10
民の避難誘導を他の仲間に任せて一緒に避難していた筈の劉備が、いつの間にか消えていた。
避難する人々の波に揉まれて親とはぐれた人間の子供と一緒に親を捜していた少しの間に、劉備が忽然と姿を消した。
民の中に紛れてしまったのかと暫く捜してみたが見つからず、誰も彼の姿を見ていない。
嫌な予感が膨れ上がった関羽は、避難の流れに逆らって劉備の名を呼びながら走った。
途中すれ違った猫族に劉備を見なかったか訊ねてみたが、誰も見ていない。
最後尾に近付けば近付く程、曹操軍の兵士が数を増やし、罪無き民へ無情の刃を振るう。
劉備を捜さなければならないが、助けを求める彼らを放ってはおけない。
応戦する幽谷や猫族に加勢しつつ、関羽は劉備を捜し走り続けた。
そして――――。
「……!!」
いた!
劉備の姿を見つけて安堵する暇も無く全身が冷えた。
彼の側には曹操がいる。
彼の前には――――。
背後から兵士に胸を貫かれた周泰がいる。
胸、を。
貫かれた。
周泰、が。
「! 関」
「嫌ああぁぁぁっ!! 周泰っ!!」
曹操の言葉を遮り関羽は悲鳴に近い声を上げた。
兵士がこちらに気付き周泰の身体から剣を抜いたのへ斬りかかる。
剣を弾き飛ばし容赦無い蹴打を鳩尾へ打ち込み、崩れ落ちる周泰の身体を抱き留めた。
「周泰! しっかりして、周泰!!」
力無く、体重を支えきれずに関羽はその場に膝をつく。
何度も何度も周泰に呼びかけるが、周泰はヒューヒュー弱々しい呼吸をするだけで、声を返してくれない。
死。
その文字が頭に浮かんだ。
関羽は必死に呼んだ。その言葉を振り払うように、声が裏返っても、視界が滲み始めても、周泰の反応が欲しくて叫んだ。
だが不意に、横から伸びてきた手が関羽から周泰を奪い、地面に芥(ごみ)のように捨てた。
「周泰!!」
追い縋ろうとするも伸ばした手を掴まれ、無理矢理に立たされる。腰を抱かれ引き寄せられた。
その時関羽は自分が劉備と曹操、周泰を刺した者を含む兵士達の存在を忘れていたことに気が付いた。
周泰を見た瞬間、頭から吹き飛んでしまったのかもしれないと、不満顔の劉備を見上げ、思った。
「りゅ、劉備、放して! 周泰が!」
劉備は嫌そうに顔を歪め、舌を打ち、冷めた目で虫の息の周泰を見下した。
「さっきから周泰ばっかり。やっと僕を呼んでくれたと思ったらやっぱり周泰。関羽、君は誰のものなのか、全然分かってない」
不満を露わにしてくる劉備が、この時はとても煩わしかった。
今こうしている間にも、周泰の命の灯火が消えかかっているのだ。
早く彼を助けてあげなければ!
周泰を喪(うしな)う――――そんなの、考えたくもない。
だが、もがけばもがく程劉備は痛いくらいに腕に力を込めて関羽の身体を拘束してくる。
関羽が自分ではなく周泰ばかりを案じて必死になっている事に、徐々に徐々に殺気を漲(みなぎ)らせていった。
それが分からない関羽ではなかったが、それでも一刻を争う周泰のことで頭が一杯だった。
「ふざけないで劉備! 周泰が死んでしまっても良いの!?」
「君が周泰に心を寄せるならむしろ消えて欲しいね」
心無い言葉に関羽は気色ばんだ。
周泰が死んでしまったら、幽谷は勿論、あなただって悲しむでしょう!?
