5
おぞましい夢を見ている。
夢と分かるのは、有り得ない状況に身を置かれているからだ。
わたしの身体は動かない。声も出ない。
ただただ瞼を開いて、わたしにのしかかる男の一挙一動を見続ける。
見たくなんてない。こんなもの見たくない。
わたしを犯す曹操の姿など、見たくない!
気持ち悪かった。
恐ろしかった。
助けてと心は叫ぶのに声は上がらない。
力一杯拒絶したいのに身体は動かない。
嫌……嫌……嫌!!
犯される感触が無いのがせめてもの救い……にもならない。なる訳ない。
そんな所に触れないで。
わたしの身体を好き勝手にしないで。
助けて。
助けて。
助けて――――李典!
それは一瞬のこと。
曹操が動きを止めた。顔が見る見る歪んでいく。
憎悪、嫉妬、怒り……悲壮。
色んな感情が混ざり合って粘着質に煮えたぎる眼光でわたしを射抜く。
わたしには分かった。
曹操は、今からもっとわたしに酷いことをする。
李典に助けを求めたなんてどうして分かったの。
わたしは声なんて出せない。
わたしは抵抗が出来ない。
だのにどうしてわたしが助けを求めたって分かるの。
曹操がわたしの首へ手を伸ばしてくる。
止めて。
わたしに触らないで。
わたしはあなたなんか好きじゃない!
触らないで触らないで触らないで。
助けて助けて助けて。
李典……李典……李典っ!!
「嫌ああぁぁぁ!!」
関羽は叫び飛び起きた。
汗で服の湿った胸を押さえ、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。
夢。そう、あれは夢だ。
夢の中でも夢と認識していた。感触だって無かった。音も無かった。
悪い悪い悪夢だったのだ。
だからわたしは抱かれてなんかいない。
分かっているのに身体を撫でて確認しようとしてしまう。
全身が汗でぬるぬるして不快だ。
こんなにも汗を掻くくらい魘(うな)されていたのならもっと早くに目覚めたかった。
恒浪牙さんも、起こしてくれれば良いのに――――。
と、そこで気が付いた。
夜の闇に満ちたこの部屋に、自分以外の人間がいないことに。
恒浪牙は今夜から関羽の部屋で寝泊まりする筈だった。勿論、異性であるから関羽に対する気遣いをして、部屋の隅で床に寝ると言った。
関羽の心の負担を軽減する為、出来るだけ傍にいると言ってくれた彼の存在は、しかし、暗闇の中で感じられなかった。
息を潜めているのかもしれない、と恒浪牙を控えめに呼んでみる。
応(いら)えは無い。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
……いない。
恒浪牙さんが、部屋にいない。
わたしはこの暗闇の中で、たった独り――――。
関羽は咽をひきつらせ自分の身体を抱き締めた。
汗で湿った肌に、沈黙する空気は突き刺すように冷たかった。
孤独と寒さにぶるりと震え、関羽は夜着のまま寝台を抜け出した。
怖かった。
誰にも守られずに悪夢に怯える関羽を、冷たい空気が嘲笑っている。
嫌……。
恒浪牙さんに会いたい。
恒浪牙でなくとも、李典であったって良い。
とにかく、自分に害を及ぼさないと確信のある人に、傍にいて欲しかった。
そっと扉を開け、周囲を窺(うかが)う。……誰もいない。
関羽は足音を立てぬよう細心の注意を払いつつ、廊下を歩いた。
恒浪牙は何処に行ったのだろう。
考えられるのは曹操のもとだ。
旅の中で天仙の腹黒い面を度々目撃している関羽は、恒浪牙が曹操に何かしらの圧力をかけに行ったのではないかと予想し、足を止めた。
曹操に会いたくない。
今会えば絶対に思い出してしまう。
頭に鮮明に残る、悪夢を。
違う。そう、きっと違うわ。
でも違うとしたら何処に行ってしまったのかしら。
