博望坡の戦いの後、関羽は暗鬱とした気分で村の外を歩いていた。
 宴に参加する気分ではない。劉備とも――――何となく、顔を合わせづらい。
 少しでもこの鬱いだ気分が晴らせないか、そう思って周囲を散策することにした。

 が、考えることは博望坡の戦いで暴走した劉備の生み出した惨劇ばかり。
 兵士達の怯えた悲鳴、懇願、恐怖、憎悪……未だに鮮明に思い出せる。
 関羽は己の身体を抱き締めてその場にうずくまった。
 ……怖かった。
 正直を言えば、そう。
 また劉備が大きな過ちを――――今度は取り返しのつかないことをしてしまうのではないか。
 猫族の為に自ら苦しい選択をした劉備を守りたいと思う。思うけれど、守れなかった時自分がどうすれば良いのか分からなくて怖かった。

 こんな自分が情けない。
 嘆息し、関羽は再び歩き出す。
 冷めた夜の空気は、関羽を責めるように肌を容赦なく突き刺した。
 冷えるどころか、どんどん自己嫌悪に陥ってしまいそうだ。

 でも、帰る気にもなれなくて。
 ふらふらと歩き続け――――少し離れた山の近くに至ってこれはいけないと足を止めた。

 何とはなしに夜空を仰ぎ、ふと山頂に目が行く。

 あら……山頂に灯りが点いてる。
 山火事ではなさそうだ。
 もしや、曹操軍の間者?
 関羽は得物は無いが、放っておくことも出来ずに身体の向きを変えた。注意深く登り、息を乱して山頂を目指す。だいぶ高いし、山道は険しかった。しかしもし曹操軍の間者だとしたら見過ごせない。

 出来るだけ急いで、山頂に登り詰めた関羽は、目の前の光景に目を疑った。


「何……これ」


 山頂は、黒い靄(もや)が充満していた。辛うじて靄の奥で輝く炎が照らしている為朧ながらに周囲の様子が見える。麓から見える程だったのに、登っている間に随分と弱まっている。
 胸が詰まるような、重苦しいそれに、関羽は既視感を覚えた。
 何処か、さほど遠くない過去にこれと良く似た気配を感じたような覚えがある。

 何処だったか――――ああ、そうだわ。
 今日、劉備が金眼の封印を解いて暴走した時に感じた気配と似ているんだわ。
 でもどうして?
 関羽は意を決して靄の中に足を踏み入れた。注意深く慎重に周囲を見渡しながら奥へと進む。

 山頂の開けた場所は、それほど広くはない。ごつごつした岩場は気を付けなければすぐに断崖だ。
 足の感触を頼りに一歩一歩確認しながら歩いていった関羽は、不意に見慣れた姿を見つけた。
 こちらに背を向けてうずくまっているそれは、体格の良い青年だ。その身体に右から寄りかかっているのは炎の塊。


「周泰!!」


 関羽は目を剥いて彼に駆け寄った。
 肩に手を置こうとしたその刹那、炎の塊から触手のような物が延び関羽の手首を捕らえる。


「あ!」


 それは、手だ。ごうごうと燃え盛る手。
 咄嗟に払おうと振った関羽だったが、ややあって全く熱が感じられないことに動きを止めた。
 それだけではない。重かった身体が、胸が、とても軽くなっているではないか。

 どういうこと……?
 手から視線を動かし、炎の塊を捉える。
 え、と声を漏らした。
 炎の塊は、いつの間にか関羽よりも小さな少女になっていたのだ。勿論、髪も身体も手同様燃え盛っている。人ではないのは明らかだ。

 彼女は関羽を厳しい眼差しで見上げ、静かに首を左右に振った。


「触ってはいけない」

「え」

「今のこの子は抑えが効かないの。認識されると肉を喰われてしまうわ」


 肉を、喰う?
 周泰を見下ろし、関羽は困惑に瞳を揺らした。
 そんなまさか。周泰は狐狸一族の人間だ。人を食べるなんて、有り得ないわ。


「あの、あなたは一体……」

「それはあなたの知るところではないわ。このことは忘れて、早く仲間のもとへお帰りなさい。明日には、この子も元の通りだから」

「元の通りって……」


 戸惑う関羽の前で、周泰が低い呻きを漏らした。獣の唸りのようなそれはしかし酷く苦しげで、このまま放置するなんて出来る筈もない。
 それにこうなっている原因も、この黒い靄だとするなら……もしかしたら金眼の力に関係があるのかもしれない。


「放っておけないわ……」

「だけどこの邪気の中あなたの無事は保証出来ないわ。気が狂ってしまっても責任は取れないわよ」

「でも、……あ、そうだわ。何かわたしに出来ることは無い? 周泰の具合が少しでも良くなるような……」


 少女は関羽を暫し見つめ、はあと嘆息した。


「だったら……山の中腹で待っていなさい。終われば周泰が行くわ」

「え……だけどそれじゃあ、」

「あなたに出来ることは何も無いの。あなたはただの呪いを受けた人でしょう。不要な分の邪気を祓う力も持っていないのに、周泰の為に何かが出来る筈がないじゃない」


 少女は「良いから行きなさい」と冷たく言う。有無を言わさぬ口調である。

 関羽は眦を下げて、頷く他無かった。
 不要な邪気を祓う、力……なんて、ますます訳が分からなくなった。
 周泰が大丈夫なのかも分からないし……あの子のことも分からないままだ。
 あれが、狐狸一族では当たり前のこと、なの……?
 ああ、駄目だ。ますます分からなくなっちゃう。


「ああもう早く行きなさい! 蹴飛ばされたいの!?」

「あ、は、はい!」


 怒鳴られ、萎縮して、関羽は登ったばかりの山道を駆け下りた。



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