劉備は今、邪に染まっている。
正気に戻った時、彼は深い後悔に苛まれるのだ。
周泰を見殺しにしたことで劉備が、猫族が、狐狸一族に見限られる可能性も否定出来ない。
分かっていながら、自分の欲望を優先しているのだ。
関羽は奥歯を噛み締めて劉備の足を力一杯踏んづけた。
「いたっ!?」
力が弛んだ隙に拘束を逃れ、「こんな時に我が儘言わないで!」と更に拳を頭に叩きつけた。周泰のことで頭が一杯だったからだろう、相手が劉備であることも忘れて加減を一切していなかった。
頭を抱える劉備をそのままに周泰に飛びついた。
しかし、周泰は息をしていない。
「ああ……嘘……っ」
周泰の身体を揺さぶって、周泰を繰り返して呼んだ。
周泰はぴくりとも動かない。
嘘だ。
こんな、こんな呆気なく死んでしまうなんて……嘘だ。
全身が冷えていく。
周泰が、死んでしまった。
胸に風穴を空けられたようだった。
寒い。
寒くて寒くて、身体が震える。
視界が滲んだ。
目を開けて私を見て欲しいのに。
口を開いて言葉足らずでも話して欲しいのに。
嘘でしょう?
嘘だと言って。誰でも良いから――――。
――――その時である。
『周泰から離れなさい!!』
聞き覚えのある声が、頭に響いた。
あの少女の声だ。
あの、周泰の側にいた炎の少女――――赫蘭。
側にいるのかと思って辺りを見渡してみるが、誰もいない。
となると、彼女は今、周泰の中にいるということ。
周泰の中から、私に警告している……?
赫蘭の声が聞こえたことで、胸の中に光明が光明が差し込んだ気がした。
その光が胸の風穴を塞ぎ、関羽は彼女の言葉に従って、周泰から離れた。
直後。
「!?」
周泰の背中から炎が噴き上がった!
熱気に押されて尻餅をついた関羽は、それが外套の下から噴き出しているのだとすぐに分かった。
だが――――その炎は黒く、形状も翼とは言えず、まるで無数の虫が固まって蠢いているかのように不気味だった。
何……これ。
周泰を呼ぼうと口を開くが、声が震えて言葉にならない。
唸りが聞こえた。
静かで、貪婪(どんらん)な暗く激しい欲望を孕んだ禍々しい唸りが。
関羽は恐怖で全身が凍り付いた。動けない。
『馬鹿! 逃げなさいったら! 人の話聞いてる!? 聞こえてる!?』
聞いている。
聞こえている。
だけど――――それ以上に、得体の知れないモノが炎に潜んでいるように思えて、怖くて動けないのだった。
しかし、同時に動けないとは別に、この人から離れてはいけないという思いもあった。
劉備が周泰の様子には構わず、自分の思い通りにならない関羽に苛立たしげに腕を引っ張ってくるのを、力一杯振り払うことだけは出来た。
「っああ、もう! 何してるの!!」
「……っ」
また腕を掴んで立たせようとする劉備を振り払った、その時である。
「う……ぐぁ……っ」
周泰が頭を抱え、ゆっくりと身を起こした。
『劉備と一緒に離れなさい!! 大変なことになるわよ!! 早く!! 早く!!』
赫蘭が頭の中で警鐘を鳴らす。
しかし、それよりも早く。
「……穢、れ……穢れている……」
周泰の色違いの目が、劉備を捉えた瞬間、姿が消えた。
劉備が咄嗟に関羽を突き飛ばさなければ、彼女も呑み込まれていただろう。
うぞうぞと蠢く黒い炎に。
抱き締めるように劉備にまとわりついた黒炎から、拳大の蟲(むし)が分裂し劉備の身体を這う。
黒炎と蟲に劉備も周泰も覆い尽くされ、どうなっているのか分からない。
だが、その中で、劉備が苦しげな絶叫を上げた。
「っあああああ!!」
「劉備!?」
「近付くな関羽!」
曹操の声が制止する。
でも周泰が! 劉備が!
