。

 あんなにも優しげな笑みを浮かべて、幸せそうに愛おしそうに手紙を読んでいた李典の姿が、頭から離れない。

 見なければ良かった。
 姫君のことが気になってしょうがない。
 姫君のことを考えると胸がとてもざわめいて落ち着かない。

 知りたいと思っているけれど、このことを李典にも、恒浪牙にだって訊けない。
 自分がこんな風になっている理由が分からないのに訊ねて、どうしてそんなことを訊くのか問われたら困ってしまう。

 わたし、どうしてその人のことが……ううん、その人と李典の関係が気になっているんだろう。
 分からない……。
 それを恒浪牙に相談してみようかと思い至るが、急に恥ずかしくなって止めた。

 ざわめく胸を押さえて溜息をつく。

 恒浪牙が「気分でも悪いですか?」顔を覗き込んできた。


「あ、いえ……ちょっと、考え事をしてて……」


 恒浪牙は首を傾けた。
 すぐに予想がついたようで、苦笑した。


「もしかして先程の李典殿の態度ですか? まあ、敵同士ですし、関羽さんは猫族ですし、いちいち気にしてても仕方がないことですよ。好いた相手でもあるまいし」

「好いた相手……」


 その単語が、引っかかった。
 自分の口で繰り返すと、胸の奥でそれがかちりとはまった気がした。
 腑に落ちた、という言葉がしっくり来る感覚に目を丸くした。

 顔を上げると恒浪牙が顔を強ばらせてこちらを見ていた。


「え?」

「え?」


 互い見つめ合い、沈黙する。

 と、恒浪牙が手を挙げて「あー……」気まずそうに、言いにくそうに視線をさまよわせた。


「ちょっと……ちょっと、私もあなたも、落ち着いて話をしましょうか」

「は、はい」


 宥めるように関羽の頭を撫で、隣に腰掛ける。


「李典殿の態度を気にしていたのは、間違っていませんね?」


 厳密に言えば、関羽が気になったのは李典が姫君からの手紙に向けた態度だ。
 それから、姫君がどんな人なのか、李典との関係がどうなのと考えて胸がざわめいて落ち着かなくなってしまうのだ。
 それを話すと、恒浪牙は目頭を押さえて俯いた。長々と溜息をついた。

 関羽も関羽で動揺し、いいや、敵相手にそんな筈はないだろうと頭の中で『好いた相手』と言う恒浪牙の言葉を何度も何度も否定した。
 好いた相手?
 そんな、まさか!
 じゃあさっき腑に落ちたように感じたのはどう説明するの?

 自問自答を繰り返す関羽を見つめ、恒浪牙が唸る。


「可能性としては、頭にあったんですよねぇ。今の関羽さんがそうなっても仕方が無い状態であることは分かっています」


 「ですがね、関羽さん」難しい顔をして恒浪牙は諭すように柔らかな口調で語りかけた。


「ご自分の精神状態が酷く不安定で、独りになることを極度に怖がっている。その自覚はありますね?」

「はい」

「今私達の周りは敵のみ。あなたの今の状態では夏侯惇将軍にも敵わないことも?」

「……はい」


 そこで、一旦恒浪牙は言葉を区切る。
 小さく溜息をついて、


「……先程も言った通り、あなたがそうなることは可能性として頭にありました。その状態で少しでも親切にしてくれる人を見つけると頼りたくなるのは仕方がないことです」


 優しく、関羽の頭を撫でる。
 しかし、口調は叱りつけるように強くなった。


「が、李典殿は曹操殿の命令で、曹操殿の為に、あなたが自ら命を絶たぬように世話をしているだけです。李典殿は、あなたよりもまず曹操殿のことを優先します。彼はあなたをここまで追い詰めた男の忠臣であることをくれぐれも忘れずにいて下さい」

「……はい」


『十三支を娶ろうとしただけで十分すぎる醜聞だってのに、その途中でお前に死なれたら、曹操様は良い笑いものだ。曹操様の評価はそのまま俺達の評価でもある。夏侯惇殿達も貶めるような真似は許さない』


 頭の中で、祝儀のさなかで命を絶とうとした関羽を自室で縛り上げた李典の言葉が蘇る。

 そうだ。彼は、曹操に忠誠を誓う武将だ。
 曹操に命令されたからって、彼は嫌そうにわたしの部屋に来ていた。
 ちゃんと聞いていたのに、わたしは……。
 今まで李典が関羽を気遣っていたように感じていたのも、関羽の思い込みに過ぎなかったのかもしれない。
 李典の中で最優先されるべきは主君曹操。
 そんなこと分かっていた筈なのに……。

 ずん、と胸が重たくなる。

 敵に捕らわれている状況でありながら、自分が思う以上に弱って冷静でなかったことが、曹操軍の良心だと思って李典を拠り所にしていたことが、とても情けなかった。
 こんな体たらくでは、曹操軍に殺された猫族の皆に申し訳が立たない。

