そうだ。やっぱり私、独りではなかったわ。
 誰か、一緒に遊んでいた子供がいた。
 それは、施設の子だったかしら。
 違う。
 近所の男の子だった。

 名前は、名前は……。


「趙雲」


 趙雲が、もう一度、名乗る。

 その一言が、幽谷の記憶に立ち込めていた霧を一息に吹き飛ばした。

 嗚呼、そう。
 その子の名前は、趙雲だった。
 ということは今目の前にいるのはその男の子なのか。
 彼が、十数年も前に言ったことを果たしに来たなんて。
 幽谷は顎を落とし目を丸くする。

 ……覚えていたとしても、こんなに変わっていてはきっと分からなかった。
 小さな子供が十数年経てば、がらりと変わってしまうものだ。
 女の中では身長の高い幽谷より高い趙雲は、細身ではあるが身体付きも顔立ちも男らしく頼もしくなり、昔の面影などほとんど無い。

 思わず、一歩後退した。
 趙雲は幽谷の腕を掴んだ。


「その反応は……思い出してくれたんだな」

「あ、いえ……はい。ですが、先程の約束は、確かに言われましたが……私は、了承していませんでした」


 いや、了承していないと言うよりは、あまり良く理解していなかったと言う方が正しい。
 更に言えば、趙雲は言うだけで満足して幽谷の返事を待たずに完結させてしまった。
 それを果たしに来たと言われても、幽谷は承服しかねた。

 趙雲もそう言えばそうだったかと今更気付き、思案する。

 ほっとしたのもつかの間、


「……ならば、お前を了承させれば良いんだな」

「え?」

「分かった。早速明日から、手を尽くしてみよう」

「え、ちょっと……?」


 この人、何を言っているの?
 困惑する幽谷の肩を掴み、趙雲はそっと顔を近付けた。
 額に口付け、笑う。


「家まで送ろう」

「え? あっ、あの……?」


 趙雲は幽谷の手を握り締め、公園を出た。
 幽谷は、頭が追いついていけず、情報の整理に手一杯で彼のなすがままだった。



‡‡‡




 翌日から、趙雲は幽谷にやや強引に接するようになった。
 毎日、放課後に校門で待っていた彼は、幽谷が嫌な予感がして裏門から逃げようとしてもすぐに察して回り込み、簡単に街へと連れ出してしまう。
 幽谷が逃げることを諦めるまで、趙雲は絶対に逃さなかった。

 しっかりと手を繋いで歩き回り、夕食を適当な店で奢り、家まで送る。
 その間、度々こちらに対する好意を見せつけられた幽谷は、不慣れな状況に困惑するしか無かった。
 毎日毎日そんな感情を向けられているものだから、段々と彼女も趙雲を異性として認識せざるを得なくなっていく。

 趙雲に再会するまで、思案に更けることを嫌がっていた筈だのに、最近では彼に対して抱きつつある感情のことばかり考えている。
 趙雲に手を握られると、もう毎度のことなのにいちいち驚いて、恥ずかしくなる。全く慣れない。
 彼の匂いが香るだけで息が詰まるし、呼吸の仕方も忘れてしまいそうになる。
 彼の笑顔を見た瞬間、全身の感覚が失せてしまう。
 彼の近くいるだけで心臓か狂ったように早鐘を打ち、全身が燃える。
 これは、恋愛感情なのだろうか?

