身を乗り出した趙雲を、後ろから肩を掴んで止める者がいた。
 警察官だ。
 穏やかな笑みで趙雲を宥めた細目の彼は幽谷の方へ行かせ、少年達を見渡し、


「じゃあ……お前ら覚悟は良いよな?」


 などと、ドスの利いた声で言い放つ。
 逃げようと警察官に襲いかかった一人は鳩尾を容赦無く蹴られ、跳び箱にぶつかった。ピクリともしない。

 警察官は、柔和な笑みを浮かべたままである。

 それが、恐怖を煽り、少年達に抵抗を許さなかった。


「趙雲さん。その子はそのままあなたにお任せしますね。後日聴取する際にも同席してあげて下さい。……さあさ、あなた達は全員署でお説教ですよ。あなた達をけしかけた女の子達についても吐いてもらいますからねぇ。……人の結婚記念日に面倒かけさせといて無事に帰ると思うなよクソガキ共」


 ……この人は、本当に警察なのか。
 趙雲に渡されたジャージを羽織りながら、幽谷の胸中にそんな疑問がよぎった。

 警察官は倒した少年を軽々と肩に担ぎ、少年達を圧倒的な恐怖で拘束して、そのまま全員を連れていってしまった。体育館を出た後、悲鳴が聞こえたのは、また誰かが逃げようとしたのだろうか。

 幽谷は暫く、開け放たれた扉から見える体育館の出入り口から目が離せなかった。


「あの人は……本当に警察官なのですか?」

「ああ。立派な人だ」

「り、立派……」


 立派という言葉の意味を後で調べてみようか。
 そんなことを、思った。

 だが、お陰で気分は楽だった。
 自分の意思に関係無く流れていた涙を腕で拭い、趙雲のジャージの前を合わせる。ブカブカだ。
 幸いブラウスが破けただけで、その他脱がされなかったスカートやパンツ、放り捨てられたキャミソールやブラジャーは無事だった。

 趙雲が倉庫の外で見張りをしてくれるうちに、無事な下着をを着た。ブラウスが駄目になっているので、趙雲のジャージで鬱血痕だらけの上半身を隠した。


「もう大丈夫です。ジャージは、洗ってお返しします」

「ああ。返すのはいつでも構わない」


 趙雲は幽谷に優しく笑いかけた。

 それを受け、幽谷もほっとする。
 その場に座り込みそうになったのを趙雲が支えてくれた。


「すみません。力が抜けてしまって」

「歩けないのなら、俺が背負って行こうか」

「……いえ、大丈夫です」


 力が抜けたのは一瞬だけ。
 趙雲の腕から逃れ、一人で立てることを示して見せる。


「このまま帰ります。お手数をお掛けして、申し訳ありません」

「送っていこう。まだ、辛いだろう」

「いえ……最後までされた訳ではありませんので」

「俺が言っているのは、心の方だ。俺を見た瞬間、泣いただろう」


 目元を指で拭われた幽谷は、趙雲の顔の変化に驚いた。


「あなたが辛そうな顔をなさることではないでしょう」

「いや、辛い。もっと早くに助けられなかった自分を不甲斐なく思うよ」

「いえ。私はあなたに助けられました。感謝しています」


 幽谷は頭を下げる。

 趙雲は幽谷の様子に、何かが耐えきれなかったらしい。


「……どうしてお前は、そんなにも強がって、誰にも本心を言わないんだ」


 初めて聞く、苛立ちを含んだ声だった。

 幽谷が面食らって固まると、趙雲は悔しそうな、苦しそうな顔で幽谷を見つめてくる。

 幽谷は言葉に窮(きゅう)した。
 弱味を見せたくなくて強がっている訳ではない。
 気を遣って本心を言わないでいる訳ではない。
 何も思わず、何も感じない方が、とても楽なのだ。

 思考すればする程、それ自体が疑わしくなる。自分の中に生まれるものは本物なのか分からなくなる。
 何をしたって何を言ったって、皆が幽谷の全てを偽りと言う。
 拒絶するのも、逆に取られてしまう。
 だから何も生まない無であった方がまだましだった。

