あの夢に魘(うな)されてから、昼でさえも独りで部屋の中にいるのが落ち着かない。

 恒浪牙も、夢に怯える関羽を気遣って極力側にいてくれるが、時折気付けば部屋から失せていることがあった。すぐに戻ってきてくれるが、それでも彼がいない間はとにかく心細くて怖くて、小さな物音にすら身体を大きくびくつかせてしまう始末である。

 初めて恒浪牙の不在に気が付いた時に本人に問い詰めてみたが、飄々(ひょうひょう)とかわされ明確な答えは得られなかった。

 李典に渡された物語に没頭しようとするも内容がまるで頭に入らない。
 前はあんなにも関羽の心を捕らえて放さず、先の展開を知りたいと求めさせた筈の物語に、今の関羽は魅力を感じなかった。

 その日も、恒浪牙が消えた心なし寒い部屋の中、寝台の上で膝を抱えて恐怖に耐えていた関羽は、不意に扉の向こうに気配を捉え、考える前に扉に飛びついた。
 ここに来るのは恒浪牙か李典くらいだ。
 今の関羽にはどちらであっても嬉しい訪問者だった。

 相手の言葉を待たず自ら扉を開け――――固まる。


「……おや。気付いてたのか」

「あ……」


 違う、人。
 関羽はよろめくように後退した。

 恒浪牙でも李典でもない……この人は確か、賈栩――――そう、賈栩という名前の、曹操の参謀。
 一度もこの部屋へ来たことの無い彼が、どうしてここに?

 賈栩は、にこりと笑い、「少し失礼するよ」と関羽と距離を取って部屋の中に入り、部屋の中を見渡した。


「李典は、いないようだね」

「李典なら、今日は一度も来ていないわ……李典に何か用なの?」


 賈栩は顎に手を添え、困ったと呟きながら一通の書簡を懐から取り出した。


「いつもの姫君から、手紙が届いたのでね」

「姫君?」


 呟き、胸を押さえる。
 どうしてだろうか。たった一言が、とても重く感じられる。何だか嫌な感じがする。

 そんな関羽の様子に気付かず、賈栩は頷く。


「そう。余程大事にしている姫君のようでね。こちらに来てからもずっと、手紙を送っているみたいだよ」

「大事にしている……」


 ああ、まただわ。
 凄く嫌な感じがする。
 何だろう、この感覚。
 今まで、感じたことの無い不快感……。


「ここにいないのなら、夏侯惇達に訊けば分かるかな。お邪魔したね。ごゆっくり――――」

「あ、あの……!」


 それ、わたしが届けても良い?
 咄嗟に飛び出した言葉に、自分が驚いた。

 けど、撤回はしなかった。
 今は独りでいるのが怖い。
 李典に会えるきっかけが現れたのを、逃したくなかった。

 打って変わって迫る関羽の勢いに圧され、賈栩は一歩退いた。


「……それは、助かるが……」

「良いのね? ありがとう!」


 半ば奪うように手紙を取り関羽は部屋を飛び出した。



 足早に李典を捜しに向かう関羽の後ろ姿を見送る賈栩。
 彼は顎を撫で、苦笑する。


「有望視している部下に女を盗られたと知ったら、曹操様はどうなさるだろうか」


 肩をすくめ、自身の仕事へと戻っていく。



‡‡‡




 李典を捜し、城の中を走り回る。
 すれ違う兵士や武将達が迷惑そうに睨んでくるが、関羽は無視して廊下を駆ける。人間の世界に引きずり出されてから、他者の蔑視には慣れてしまった。だからと言って辛くない訳ではないが、今はそんなことよりも、李典に会いたかった。

 恒浪牙でも良い。

 どちらかに会えれば、独りではなくなる――――。

 必死になっていた関羽は、曲がり角で誰かとぶつかった。


「うわっ!?」

「きゃっ! ごめんなさい!」


 お互い鈍い痛みを与え、後ろによろめく。幸い、どちらも転ばずに済んだのは足腰を鍛えてあるからだ。

 関羽は慌てて頭を下げて謝罪するが、


「おや、関羽さん。部屋から出てしまわれたんですか?」

「! 恒浪牙さん……!」


 ばっと顔を上げ、笑顔になる。
 やっと会えた。彼の驚いた顔を見て、全身の緊張が解れた。

 その後ろには不機嫌そうな李典の姿もあった。


「よ、良かった……!」

「どうやら、席を外しすぎたみたいですねえ。大丈夫ですよ。もう部屋に戻ろうとしていたところですから」


 恒浪牙は関羽の頭を撫で――――彼女の手にある書簡に気が付いた。


「おや、それは?」

「あっ、そうだった! 李典、あなたに手紙だそうよ。賈栩があなたを捜して、わたしの部屋に持ってきたの」

「!」


 李典は顔色を変えて関羽から書簡を奪い取る。

 恒浪牙が驚いたように李典を見やるが、彼は書簡を大事そうに開き、まず差出人を確認する。

 大事な姫君からの手紙――――いやにひっかかってしまう関羽は全身がむずむずしてたまらない。手紙が気になって気になって仕方がないのだ。
 そんな関羽に追い打ちをかけるように、書簡を読み進める李典の相好が崩れた。

 手紙の差出人に向けられた愛おしげな優しい笑みに、関羽は心臓が跳ねた。
 鼓動に合わせて鈍く痛み出す。


「関羽さん?」

「! あ、い、いえ……何でもないです……」

「そうですか。ところで、李典さん。ご家族からのお手紙ですか?」

「お前には関係無いだろ……」


 にやけそうな顔を必死に堪えているのだろう。
 唇を妙な形に歪めて恒浪牙を睨めつけてくる。

 恒浪牙は素直に謝り、温かな眼差しで、再び書簡に目を落とした李典を見つめる。

 関羽はまた幸せに笑みが濃くなっていく李典を見ているのが苦しくて、恒浪牙の袖を摘んで引いた。


「あの……恒浪牙さん……」

「はい? ……ああ、はい、はい。部屋に戻りましょうね。大丈夫ですよ。今日は、曹操殿はご不在のようですから、少し遠回りをして行きましょうか」


 関羽の頭を撫で、恒浪牙は握り締めた手をそっと握る。

 関羽は頷き、李典を一瞥して後悔する。
 ……見るんじゃなかった。


 姫君の手紙を見て、とても幸せな笑顔を浮かべている顔なんて、見たくなかった。


 どうして、そう思うのだろう。
 関羽には自分の変化が全く分からなかった。





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