 分からない。
 そんなの、今まで感じたことが無いし、友人もいなかったから経験を聞くことも無かった。
 だから、彼女は大いに戸惑った。

 趙雲は自分と交際することを了承させるべく、放課後校門に現れる。
 それくらいの恋情が、彼にあるということなのだろうか。

 あの人に訊ねてみた方が、手っ取り早いかもしれない。
 ……が、そんなこと、恥ずかしくて聞けなかった。

 だからといって、自身が理解出来るまで、そんな状態で時を無駄に過ごすのも、趙雲に失礼な気がする。

 ……それに、そろそろ周りも面倒なことになりつつある。

 見目も性格も申し分ない趙雲が幽谷にばかり構うのが面白くない女子が、この学校には多い。
 何人の女子が彼を遊びに誘って断られたのか分からない。多分、趙雲のことだ、真面目に申し訳ないと思いながら全てを断っていると思う。
 それを何度も繰り返されれば、思い通りにいかない苛立ちが、気味の悪い幽谷に向けられるのも当然のことであった。

 だが、毎日のように嫌がらせを受けていては、さすがに気も滅入る。
 一番堪えたのは猫や子犬の死骸を机の引き出しに入れられていたことだ。蜂が教室に入っただけで騒ぐ女子が手を下したのではなかろうが、自分達の感情を理由に誰かを使って関係無い生き物を殺めるのは、同じ生き物の人間として如何なものか。
 ナイフかカッターか、刃物で首を深々と切られた彼らに謝罪しながら、丁重に弔(とむら)った。
 彼らが死んだのすら、化け物幽谷の所為となった。

 違う、と否定する気力も浮かばなかった幽谷は、何も言わずに聞き流した。
 それが相手の神経を逆撫ですることも、分かっていた。何を言っても同じ結果だったなら、言うだけこちらが疲れるだけだ。

 嫌がらせは毎日続く。エスカレートする。
 それでも、幽谷は何も仕返ししようなどとは思わないし、趙雲に助けを求めようともしなかった。

 それも、彼女らにとっては良い子ぶっている風に見えたみたいだ。

 とある日の放課後、体育館倉庫に呼び出された。
 リンチか、強姦か――――どうせ、そのどちらかだろう。
 怒りも絶望も無い。冷たい諦念が、僅かな気力も削いだ。

 趙雲はやはり、校門に来ていた。
 教室の窓から諦めない女子生徒達に誘われている姿が良く見えた。

 今日は、一緒に帰れそうにないわね。
 いや、もう会えなくなるかもしれない。
 リンチされれば見るに耐えない姿になるだろうし、強姦も、無理矢理でも他人に犯された女を誰が心から愛せるだろうか。

 なら、これで終わりか。
 そう思った胸が、締め付けられるように痛かった。

 足取りはとても重かった。行きたくない、逃げたいと、自分の心が叫んでいるのを、他人事のように認識する。
 歩みは遅いが、幽谷は確実に体育館へ向かった。
 趙雲の目を避けて一人訪れた体育館倉庫に足を踏み入れた。

 刹那、扉が勢い良く閉められる。校則で教師や部活の部長でなければ借りられない鍵は、かけられなかった。
 しかし。
 幽谷が逃げぬように、物影に隠れていたらしい、他校とおぼしき男子生徒が扉の前に集まった。

 不気味がる顔、好奇の顔、下卑た顔――――嫌悪すべき彼らを前に幽谷は感情を抑え込み落ち着き払っていた。
 ここで怯え騒ぎ立てることで彼らを喜ばせるのなら、最後まで落ち着き気味悪がられた方が良い。そうすればすぐに終わるかもしれない。

 けれど、一人がこちらに近付いてきた途端、足が勝手に退がってしまった。


「へえ……やっぱ化け物でも怖いんだぁ?」

「何されるか分かってる? そんなに怖がることでもないよ。あんたもすぐに気持ち良くなって腰振りだすだろうしさ」


 小馬鹿にしたように、彼らは笑う。

 幽谷はぼそりと呟いた。


「下衆……」

「その下衆に今から犯されるんだよ、お前は」

「……っ!」


 頭を鷲掴みにされ堅い地面に放り投げられる。体勢を整えられずに身体を強(したた)か打ち付けた。
 痛みに呻く幽谷の身体に少年達が手を伸ばす。
 振り払ったのは反射だ。

