郭嘉


※注意!



 世界は単純なものだ。

 強者は弱者を支配する。
 弱者は強者に従属する。

 草花は虫に食われ、
 虫は魚に食われ、
 魚は鳥に食われ、
 鳥は獣に食われ、
 獣は人に食われ、
 人は人に蹂躙される。

 では――――彼女はどうなのだろう。
 あの美しく気高い、何年もの間自分の心を捕らえて放さない《四凶》の女は。

 郭嘉が初めて凶兆と厭悪される四凶を見たのは、まだ村が在り、最愛の姉が生きていた頃だ。

 怠惰は良くないと姉に押しつけられて森の中で山菜を摘んでいた時のことだった。
 つい、日当たりの良い緩やかな斜面に寝転がって昼寝をしていた郭嘉を、無粋に起こしたのは、女の嬌声であった。

 誰かが昼間から卑猥な行為に及んでいる。
 眠りを妨げられた郭嘉は、意趣返しに覗いて途中で邪魔してやろうかと思い、女の恥じらいの嬌声のする方へ近付いた。

 女の声は、郭嘉が幼い頃秘密基地として使っていた、大木の根本に出来た深い穴の中から聞こえた。
 郭嘉の秘密基地だった頃は子供一人入って生活出来る程度だった穴は、年々大きくなっており、今では大人二人が並んで座っても十分過ぎる大きさになっている。いつか、崩落するだろう。

 その中で、男女が行為に夢中になっていた。
 男が奥に座り、女が胡座(あぐら)の上で身体を上下に、腰を前後に動かしている。

 女の裸体を撫で回す男が、一瞬だけ見えた。
 この辺の人間ではない。
 ……自分達のような庶民ではない。もっと位の高い、無縁の存在だ。
 そんな高貴な男が役目を放棄して、こんな土臭い場所で女と快楽に夢中になっているとは、良いご身分だ。
 石を投げつけてやりたくなって周りを見渡すと、腐りかけた兎の死骸が手の届く場所に落ちていた
 それを鷲掴み、郭嘉は二人めがけて投げようと振りかぶり――――。


「ィギャアアアァァァアッ!!」


 断末魔が、耳を貫いた。

 投げようと二人を見ていた郭嘉は、女が男の首を斬り落としたのを見た。
 真っ赤な血が噴き出し、女の裸を赤く染め上げる。
 女は死んだ男から離れ手にした刃物を大きく振り、血を払う。その刃物が匕首という名称であることを、彼はまだ知らない。

 刃物を見下ろした女の横顔に、郭嘉は目を奪われた。
 美しい……なんて美しい女なのだろう。
 真っ白な肌を赤く染めているのに、その血がまた、更に美しく思わせるのだ。

 あの肌に触れたい。
 男が女を夢中になって抱いたその理由の一端を、彼は知った。
 引き寄せられるように、郭嘉は物影から出てしまう。

 女に驚いた様子は無かった。
 最初からこちらに気付いていたのだろう。
 ゆっくりと、身体を捻って郭嘉を振り返る。

 女は眼帯をしている。
 しかし紐が弛み、はらりと外れてしまう。

 双眼が、郭嘉を捉えた。

 赤と青の、色違いの瞳が。

 色違いの瞳は四凶の証。
 四凶とは、人間の女の胎(はら)から生まれる、色違いの瞳と、四凶として伝わる四匹の異形の特徴を彷彿とさせる痣を持つ存在。
 彼らは生まれてすぐ殺される故、目の前の女のように成長している例は、皆無に等しい。

 郭嘉は四凶という存在自体、初めて目にした。
 生きた四凶の女。

 顔を見て初めて気が付いたが、女は、まだ少女と言える程に若い。
 だが、男の味を知っている女の色気が、無表情に残酷なことをしてのける無情な妖しさが、郭嘉を魅了する。

 四凶は、郭嘉に何もしなかった。
 裸のまま横を通過し、突如一瞬で姿を消した。
 追いかけても無駄だった。森の隅々を、帰りが遅いと姉に怒られるまで、執念深く四凶の女を探し求めた。

 それが、後に姿を変えて目の前に現れるなど、思いも寄らなかった。
 また、自分の狂気が異常に膨れ上がり制御不能になることも、我が事ながら、予想出来なかった。



‡‡‡




 大きな衝撃は、決して苦痛ではなかった。
 むしろ、嬉しさに胸が膨れ上がり、はちきれそうだ。

 夏侯惇と李典が連れてきた女を見た瞬間、忘れられない女の姿が思い出され、重なった。
 人間でなかったり、多少の違いはあるが、そんなことどうでも良い。
 赤と青の瞳の女ならあの女性以外にいない。

 あの日郭嘉を魅了した女に間違い無いのだ。

 欲しい。
 誰にも渡さない。

 彼女はあの日から、僕のものなのだから。

 あの日の激情が静かに目覚めた郭嘉は、手段を選ばなかった。

 女に異様に執着する夏侯惇と、夏候惇と距離を置きつつも自分の責務を果たそうとする李典をどう排除するか、曹操軍の参謀は曹操軍屈指の猛将を殺す算段をする。曹操に知れたら、斬首か、良くて追放か。
 斬首になるつもりはない。死んだら彼女を手に入れた意味が無い。

