9
曹操軍が迫る。
迫る。
迫る。
迫る。
《穢れ》を持った人間(えさ)が、やってくる――――!!
歓喜に湧く胸中の異物が喚き散らす。
喰らえ。
喰らえ。
我は餓(う)えている。
我が餓え即(すなわ)ち貴様の餓え。
貴様も、餓えておろう。
この腹は枯渇(こかつ)し、耐え難い飢餓が痛みを発す。
痛みは懇願だ。
人の穢れを喰らえと求めているのだ。
人は命を喰らい腹を満たさねば生きてはいけぬ生き物。
我らが喰らう穢れとて、暗き歪みはあれども命である。
穢れとは、人の胸の奥に閉じ込められた、人が表に出すことを決して許さぬ澱んだ生き物である。
何故喰らわぬ?
我らも人のように命を喰らっているだけだ。
我らの食事の、一体何が違う?
理(ことわり)の内にはまっているではないか。
さあ、喰らえ。
喰らうのだ。
我らは、穢れという食物に餓えている。
餓えを満たせと低い声で理性を本能へといざなう。
異物がこちらへ手を伸ばす。
優しく手を伸ばす。
まるで長年ずっと連れ添った番(つがい)が追憶の語らいにでも誘うかのように。
その手を取ろうとしてしまうのは、それが誰よりも自分を理解してくれているからだ。
それは親であり、兄弟であり、半身であり――――。
『馬鹿を言わないでくれるかしら』
不意に、手が炎に包まれる。
異物は忌々しげに呻き、自ら腕を斬り落とした。
ぼとりと落ちた腕はたちまち灰となり、風に攫(さら)われていく。
そこで、周泰は現実に戻ったのだ。
『あなたの母でもあり姉でもあり半身でもあるのは、この赫蘭よ。間違えないで』
「……ああ」
内側から不機嫌そうに咎めてくる幼き少女の声は、耳にも胸にも心地よく響く。
ありがとうと、小さく感謝の声を返し、周泰は地平線を睨めつけた。
人と穢れは切り離せない。人が人たりえるには、穢れも必要だ。
だが、戦の中で、人々の穢れは急速に増大していく。
最悪の状態にもなれば――――。
『そうよ。曹操軍はか弱き民にも容赦はしないでしょう。嘆きと恨み、怒り、憎悪――――穢れは一気に膨れ上がる。あなたは濃い穢れの中にはいられない。あの怪物に併呑(へいどん)されてはいけない。自分の使命を忘れないで。使命を果たす為に、まず己の自我を保つことを優先なさい』
呑まれてはいけない。
己の使命を忘れてはいけない。
少女の指示を口の中で繰り返し、周泰は目を伏せ大きく頷いた。
周泰がもう一人の母、狐狸一族の長より賜った使命は、猫族の護衛と幽谷の補助。
俺は……使命を全うする。
己に言い聞かせる。
胸の奥で、異物が舌打ちした。
『良い子ね、その調子。怪物のことは私も抑えるわ。今までずっと怪物に乗っ取られたことは無いから大丈夫。あなたはちゃんと耐えられる。頑張りましょう』
「……ああ。よろしく頼む。赫蘭」
深呼吸する。
地平線から曹操軍は怒濤の如く押し寄せてくる。
猫族が、民を避難させようと声を張り上げ忙(せわ)しなく駆け回る。
周泰は片手を薙(な)いだ。
曹操軍が、彼らに到達する前に。
炎を大地に走らせる。
炎の帯は逃げる力無き人間達を守る壁の如(ごと)燃え上がり、彼らの姿を隠してしまう。
炎に驚いた民が悲鳴を上げる。
周泰はせめて誘導する猫族に聞こえるように声を張り上げた。
「この炎が曹操軍を防ぐ!! 壁が燃え盛るうちに少しでも遠くへ逃げろ!!」
「周泰! 分かった。そっちは任せるぞ!!」
幸い、応えは早かった。
周泰はほっと息を吐き迫る曹操軍に向き直り、得物を顕現(けんげん)させた。
と、隣に、幽谷が駆けつけた。炎の壁を見て周泰の力だとすぐに分かったらしい。
「兄さん」
「趙雲殿と張飛殿は」