何とはなしに廊下から外を見る。
強い風が吹いた。
髪を乱暴に巻き上げられ関羽は顔を背ける。
その時髪に打たれる耳が、とある声を拾った。
微かなそれは、聞き覚えのある声のように思えた。
もしかしたら――――関羽は風の方向を確かめ、声の主を探した。
声は、中庭から風に乗って届いたらしい。
二・三度通過しただけのその場所に近付くにつれ、あの声が誰のものであったか分かり始めた。
確信したのはその姿を見てからである。
「だから! あの十三支の部屋にかけた術を解けと言ってるんだ!」
「だからぁ……あれが一番私も楽で確実な方法なんですよ〜。曹操殿には効果覿面、しかしながらお世話役のあなたには何の障害にもならない」
「それが一番の障害だって言ってるんだ!!」
関羽はほっと息を吐いた。
声の主は李典だった。
しかも彼は今恒浪牙と会話している。
関羽は会話の邪魔をしないよう、そっと中庭に降りた。
が、
「駄目じゃないですか〜、関羽さん」
「あ……っ」
恒浪牙に気付かれた。
穏やかな笑みで注意され関羽は足を止め、背筋を伸ばした。
李典は、それからやや遅れて関羽を振り返り――――ぎょっと目を剥いた。かと思えば物凄い勢いで顔を背ける。
「え、り、李典……?」
「関羽さん。未婚の娘が、そんな格好でふらふら出歩いては駄目でしょう。今ここを彷徨(うろつ)いているのは、男の兵士ばかりなんですから」
「そんな格好? ……あ――――きゃああ!!」
今様やっと気が付いた。
汗で濡れた夜着はうっすらと肌が透けて見える。
李典が物凄い勢いで顔を逸らしたのは、胸元だけでなく部分部分で肌が透けていたからだ。
顔を真っ赤にする関羽に、恒浪牙は溜息混じりに窘(たしな)めながら己の外套を羽織らせた。前までしっかりと閉めてやる。
医者として老若男女の裸は見慣れているだろう――――加えて多分いや確実に妻の裸以外どうとも思っていない――――彼だけであったならまだ恥ずかしくなかった。されど、李典に見られたのは非常に恥ずかしい。
「す、すみません……それどころじゃなくって……」
「どうしました、悪い夢でも見ましたか?」
こくりと頷くと、恒浪牙は「それはすみませんでしたねぇ」と頭を撫でてくれた。
「この方にくどくどくどくど文句を言われていましてねぇ。関羽さんを起こしてしまわないように場所を移動したのですが、その方がむしろ良かったのかもしれませんね」
「あ、ちょ……おい、術の件は」
「すみません。患者が精神的に不安定なので私は戻りますね」
慇懃(いんぎん)に謝罪し、恒浪牙は関羽の背中に手を添えた。ぽんぽんと軽く叩かれるだけで、関羽は全身が弛緩して座り込みそうになるくらいほっとした。
長々と溜息をつく関羽が目を伏せ胸を撫で下ろす間に、恒浪牙が李典へ目配せする。
表情を引き締めた彼は頷き、背を向けた。舌を打つ。
「見苦しい奴がいるから見逃してやるが、絶対に術を解かせてやるからな」
「み、見苦しいって……!」
いや、実際にこんな姿を異性に晒してしまったのでは文句も言えない。
それに、李典と口論出来る心理状態でもない。
関羽は口を噤み、恒浪牙の服を摘んだ。
恒浪牙は少しばかり驚いた。
「おや、そんなに悪夢が怖かったんですか?」
「……すみません」
「いえいえ。こちらこそすみませんねえ。心が落ち着く薬湯でもご用意しましょう」
関羽は小さく礼を言って、恒浪牙に支えられ部屋へと戻った。
残された李典が、首を撫でていやに荒(すさ)んだ表情で舌打ちする。
「このまま関羽の面倒ばかり見てると、間に合わなくなるな」
折を見て華佗と一緒に逃がすか。
その呟きは、風が攫っていく。
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