 もっと、しっかりしなければいけない……。
 関羽は忸怩(じくじ)たる思いで謝罪する。
 が、自分でも思わぬ程か細い小さな声で謝ってしまい、慌ててもう一度声を大きくして謝罪した。

 恒浪牙は関羽の背中を優しく撫で「それに」と立ち上がった。


「あなたがもし李典殿に少しでも好意を寄せていると分かったら、あなたに執着する曹操殿が放っておかないでしょう。実際、あなたの心に反応する結界が自分を拒絶し、李典殿を受け入れた様子を見てしまっているのですから、面白くなかったと思います。曹操殿ともあろうお方が、たった一人の女の為にそこまで見境が無くなっているとは思いたくありませんが、李典殿に矛先向けられないとも限りません。外での行動も十分気を付けるように」

「結界……」


 ああ、そうだ。
 ここには結界が張られているのだった。
 恒浪牙さんが張ってくれた、恒浪牙さんと李典以外を入らせない結界――――。

 ……。

 ……あれ?


「でも、あの賈栩と言う人、わたしの部屋へ李典宛の手紙を届けに部屋に入って来ましたけど……」


 恒浪牙は驚いた様子も無い。
 むしろ、それはそうだろうと言いたげな顔で、


「賈栩殿のことお嫌いですか? 近付いて欲しくない程」

「え? いいえ、それ程知っている人ではないですから……あっ」


 自分の返答に答えを見出し声を上げる。

 「そういうことです」恒浪牙は頷いた。


「取り敢えずは曹操殿だけを接触禁止にしたかったので、あなたが感情を抱く程知らない相手は勿論、一定以下の嫌悪、憎悪しか無い相手にこの結界は働きません。ああ、でも、一定以下と言ってもそれなりに低く線引きしてあるので、夏侯惇将軍や夏侯淵将軍には反応するかもしれませんね」


 関羽は、賈栩に関しては大まかな情報しか持っていない。
 感情を動かせる程知っていないから、賈栩は関羽の部屋にすんなり入れたということらしい。

 が、独りでいる時に賈栩を部屋に入れたことをキツく叱られてしまった。
 勝手に入ってきたのだが、相手を確認せず安易に扉を開けてしまったのは事実なので、神妙に謝罪した。


「まあ、私もこのことを詳しく説明していなかったので勘違いをさせてしまった非がありますが。独りでいる時は相手が分かるまで扉を開けないように。分かりましたね?」

「はい。以後気を付けます……」

「私もなるべく長くは部屋を空けないようにしますから」


 恒浪牙は関羽に薬湯を作り始める。
 手を動かす様子を眺めながら、控えめに、


「あの、結界のことを曹操に言ったら、李典が責められることは無いんじゃ……」

「いやあ、無理でしょう。曹操殿も今は誰かさんに似て関羽さんに近付く男全員気に食わない状態でしょうから。李典殿以外の他の男も大丈夫だと言ったところでどうにかなるとは思えません。李典殿が今、自分よりも精神的に弱り切った関羽さんの心に近いのは事実なんですし」


 恒浪牙はそこで、手を止め、


「……そうですね。そろそろ、この城を脱出する計画を立て始めた方が良いでしょう」

「脱出……でも、」


 関羽は眦を下げた。
 わたしに帰るところは、もう無いわ。

 恒浪牙は何かを言い掛け、暫し思案する。
 そして笑顔を浮かべ、


「大丈夫ですよ。狐狸一族(フーリ)の長が、あなたを保護して下さいますから。元々、彼女に命じられて、すぐにでも救出するつもりだったんです」


 狐狸一族の長――――幽谷達が母と慕う人だ。
 関羽は目を丸くした。


「そうだったんですか?」

「ええ。ですが、あの時の関羽さんの身体では、長旅には耐えられないだろうということで、今に至っています」


 もっと早くに助けに来れなくてすみませんでした。
 謝られ、関羽は首を大きく左右に振る。

 恒浪牙がこうして来てくれて、側にいてくれるだけでどんなに嬉しいか。
 彼がいなければ、自分は李典に今以上に寄りかかっていたかもしれない。
 助けてくれただけでなく、警告もしてくれた恒浪牙に、関羽は深々と頭を下げた。


「計画のことは、くれぐれも内密に」

「はい。……あの、」

「何でしょう」

「狐狸一族のもとで、その……猫族皆のお墓を作ってあげたいんですけど、駄目でしょうか?」


 途端に恒浪牙は唇を歪めた。
 何かを言いたそうで躊躇(ためら)っている、関羽の目にはそう映った。


「あ、駄目なら良いんです。他の場所でも」

「ああ、いや、そういうことではないんですよ。狐狸一族の村は、岩山の崖に作ってあって、足場が非常に悪くて広くもないので……人数分の墓が作れるかどうか分かりません」

「崖に村ですか!?」

「そうですよ。落ちたら即死です」


 即死……そんな危ないところに村があるなんて。
 想像し、青ざめる関羽に苦笑し、恒浪牙は薬湯作りを再開した。



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