趙雲


※現代



 魂に染み付いた記憶は、もう遥か過去のことである。
 自分以外に遠すぎる過去を知る者はいない。いや、それ以前に自分のようにこの時代に生まれ育ち、同じ身体付き、顔付き、声、考え方をした人間に一人として会ったことが無い。
 己だけが過去から現在に連れてこられたかのような、イレギュラーのように思えてならなかった。

 誰か、受け継いだ記憶を共有出来る存在が欲しくてあらゆる場所を探して回ったこともある。
 今ではすっかり諦めているが、幼い自分はその異常さを悟り、決して自分だけではないのだと安心したかったのかもしれない。

 それが今も心に残っていたのだろう。

 その姿を見た時、情けないが涙が出そうになった。
 胸が刃物に貫かれたかのように鋭く痛み、そこから広がる熱が自我を侵食していく感覚が、しかし心地好く、懐かしさを覚えた。

 この感情を、俺は覚えている。
 生まれたその瞬間から、恐らくは大事に大事に脳内にしまっておいていた。
 己ではない過去の己が歩んできた道、その中で感じたこと、その中で出会った者達────共有者を求め、諦めた。……これは自分だけが覚えていることなのだと。そうして孤独を受け入れた。

 それが今になって、嘗て仲間として過ごした、大切だった存在を見つけたのだ。

 記憶の中に彼女は鮮烈に残されている。
 だが彼女は覚えていない。そのままの姿に成長しながら、何一つ、前世を覚えていない。

 だからこれは、表に出さずに置こうと決めた。
 そうすれば彼女────前世の俺が愛した女性が困ってしまう。見つけただけで十分じゃないか。

 嬉しい衝撃を受けたあの日、趙雲は努めて笑顔を浮かべ、彼女へそっと右手を差し出した。


『初めまして。俺は趙雲。名前を窺っても構わないだろうか』

『……幽谷と申します』



 幽谷────そう、幽谷だ。
 嘗(かつ)て強く恋い焦がれた娘が、巡り巡ってこれから、同じ大学の、同じ学部に通うのだ。
 趙雲は歓喜する。これは運命だと、恥ずかしげも無く断じた。

 このチャンスを生かさずどうする。
 ここにはもう趙雲の妨げになるような男はいないのだ。
 幽谷が覚えていないのならあの男のもとへ行くことも無い。

 だから、趙雲は幽谷に笑顔を向ける。
 昔の彼女が趙雲以外の男と身を固めこととなり、一度は潰えた願いだ。
 それが今、得られなかった彼女の心を手に入れられるやもしれぬ。これに歓喜しない筈がない。

 趙雲は同じ学部で、初日から隣の席に座って授業を受けたこともあり、同じ授業を受けるのであれば必ず最初に幽谷に声をかけ隣を確保する。
 選択科目ではほとんど一緒にならない為、必修科目の授業で接触を持つ他無かった。

 日が経てば幽谷も次第に趙雲に慣れて来る。
 赤と青のオッドアイの所為か周りから敬遠されがちな彼女は、自らも他人と距離を起きたがった。目についてあまり良い記憶が無いらしい。

 とても美しいのに、彼女の魅力的な双眸の良さが分からないなんて勿体無い。
 趙雲は、幽谷の目などいつまでも見ていられる。何時間だって飽きが来ないと断言出来る。

 記憶の影響だけではない。
 現代を生きる趙雲もまた、幽谷という女性に惹かれているのだ。
 幽谷は美しい。
 彼女の美しさを理解出来ぬ者達の方が趙雲には解(げ)し難(がた)い。

 趙雲の立場は、幽谷を独占出来る贅沢な場所であった。
 なんと、幸せな現世(いま)。


「幽谷。良かったら俺の行きつけの喫茶店に行かないか」


 授業の終わりに、趙雲幽谷を誘う。お互い、この後に授業は入っていない。そのまま帰るなら何処かで、二人きりで過ごしたい。
 そんな下心など幽谷は知らず、予定は何も無いからと二つ返事で了承してくれた。