何が起こっているのか分からない。
ただ見ているしか出来ない関羽はまた赫蘭の悲鳴を聞いた。
「赫蘭? 赫蘭!?」
苦しげな悲鳴がぷつりと途絶える。
直後黒炎から吐き出された真っ赤な炎の塊。
地面を焦がしながら転がったのは、炎と融合したような、小さな少女の身体。
赫蘭だ。
関羽は赫蘭に駆け寄った。
燃え盛る炎に一瞬躊躇ったが、彼女に以前腕を掴まれた時熱を感じなかったことを思い出し小さな身体を抱き起こした。
「しっかりして、赫蘭!!」
「……あんたねぇ……年上には、敬語でしょうが……っ」
忌々しげに返す彼女に、ほっとしたのもつかの間、どうと黒炎の中から劉備が倒れた。
苦しげに顔を歪め、地面に爪を立てている。
その首には痛々しい噛み痕が残り、止め処なく血を流している。
弱った劉備を見、兵士達は声を震わせた。
曹操もまた、怪物を見るような目で黒炎を凝視している。
「な、何だ。何だ、こいつ……!」
「あいつに何をしたんだ……殺したのか!?」
「いや、劉備にはまだ息がある。これは……《何》なのだ?」
恐怖で今にも斬りかかりそうな兵士達を手で制しつつ、曹操は黒炎の一挙一動を注視する。
何が起こっているのか分からない。
ただ、黒炎に包まれた周泰が、劉備の首に噛みつき、何かをしたということだけ。
関羽は赫蘭を抱き締め、戦慄した。
黒炎の中心が、こちらを向いたからだ。
黒炎が、まるで扉のように開いた。
「しゅ、たい……?」
虚ろな双眼を関羽に向け、身体中に黒炎の蟲を這わせる周泰は、うっすらと嗤(わら)っている。
狂気に近い澱んだ欲望が覗く微笑みに、背筋が凍る程の恐怖を覚えた。
晒された上半身には虎のような黒い縞が浮かび、生き物のように蠢いている。
開いた黒炎は外套の下から蝙蝠の翼のようになって噴き出してはぼとぼとと蟲を地面に落としている。
周泰である筈の人が、周泰でなくなってしまったように思えてしまう。
赫蘭が茫然とする関羽の腕を離れ、片手を振るう。
地面を這い回る蟲がおぞましい断末魔を上げて燃えた。
関羽を背に庇い、周泰を真っ直ぐ見据える。
「戻りなさい。《貪着(とんじゃく)》。金眼の極上の妖気を喰らって満足したでしょう。それに勝る餌は今ここには無いわ。戻りなさい」
周泰――――否、貪着は肩をすくめた。
「断る。極上の餌ならまだそこにいるじゃないか。我が腹を満たせば周泰も楽になる」
「楽にはなるけど精神的な苦痛を負うのよ」
貪着は手を叩いて笑った。
「それは良い! 周泰が弱ってくれれば我も出やすくなる! 今までずっと周泰ばかりが良い夢を見ていたんだ。その分我が幸せになったって良いじゃないか」
何なの、これ。
周泰とはまるで違う、貪着。
まるで劉備を見ているみたい――――。
「うちの子を劉備なんぞと一緒にするな眼窩(がんか)に指突っ込んで中引っかき回しながら目ん玉抜き取るわよ」
心の声を呼んだとしか思えないドスの利いた脅しに、身体が強ばる。
貪着が両手を挙げる。
「ああ、怖い怖い。こんなお袋は、要らないな」
「あんたの母親になった覚え無いから! 私は、あんたじゃなくて周泰の母親だから! だからさっさと消えてちょうだい」
貪着はへらへらとおかしそうに赫蘭が怒る様を眺めている。
が、一瞬で顔から余裕が剥がれ落ちる。
警戒と怯えが浮かび、その場から跳躍して離れる。
彼は赫蘭ではなく、関羽でもなく――――その後方を見ていた。
関羽が振り返ろうとすると、頭に何かが乗っかり、力を加えられ視界に自分の膝が映り込む。
「え? え?」
「甘寧様……!」
「よぉ、赫蘭。悪いな、遅れちまって」
関羽は顔を上げ、えっとなった。
赫蘭と同じくらい小さな褐色の肌に赤毛の少女が、真っ青な双眼を赫蘭に向けていた。
その頭には、ぴんと立った獣の耳、尻にはふさふさの複数の尻尾が揺れている。
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