 だが、幸いなことに、夏候惇が郭嘉に女を預けた後李典と共に曹操軍へ戻らなければならないと、夏候惇は不満を露に思案を巡らせていた郭嘉に告げた。

 ならば、簡単だ。
 その間に、誰にも見つからない場所に隔離して、自分だけにしか触れないようにすれば良いのだ。

 あの女は、昔の妖しくも気高い美しさはそのままに、まるで子供のようなあどけなさを加えて、更に郭嘉を惹き付ける。
 ……いや、変わっていようがいまいが、何をしようがすまいが、郭嘉の心は惹き付けられてしまう。
 彼は、心を狂(たぶ)らせた虜囚と成り果てていた。

 女は、幽谷という名前であった。
 逃げすまいと寝台に拘束された彼女を解放し、手厚くもてなす。
 怪我の手当てもしてやると、彼女は怯えながらも感謝した。

 夏候惇によって、恐怖という人間らしい感情を植え付けられた幽谷。
 だが、郭嘉が身体を動かした方が憂さ晴らしになると鍛練に参加させれば、彼女は人間の領域を越えた戦闘能力を見せつけた。

 刃を振るう彼女の、なんと凛々しいこと。
 やはり、彼女はあの時の四凶の女に間違い無い。

 確信は、狂気という病をより悪化させていく。

 あれやこれやと気を回す郭嘉に、幽谷は表情を和らげるようになった。おどければ、笑みすら見せる。

 あの時は見れなかった、分からなかった四凶の感情が、今、目の前で顔に表れる。
 たまらない歓喜が、身体を奮わせる。

 幽谷は、僕のもの。
 もう、誰にも渡さない……。

 郭嘉は、信頼が募ったのを見計らい、夏候惇から逃れる為に、隠れる場所を提供する。


「あの人から、逃れられる……」

「そう。ここの討伐ももう少しで終わっちゃうし、そうしたら、夏候惇さんの所に戻らないといけない。それは、嫌でしょう?」


 幽谷は表情を強ばらせる。
 植え付けられた恐怖は、簡単には拭い去れない。

 それを和らげてやろうと両手を握ってやると、肩から力が抜けるのが分かる。
 嗚呼、この人はもう僕に心を許している。
 夏侯惇さんよりも、近い場所を奪ったのだ。
 優越感に胸が膨らむ。


「大丈夫です。僕が幽谷さんを守りますから」

「……ありがとうございます」


 また笑ってくれた。
 彼女は自分のものだ。
 誰にも渡せない。渡さない。


「さあ、今日はこのまま眠って下さい。僕達が戻るのは、まだ少し先ですから、今は心を穏やかにすることだけを考えて……」

「はい」


 立ち上がり、額に口づける。
 昔不安がっている時に姉がしてくれたことだと嘘をついて、幽谷はそれを信じた。以来、拒絶されたことは一度も無い。

 郭嘉は幽谷に微笑みかけ、部屋を出た。

 ……もう少しだ。
 僕だけが知る場所に彼女を閉じ込めてしまえば、こちらのもの。
 もう誰にも、僕から彼女を奪わせない。


「……ようやっと、捕まえたのだから」


 くすり、と笑う。
 望みが叶うことに浮かれすぎていた。

 故に――――彼は、気付かなかった。
 背後から、近付く気配に。



 視界が真っ赤に、黒く染まるまで、己の状態すら、分からなかった――――。


「今まで守ってくれてありがとよ。だが、子狐はちゃんと親狐のもとに返してくれ」



‡‡‡




 幽谷は、驚いた。
 まさか、ここに彼女が現れるとは、分からなかった。


「……母上?」


 人の世に混ざる時の、男の姿で、母は現れた。
 その手には、血に汚れた大剣が。


「よお、幽谷。ようやっと見つけたぜ。来るのが遅くなっちまって、ごめんな」

「……」


 幽谷は立ち上がり、母に抱きついた。
 甘寧は娘を抱き返し、しかしすぐに放した。


「ここに侵入する時に、何人かを殺した。そろそろ騒ぎ出す頃だろう。逃げられなくなる前に逃げるぞ」

「はい。……あ、でも、」

「どうした?」

「郭嘉殿が……、彼は、私に色々と気を遣って下さいました。避難する場所も与えてくれるとも」


 甘寧は目を細め、笑った。


「それなら大丈夫だ。オレは郭嘉の手引きでここに来れたんだからな」

「そうだったんですか?」

「ああ。だが、逃げたらもう敵同士、馴れ合いは絶対にしないで下さいと、郭嘉からの伝言だ。夏候惇が郭嘉とお前が友好的だったと知ったら、郭嘉が危険に晒される。あいつの言う通りにするんだ」

「……分かりました。それで、あの方が安全ならば」


「よし」甘寧は幽谷の頭を撫で、出口に向かって駆け出した。

 幽谷も、母に従う。
 彼女の得物の血が、曹操軍兵士のものであると、信じて疑わなかった。



●○●

 やっと、書けました……!
 でもやっぱりバッド。

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