劉備の意向を貫いた、新野の民を連れての旅路は遅く、間も無く曹操に追いつかれてしまうだろう。

 周泰や張飛と共に殿(しんがり)を担う関羽も、決して楽観視してはいない。曹操は執念深く、容赦がない。追いつかれれば民は惨たらしく蹂躙されるであろう。
 その時は、何が何でもわたし達が戦えない人達を守らなければ。
 大丈夫。周泰や張飛もいるわ。それに列の中央には恒浪牙さんや幽谷がいる。最悪の事態には、ならない。させない。
 不安に揺らぐ己に言い聞かせ、偃月刀を握り締める。

 腹に力を込めて唇を引き結ぶと、張飛が心配そうに顔を覗き込んできた。


「姉貴。大丈夫か」

「ええ。大丈夫。張飛は? ここのところ満足に休めていないでしょう?」


 張飛は苦笑し、首を左右に振った。周泰を一瞥し、指差しながら答えた。


「夜の見張りとか、途中で周泰が代わってくれてんだよ。だからオレよりも姉貴や周泰の方が休めてないと思う」

「周泰も?」


 ちらりと周泰を見上げるが、彼は二人の会話を聞いていないようだ。後方を振り返り目を細めて沈黙している。
 関羽は彼に歩み寄り、そっと顔を覗き込んだ。


「周泰」

「問題無い」


 いや、話は彼の耳にもちゃんと入っていた。
 即座に返された答えに関羽は一瞬言葉が詰まる。けれど気を取り直してもう一度彼を呼んだ。


「わたしも休むから、今夜はゆっくり休んだ方が良いわ。今夜の見張りは趙雲達に頼みましょう」

「その必要は無い。休む程の疲労は無い」


 周泰は頑なだ。狐狸一族の長から受けた命に忠実過ぎて、取り付く島も無い。
 ……いや、もしかしたら猫族とのぎこちない関係に気を遣っているのかもしれない。
 あれから、皆表面上は親しくやろうとしている。
 だがどうしても、壁があるのだ。
 四凶に対する壁が。
 だから休まずに距離を置こうとしているのかも……。
 関羽が更に言葉を尽くそうとするのを見かねて、張飛が周泰の背中を軽く叩いた。


「周泰。そうしろよ。幽谷だって、お前が無理してるかもって心配してると思うぜ。それに、何か遭った時、お前のこと頼りにしてるんだからさ。そん時頼りにならなかったら笑えねえよ」


 有事の際、周泰に限って頼りにならないことは有り得ない。
 分かっていながら張飛は言う。

 周泰は一瞬だけ眉間に皺を寄せた。
 じっと見上げてくる関羽と張飛を交互に見、やがて、やおら溜息をついた。


「……では、そうする」

「おう! じゃあ姉貴、寝る時までちゃんと休んでるか、監視しといてくれよ。オレと趙雲達で見張りしておくからさ」

「ええ。分かったわ。任せて。張飛達も、気を付けてね」

「分かってるって」


 余程心配だったのだろう。
 張飛は我がことのように安堵して、笑った。

 周泰は無表情だが、何処か不満そうだ。



‡‡‡




 やはり周泰は、関羽達の思うように休もうとはしない。
 野営地近くの木の上に座って休みながら見張りをしようとしていたのを劉備と共にひきずり降ろして、劉備の話し相手という名目で天幕に連行した。

 幽谷が心配するからという言葉と、劉備の頼みには、周泰は弱いらしい。前者は兄として、後者は母と慕う長の命令があるからだ。
 二重の弱みを上手く使って、二人は周泰を休ませることに成功した。


「ねえ、周泰。君は鳳凰の、凰の方の四霊なんだよね。君の中にいる凰はどんな方なんだい」


 劉備は、少し言いにくそうに問いかける。けれど、興味には勝てないらしい。少しだけ目が輝いている。

 周泰は関羽を見、何事か考える。
 ややあって、


「彼女よりは、背が低く、見た目が若い」

「関羽よりも? じゃあ、僕と同じ歳くらいかな。見た目だけなら、だけど」


 周泰はこくりと頷く。


「そうなるでしょう。……あとは、人によって態度が違うような……たまに蹴るか、殴るか……愛を叫ぶ」

「え、蹴る? 殴る? 愛を叫ぶ!?」

「瑞獣が……」


 いえ、そう言えば、わたし────。
 そこで、関羽は記憶を手繰る。
 博望坡で周泰が一人隠れて黒い靄の中で苦しんでいた時、その側に炎の身体の少女がいた。周瑜の言葉と合致する。
 もしかしてあの子が凰?