 それを言ったとして、きっと、彼は理解してくれはすまい。
 そんなのは駄目だと、否定してくるに違いない。

 なら、私はどうなれば良い?
 どちらも駄目ならどちらにもなれない。
 ますます私が分からなくなるだけ。

 幽谷はもう一度趙雲に頭を下げた。


「今日は、ありがとうございました。またこんな風にご迷惑をおかけすると思いますので、もう私に関わらない方が良いでしょう」


 背を向け、幽谷は足早に体育館を出ていった。
 沢山の生徒が好奇と軽蔑の眼差しを向けてきた。
 幽谷はそれらを無視し、速やかに学校の敷地から出た。

 学校から自宅マンションまでは徒歩で十五分程度かかる。
 バスや電車通学でなかったのは良かった。無駄な視線に晒されずに済む。

 幽谷は十字路に差し掛かり、ふと足を止めた。
 己の手を見下ろす。


「震えている……」


 手が、僅かに痙攣を起こしていた。
 しかも両手どちらにも鞄が無い。
 ……ああ、そう言えば、教室に置いたままだった。
 さすがに、このまま戻らなければ、明日悲惨なことになる。

 幽谷はやおら溜息をついた。
 きびすを返し、また、急ぎ足に歩いてきた通学路を戻ったのだった。



‡‡‡




 幸い、教室には誰もおらず、鞄も無事だった。
 急いで自宅に戻り、部屋着に着替えて趙雲のジャージを洗って外に干す。

 夜には中に入れておいたが、それでも朝にはしっかり乾いていた。

 どうやって趙雲に返すかが問題だった。
 何処の高校かは分かるが、悪評が広まっている幽谷が訪ねれば趙雲の迷惑となってしまう。

 郵送……いや、それ以前に彼の自宅の住所を知らない。
 取り敢えず鞄に入れておき、いつも通りに登校した。

 が。


「あ……」

「お早う、幽谷」

「趙雲、さん……」


 昨日の今日なのに、マンションのエントランスに、緊張した面持ちの趙雲が立っていた。
 幽谷が足を止めると、趙雲は幽谷の腕を掴み、エレベーターの方へと。

 待ったをかけるが彼は「話がある」とだけ返すのみである。

 一体どうしたと言うのか……幽谷は時間を気にしつつ、先程出たばかりの自宅へと戻った。

 趙雲を家の中に招くのは、初めてだ。
 彼が送り届けてくれたのはいつもエントランスまでだった。

 必要最低限の物しか置いていないから片付いてはいるものの、趙雲が玄関に上がってから、幽谷はどうも落ち着かない心地だった。

 クッションを用意してやると、彼はそこでようやっと微笑んだ。

 それに、ほっと力が抜けた。
 気が和らいだのもあり、向かいに座った幽谷から話を促した。


「話、とは?」

「ああ。その前に、申し訳ないが、今日は、俺と共に学校を休んでくれないか。場合によっては、時間がかかってしまうかもしれない」

「え? ああ……はい。それは、一日だけなのですし、構いませんが……」


 前にも何度か休んでいる。
 その全てが担任に連絡したにも関わらず、無断欠席扱いになっていた。
 だから別に、構わない。

 幽谷の了承を得て、趙雲は大きく頷き、一度深呼吸した。

 ややあって、


「もう一度、言いに来たんだ。俺と付き合って欲しいと」

「それは……」

「他校である以上、学校でのお前は守ってやれない。だから、せめて俺がお前の支えになりたい」


 真摯(しんし)に、彼は言う。

 幽谷は返答に困った。
 どうして、昨日の今日で、そんなことを……。


「趙雲さんもご存じの通り、私は昨日、未遂とは言え強姦されました。好き勝手にされた痕がまだ身体中に残っています」

「だが、お前は俺を見た瞬間、泣いた。嫌だったのだろう?」


 いや、何も感じない何も思わないようにしていたから、そんなことを思いはしなかった。
 それは、嘘になる。
 思考を放棄する直前まで、確かに彼らが不愉快極まり無かった。