「趙雲殿の連れる兵士と共に、こちら側です」
「……ならば、お前は彼らと共に闘え。流れを見て援護を」
幽谷は曹操軍を一瞥し、承伏しかねるような顔をした。
「兄さんは?」
「俺は一人で良い。側に誰かがいると、広範囲に炎を使えぬ故」
答えれば幽谷は納得したようだ。
一礼し、周泰の指示に従って駆け出した。
趙雲達と共にいれば、夏侯惇が現れた時にも彼らが幽谷を気遣って対処してくれるだろう。
俺は――――。
周泰は駆け出した。
炎の壁を目にしながらも曹操軍の行軍は止まらない。速度すら落ちない。
あの軍勢の何処かに、曹操がいる。
曹操さえしとめることが出来れば、猫族の最大の脅威は去る。
『しとめることが出来なくても、動けない程度の傷を負わせる手もあるわ。自分の身体の状態を、よく考えて臨機応変に動くのよ』
「ああ。承知している。頼りにして良いか、赫蘭」
『お母様兼お姉様に任せなさい』
自信に満ち溢れた大きな声が胸に響く。
周泰は口角を弛めた。
曹操軍に混ざれば、戦独特の昂揚感に満ち満ちている。
多少の穢れはあるが耐えられない程ではない。
切りかかる兵士達を軽やかにいなしていく。
屈強な兵士は腱を断ち、後顧(こうこ)の憂いを絶つ。
そうして――――辿り着いた先には。
曹操がいる。
「お前は……!」
「曹操。その首頂戴する」
周泰は、曹操に襲いかかった。
曹操は迎え撃つ。
‡‡‡
背後で悲鳴が上がったのは、重なった刃が火花を散らした直後であった。
「うわあああぁぁぁぁっ!!」
「悪魔が! 悪魔が――――ぐわああぁぁぁっ!!」
「ひぎゃああぁぁぁっ!!」
「……!」
「何事だ!?」
周泰と曹操は背後に跳躍して間合いを取り、悲鳴の上がった方角を見やった。
その瞬間、周泰の身体に上から耐え難い圧力がかかった。
膝が折れ胸を押さえると、曹操がぎょっと周泰を見下ろす。
されども剣を彼に向けることは無く。
「ああ、周泰。こんな所にいたんだ」
「……っ!!」
どんめり、と。
胸の奥で異物が身動ぎした。
嗚呼、これだ。
我が欲しいのはこれだ。
我らを満たすものはこれだ。
喰らえ。
喰らえ。
喰らえ。
そこに大きな穢れが在る。
美味そうな餌がいる。
喰らえ。
喰らえ。
喰らえ。
奥歯を噛み締め、振り返る。
劉備だ。
邪悪なるモノに意識を委ねてしまった猫族の長が、そこに立っている。
あの炎の壁を、彼は通過出来たと言うのか。
……火力が、甘かったか。
人間達が火傷せぬようにと配慮したことが、仇となった。
『なんて間の悪い男なの……! 関羽は何をしていたの!?』
中で赫蘭が悪態をつく。そうしながら、異物を抑え込んでくれている。
こうなってはいけない。
自分は、劉備から離れなければならない。
早く……でなければ己も自我を失ってしまう。
餓えを満たそうとする異物に、乗っ取られてしまう。
『周泰。今すぐ劉備から離れなさい! このままではあなたが怪物に呑まれてしまう』
赫蘭が警告を発する。
呑まれれば、自分は劉備を喰らうだろう。
穢れの塊こそが、周泰と異物を満たす最上の食物。
周泰は舌を打ちゆっくりと立ち上がった。
身体が重い。
この圧力は異物によるものだ。
これ以上劉備の側にいれば彼の邪気が身体に浸透し、周泰の自我を弱めていく。
そうとも知らずに、劉備は曹操に歩み寄る。
「やあ曹操。久し振りだね」
顔はにこやかに。しかし金色の目は冷たく、殺気立っている。
立ち上る邪気に呼吸もままならなくなる周泰は、ゆっくりと一歩一歩劉備から距離を取った。
劉備は周泰を見、ふと愉しげな笑みを浮かべる。
冷や汗が流れた。
まさか知られた?