 ぎろりと睨めつければ一瞬、彼らは鼻白んだ。
 しかし互いに小突き合って気を取り直し幽谷の身体に触れる。

 太腿からスカートの下に侵入した一人が感嘆の声を上げた。


「うわ、すっげーすべすべ。柔らけー」

「マジで? ……うぅわ、こいつ触り心地最高なんですけど。マキよりも楽しめるんじゃね?」

「マキかわいそー。彼氏にこんなこと言われてら」

「いや、マジマジ。これならマキから乗り換えても良いかもしんねえわ。化け物じゃなかったらだけど」

「それは同感。化け物じゃなかったら、大事にしてやるんだけどなー」

「嘘付け、浮気すんだろが」


 好き勝手言う。

 幽谷は鳥肌が立っている。それすらも、彼らには良いのか。馴らすように両足を撫で回す。
 かと思えば一人が胸を掴み、歓喜する。

 気持ち悪い。
 ただただ不快だ。
 だが抵抗する気力も無かった。
 抵抗してもこの少年達には無駄だと分かっている。簡単に押さえつけられてしまう。
 幽谷の何もかも、他人にとっては嘘になる。
 嫌だと言っても、反対に良いのだと思われるだろう。
 もう良い。
 どうにでもなってしまえ。
 なげやりに、幽谷は目を伏せ思考を遮断した。

 何も感じなければ、何も思わなければ良い。
 今感じている不快感だって、抑え込むのではなくて、捨ててしまえば楽だ。
 辛くも悲しくもなくなる。

 私は、ずっとずっと、そうだったじゃないか。
 元に戻れば良い。
 そうすればじきに終わる。
 終わればそこまでだ。
 趙雲にも会わなくなる。
 また、不気味と罵られる毎日に戻るだけ。私の全てを虚偽と言われる毎日が戻ってくるだけ。

 ただ、私はつかの間の夢を見ていただけなのだろう。
 今私が置かれている状況は、夢から覚める為の劇薬なのだ。
 幽谷は自らに言い聞かせる。
 違う、と否定する奥深くの自分を圧し殺して、身体を這い回る汚い物から意識を逸らし続けた。

 趙雲の姿が、瞼の裏に浮かんでは消える。
 彼に助けを求められたら、どんなにか楽だったろう。
 ……駄目だ、何も考えてはいけない。
 今ここであの人の名前を叫びたくない。
 呼んだら、きっと、この状況に耐えられなくなる。拒んで抵抗して、泣くかもしれない。
 少年達を喜ばせてしまう。嫌がっているのではなく、むせび喜んでいるのだと。
 必死に、心を圧し殺す。ただただ、無で居続ける。

 少年達は幽谷の身体が余程気に入ったらしい。
 ゆっくり時間をかけて幽谷の上半身を露わにし、肌に手を、舌を這わせた。
 時に吸い付き、赤い点が肌に映えるのを見、ごくりと咽を鳴らす。

 柔らかい乳房を乱暴に揉みしだく少年は、やはり己の彼女よりも良い身体をしていると気持ち悪い笑みで呟いた。しまいには、付き合わないかと言ってくる。
 もう、思考を放棄している幽谷は反応しなかった。

 少年達は存分に堪能すると、待ちかねたようにスカートのホックに手をかけた。


「さて、誰からヤる?」


 その問いに、全員が我先にと募る。


「おいおい、お前らがっつきすぎだろ……」

「そう言うお前だってもう元気じゃねーか!」

「当たり前だろ。こんな上玉、なかなかいねえ」


――――その時であった。

 扉が乱暴に開かれたのである。


「幽谷!!」

「なっ……」

「げ、マジかよ……!」


 趙雲であった。
 その必死の形相を見た瞬間、視界が滲んでいく。
 頬を熱いものが流れた。
 全身が弛緩した。

 趙雲は幽谷を認めた途端、表情をより険しくした。


「……お前達、」

「はいはい、ストップです」



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