「ですが、所用がございますので、少しお待たせしてしまいますが」

「分かった。では、西門で待っている」

「ありがとうございます」


 幽谷は頭を下げ、小走りに去っていく。趙雲を待たせまいと小さな気遣いに、嬉しさが込み上げた。

 幽谷に言ったように西門で待つ。南、北、東と違い、西門は出てすぐ、県道を挟んで静閑な住宅街が広がっている。
 バス停や駅に近い東と北、学生寮のある南に比べ、人の往来は少ない。
 あまり人の多い場所に寄りたがらない幽谷の為、二人で待ち合わせる時はいつも西門を利用していた。

 遊びへ誘うのは、決まって趙雲からだ。
 幽谷は自分から望みは言わないし、極端に人を避けたがるから独り暮らしのマンションからは、大学以外には滅多に出掛けない。
 以前話をした時には自炊していると彼女は言っていた。
 が、どのように食材を手に入れているのか、その時本人は言わなかったし、親しい趙雲でも分からない。幽谷はパソコンが不得意だからネットで取り寄せている訳ではあるまいと、予測はすれども真実は分からぬままである。

 出不精の彼女でも行けそうな場所を探して、誘うのだった。

 先んじて西門に至り、喫茶店の後の予定を考えていると、不意に呼ばれた。


「趙雲?」

「……?」


 聞き覚えのある声だ。今の自分でない記憶を掠めたそれは後方────校舎の方から聞こえた。
 門柱に寄りかかっていた趙雲は身を離して振り返り、瞠目。

 少女だ。近くの高校のブレザーを着ている。
 見慣れた茶色の髪をストレートに胸の辺りまで流し、愛らしい黒の丸い瞳が趙雲を見上げている。
 記憶と合致する面立ち。
 違うことと言えば髪型と、耳くらい。


「関羽……」


 思わず、呟く。呟いてはっと口を押さえた。

 しかし、少女は嬉しそうに顔を綻ばせるのである。


「やっぱりそう。趙雲。久し振りね」

「ああ……何故、」

「わたしも憶(おぼ)えているのよ。昔のこと」

「えっ……」


 ひやり、とした。
 嬉しくない訳がない。
 されども喜べないのは、現在を壊される恐怖故である。
 昔の記憶があると言うことこれすなわち幽谷と愛し合った男も知っているということ。

 関羽がもし、その男を見つけ出し、幽谷と巡り会わせようと考えたら。
 なんと、恐ろしいことか。


「趙雲? どうしたの?」

「あ……いや、まさか俺以外に記憶している者がいるとは思わなかったんだ」


 何とかそう言うと、関羽は納得した。悪戯っぽく笑って、小首を傾けて見せた。


「びっくりしたでしょう? わたしも、声をかけてはみたけれど、覚えてないだろうと思ってたの」


 懐かしい顔を見て、声をかけずにはいられなかったのだそうだ。
 それが、己と同じく記憶を持っていると分かり、感無量の様子である。
 ご機嫌の関羽に、趙雲も笑みを深めた。

 二人は人気が無いこともあって、過去の更に過去の話に花を咲かせた。
 この世に生まれて初めての思い出話は思いの外盛り上がった。
 途中幽谷の話題も出てひやりとしたが、そこは関羽。出会ったら今度こそ結ばれたら良いわね、と雑じり気の無い善意からそう言った。
 この言葉を聞いて、話してしまおうかと思う。話せば彼女も趙雲を応援してくれるのではないかと、期待を抱いた。


「関羽、実は────」

「────趙雲さん」

「あっ……幽谷」


 所用が済んだのか、幽谷が現れる。
 彼女を振り返り軽く瞠目した。
 どうしてか、幽谷が機嫌が悪いように思える。
 むっとした顔で関羽を見つめ────。


────まさか。


「幽谷、彼女は……」

「お取り込み中のようですので、私は失礼致します」


 幽谷は一礼し、足早に歩き去った。

 関羽はこれに驚き、しかし笑みを浮かべて趙雲を見上げた。


「幽谷もあなたの近くにいたのね。頑張って、趙雲」

「……ああ。ありがとう、関羽」

「ほら、早く行かないと幽谷が行ってしまうわ」


 関羽に背中を押され、趙雲は笑って頷く。小走りに幽谷を追い掛けた。

 ああ、駄目だ。
 幽谷の見せた小さな妬心を思い出すだけで、顔がにやけてしまう。

 幽谷にやけてしまう。追い付くまで、抑え込まなければならない。



●○●

 報われない趙雲に良い夢を見せようということで。



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