『ああもう早く行きなさい! 蹴飛ばされたいの!?』


 かの鳳凰の片割れが、あんなことを言ったのか。
 いや、それとも関羽がのろのろしていたからあんな風にキツく言ったのだろうか。
 瑞獣の印象とは、離れている気がする。もっと、恒浪牙さん────本性は除く────みたいな穏やかで時に厳しい、冷徹で平等で、神聖な存在だと思っていたのだけれど。

 それが、人によって態度が違っていて、たまに蹴る殴る……よく分からないが愛を叫ぶ、と。

 むしろ気になって仕方がない。


「何だか、情熱的な方なんだね」


 劉備が苦笑混じりに言うのに、周泰が一瞬だけ口角を弛めた。
 ……また、笑った。
 ほんの瞬きのうちの、微妙な変化だったけれど、確かに笑った。
 どきりと心臓が跳ね上がり、急速に全身が熱くなる。同時に、何故か苛立ちめいた感情が浮かんでくるのだ。
 その笑顔を、わたしにも……いいえ、わたしだけに向けて欲しい────。

 なんて、何を考えているんだ。
 誰も気付いていないのに、恥ずかしくなって胸を押さえて俯くと、劉備が怪訝そうに関羽を呼んだ。


「どうかした? ……って、顔が赤いよ。大丈夫?」

「え? あっ、いえっ、何でも、何でもないのよ。劉備。ただ、周泰が最近よく笑うから、何だか猫族に溶け込んでくれているみたいでとても嬉しくて」


 咄嗟に言った訳は、強(あなが)ち嘘ではない。
 周泰が笑顔を見せる。見せて良い場所になったのだ。猫族の中は。
 嬉しくない訳がない。ただ、自分の中の慕情が前に前に出てくるだけで。

 劉備は微笑んで関羽の言葉に同意した。


「そうだね。周泰が笑ってくれると、心を許してくれたように思えて、僕も嬉しいよ。折角一緒に行動してくれるんだもの」


 混じり気の無い笑顔で言ってくれる劉備に、少しだけ心が痛む。
 視線を逸らし、関羽は額を押さえた。これは一方的な感情なのだから、あくまで周泰は仲間なんだから……それに今はそれどころじゃないんだから、しっかりして、わたし。
 自分に言い聞かせる。


「いつか会ってみたいね。名前は、訊いても大丈夫?」

「……、……赫蘭、と」

「かくらん……赫蘭。綺麗な名前だね」


 周泰は目を伏せ、小さく頷いた。

 けれどふと、何かに気付いて立ち上がる。
 寸陰に様子の打って変わった彼に関羽も劉備も互いに顔を見合わせた。


「周泰? どうし────」

「……追いついたか」


「長はここに」周泰は足早に天幕を出て行った。
 関羽も慌てて飛び出す。残れと言われた劉備も、関羽に続いて外に出る。

 何が追いついたのか、考えるまでもない。


「もう、曹操軍が……」

「劉備、あなたはここにいて。曹操軍はわたし達で追い払うから」


 周泰はすでに歩き出している。
 関羽は不安げな劉備に笑顔を向け彼を追いかけた。

 と、周泰に関定が駆け寄ってくる。


「周泰! 曹操軍だ!! 張飛と幽谷がもう曹操軍の方へ向かってった!! 後から兵士を連れて趙雲も行くって!!」

「心得た」

「じゃ、オレは皆を避難させるからな!」


 関定はおおわらわで駆け出す。今頃蘇双や他の猫族も、人間達を避難させる為に動いている筈。
 その為の時間を、寡兵(かへい)で稼がなければならない。
 ぐんと速度を上げた周泰に、関羽は大急ぎで追いついた。


「周泰、わたしも行くわ」


 しかし、周泰は足を止め、関羽の肩を押す。


「長の護衛を」

「でも、」

「長の力がいつ暴走するか分からぬ。そこに、お前がいなければ抑止力が無い」


 周泰の言葉に関羽は反駁(はんばく)出来なかった。
 劉備が暴走した時、彼がどんな残虐行に移るか分からない。その犠牲が曹操軍だけに留まるかも、断言出来ない。
 その危険性を僅かにでも回避する為には、抑止力となり得る人物が劉備の側にいなければならなかった。

 それは、関羽とて分かっていること。関羽が最も適任であると、分かっていること。

 けれど────。


「長を頼む」

「あ……」


 周泰は関羽を置いて足早に立ち去る。

 その背を見ていると、どうにも嫌な予感がしてならなかったのだ。
 このまま彼を行かせてはならないような、そんな気がしたのだ。

 どうしてなのかは、分からない。



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