 泣いたのもきっと、その所為だ。それが、完全に消えていなかったからだ。

 幽谷は趙雲から顔を逸らし、ぽつりと恨み言を吐いた。


「あなたが私に付きまとわなければ、こんな風にはならなかったと、思います」


 趙雲が僅かに腰を浮かせた。


「……それはつまり、俺が原因だと?」

「あなたを思い出してから、あなたが私に構うようになってから、あなたのことばかりを考えるようになりました。いつも、何も考えなければ、何も思わなければ楽だったからそう在ったのに……」


 あの時だって、昔のままなら不愉快だと思うことも無く、趙雲の前で泣いてしまうことも無かったのだ。
 自分自身、己の思考をも疑う毎日のままなら、こんなことには、ならなかった筈だ。


「私は、無で在りたいんです。でもあなたは、お優しい方ですから、そんな私を否定するでしょう。そうなると、私はどうなれば良いのか分からなくなります」

「幽谷……」

「昨日、私はあなたに言いました。私に構わない方が良いと。どうか、その通りにして下さい」


 その方が、楽なんです。
 幽谷は告げる。

 趙雲は暫く幽谷を見据えた。


「……俺は、お前の言葉をとても受け入れられない」

「……」

「前のお前を否定するのは当たり前だ。それではあまりに虚しい。幼い頃、俺と公園で遊んでいた頃はまだ楽しそうに笑っていただろう。それを俺は覚えているのに、幽谷の願いなど聞けない。いや、絶対に聞かない。俺は、お前を俺の知る幽谷に戻したい。惚れた女性のそんな姿など、到底耐えられない」

「……であれば、どうすると?」


 猜疑心たっぷりに問いかけると、彼は真面目に思案する。


「そうだな。前以上にしつこくなろうか。お前に手を出す人間が現れないように」

「……前以上にって……」


 あれ以上、どうなるというのか。
 幽谷は眉間に皺を寄せた。

 趙雲は幽谷をじっと見据え、


「俺は、あの頃からずっとお前が好きだ。お前の為ならば、何でもやれる。だから、お前が嫌がろうとも、俺は必ずお前が笑えるようにしてやりたいんだ。お前を苦しめているのかと、昨夜一人で考えた。だが、やはりどうしても、幽谷の笑顔が愛しいと感じたこの気持ちは変わらない」

「私には、そういった感情は分かりません」

「今はそれで良い。まずは、お前を取り戻してくれれば、俺は嬉しい」


 趙雲は腕を伸ばし、幽谷の頭を優しく撫でた。

 ああ、そう言えば、公園で遊んでいた時も、よく、こんな風に頭を撫でてくれた。
 幽谷が目を伏せると、趙雲が小さく笑った。


「きっと、お前を取り戻すまで、そう長くはかからないさ」

「……」


 否定しようと、口を開きかけた幽谷は、趙雲の微笑みの優しさに圧されて、すぐに閉じた。
 趙雲が真摯にどうにかしようとしているのは疑いようもない。

 幽谷は上目使いに趙雲を見上げ、視線を床に落とした。

 思考すら疑わなくて良くなれば、どんなに良いか。
 長くはかからない――――そんな言葉に、僅かに胸が膨らんだような気がする。

 駄目だ、期待してはいけない。
 期待して駄目だったら、落胆が大きい。
 それでまた嫌になるのなら縋ろうなんて思ってはいけない。

 幽谷は、己に言い聞かせる。

 揺れる、揺れる、揺れる。
 揺らぐ己に幽谷は困り果てた。

 確立しきれない彼女から、趙雲はいとも容易く余裕を奪っていく。


「今日は、電車で遠い場所に出掛けよう。景色の綺麗な場所を見つけたんだ」


 趙雲はそう言って、立ち上がった。
 そっと幽谷を立たせ、手をしっかりと握り締める。

 その確かな温もりに、幽谷は視線を床へと落とさずにはいられなかった。
 何だか、とても、いたたまれない。

 身体が熱くて堪らない。

 前よりも、酷くなっている。
 嗚呼どうしよう 。
 趙雲のなすがままになりながら、幽谷は五月蝿い胸に手を当てた。

 身体は、いつまでも鎮まらぬ。



.

- 39 -


[*前] | [次#]

ページ:39/50