有り得ないことではない。彼も、周泰とは意味が異なるが、穢れを求め暴虐の限りを尽くした大妖の闇を持つ者だ。
《同類》を察知出来てもおかしくない……。
周泰の中で赫蘭が焦って異物の制御に躍起になっている。
「どうしたんだい? 周泰。四霊なのに、とっても餓えた、澱んだ邪気を感じるよ。どうしてだろう」
「……今のあなたに答える必要を感じない」
「そうかい? それは残念だ。じゃあ近付いてみようかな」
曹操のことを無視し、彼は周泰に近寄ってくる。どうやら周泰へ興味が移ったようだ。曹操など、取るに足らぬ存在だとでも思っているのか……いや、人間という種自体を彼は侮っているのだ。
人間の可能性は、小さきものではない。長く人々を見つめ続けた狐狸一族の母はそう断じる。
それが間違いではないことを周泰は知っている。
かの大妖金眼以下数多の荒ぶる異形達は、元を辿れば人の負の思念で澱んだ地脈乃至(ないし)龍脈から生まれたのだ。
人間は脆弱に見えて、全くの真逆の恐ろしくもあり素晴らしくもある存在なのである。
それを思えば、己の欲望が露わとなった今の劉備のことも、殊更恐ろしく思えた。
護りたい――――尊い筈のその思いが、穢れを生む破壊に繋がっている。そして破壊という行為に、彼は悦楽を見出した。
普段のひたむきな姿とはまるで違う、穢れきった猫族の長。
――――なんと、美味そうな餌の塊。
『駄目よ周泰!!』
「――――ッ!!」
全身に響いた叱責に周泰は己の頭を目一杯殴りつけた。
劉備がへえ、と小さく感嘆する。
「周泰。そんなに強大なモノを飼ってたんだ。凄いね。どうしてここで出さないんだい? 勿体ない!」
「く……っ!」
劉備は知らない。知らないから、解放すればどうなるのか分からないのだ。
解放すれば、周泰が狙うのは劉備ただ一人だというのに。
知らぬは罪。
今に於いてはまさにそれだ。
周泰はもう一度頭を殴りつけた。
曹操はさぞ、混乱しているだろう。
だが、周泰の正体を、この場で曝すことは出来ぬ。
出来れば何事も無くこの場から逃れなければならぬ。
自分の本性が狐狸一族に多大な迷惑をかける。
母も兄弟も笑って別に良いと言ってくれるだろう。
だが、呉はどうだ?
孫権は?
周瑜は?
尚香は?
黄蓋は?
狐狸一族へ向けられた彼らの信頼が、無くなってしまったら。
もし自分が孫権から化け物のような目で見られたとしたら――――ぞっとする。
周泰は、ゆっくりと後退した。
彼の注意は、もはや己の内と劉備と、辛うじて曹操に向けられていた。
それ以外に人間がいることなど、もう頭の中に無かった。
故に――――。
『周泰、後ろ!!』
ど。
『周泰!!』
「……っ!!」
背後から、心臓を貫かれた。
周泰の中で赫蘭の悲鳴が聞こえる。
だがそれよりも大きく、異物が歓喜に哄笑するのだ。
喰らう。
喰らうぞ。
我は喰らうぞ。
美味い穢れがいる。
かつて無い極上の穢れがいる。
あのような餌など、地脈の揺り籠にはいなかった!
意識を手放してはいけない。
分かっている。
分かっているが。
ああ。
ああ、そうだ。
あんな極上な餌は、これから先出会えるか分からない。
なれば、逃してはならぬ。
喰らおう。
喰って、ついでに周りの小さな穢れも余さず食べてしまおう。
久し振りに、腹一杯になろう――――。
母であり姉である存在の声は、もう聞こえない。
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