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『利天兄さん、砂嵐姐さんが呼んでやすよ』
声が聞こえる。
安呂(あんろ)だ。濁声で、大酒呑みで、泣き上戸の。
安呂はへらへら笑いながらこちらに歩み寄ってくる。その手には小さな小さな男児。せがんで地面に降りると、よたよたと危なげに歩いて足に抱きついてきた。にぱっと花が咲いたように明るく笑う。
つられてこちらも表情が弛んでしまった。
『行ってこいよ。こっちにゃ恒浪牙がいる。この後は俺達だけで良い』
槌(つち)を振るう腕を止めずに言うのは呀当(がとう)。五人の妹を守って戦乱を生き抜いてきた所為か、年上にも敬う態度も取らず対等に接しようとする。そうやって、良く仲間達からからかわれ遊ばれるクソがつく程真面目な少年だ。
隣で板を押さえる恒浪牙が、呀当に賛同する。彼はつい先日最愛の妻を亡くしたくせに、気を遣わせぬ為に誰にも本心を見せやしない。ただ一人喪失感に耐えている。
『後はこれらを組み立てるだけでしょう? なに、練辰(れんしん)や項匕(こうひ)が来てくれることになってますからねえ。来なかったら髪引っ張って私が連れてきますからお構い無く〜』
にへらと言ってのける。
《俺》は小さく笑って彼らに感謝し、男児を抱き上げた。母親譲りの青い大きな目が嬉しげに輝くのが眩しい。
『華玄。お前の親父は何処だ?』
『あっち』
指差す先に、俺は足を踏み出した。
‡‡‡
中庭。
彼は一人竹簡を広げ静かに読書に没頭している。文字を追う目の動きは素早い。速やかに竹簡に収められた情報を脳へ収納していく。
昔から書を読むことが大好きだった。それは尊敬する兄と同じ趣味を持ちたくて真似したこと。いつしか自分の武器の一つとなった。
力を発揮する場は、兄の側ではなく、親友の側であった。
そこに一片の悔いも罪悪感も無い。
ただ、彼が歩むべしと定めた道を迷い無く進んだだけだ。
その果てに兄の手に掛けられたけれど、それは幾千幾万幾億と重なる己の選んだ選択から導き出された帰結なのだ。そこに満足感をこそ感じるべきである。
……ただ一つ、親友夫婦があの後どうなったのか気になるところではあるが、親友のことだ、最悪の状態にはなっていないだろう。そう、願いたい。
風が吹く。前髪がズレて視界に入り込んだ。
片手で雑に掻き上げた彼は、舌を打った。
「いつから気が付いていた? ────華佗」
「長坂からだ。やっぱりお前だったか、利天」
竹簡を脇に放り捨て、利天は腰を上げる。首筋に手を当て振り返る。
階(きざはし)には、この曹操軍の中に突如、容易く侵入してきた天仙が、やや荒んだ笑みを浮かべて佇んでいる。
利天は、恒浪牙という名を知っている。本来の恒浪牙という男を、知っている。
「見た目も、話し方も、恒浪牙そっくりじゃねえか」
永い時を生きる天仙は、今まで人の中に在ってどのように嘘を重ねてきたのだろう。きっと、利天も知っている他の奴らのフリをして、本来の自分を隠してきたのだろう。
華佗の永すぎる人生を利天は知らない。そのように振る舞う理由を漠然と察しているから、責めるように言う。
華佗は一瞬だけ視線を逸らし、利天の前へ歩く。
《昔》は利天の方が僅かに身長が高かった。されど今ははっきりと差があってこちらが小さい。
目を細めて華佗を見上げる。
華佗は利天を見下ろし、ふっと表情を消した。
嗚呼、来るか。
利天は静かに、その口が開くのを待った。
「何故、処刑されたお前が、お前のまま存在している」
「俺のままじゃあない。この身体は李典の物だ。俺はただ、大事な用があってこいつの中に居候させて貰ってるだけだ」
「……」
華佗の疑念は、晴れない。
それはそうだろう。
何せ李典と俺は、瓜二つ。
おまけに利天が我流の二刀流を教え込んだ。
華佗には余程衝撃的だっただろう。利天と同じ顔をした少年が、利天と良く似た太刀筋をしていたのだ。あそこで、李典に接触してこなかった冷静さがあったことに、少しだけ安堵する。これで猫族の状況も何も考えずに来ていたら、呆れていた。
利天は眼差し厳しい華佗を見据え、胸を押さえた。
「李典は、兄貴の子孫だ」
「……利空の……」
華佗が息を呑む。ややあって吐息を漏らし、納得したようだ。
利天は手を降ろした。
「李典の中には玉藻が眠っている」
「!」
「俺が李典の中にいるのも、玉藻が李典の身体を乗っ取る為の下準備だ。玉藻の力は未だ完全ではないが、じきに李典も俺も食らって復活するだろう」
「……何故、」
何故、俺が玉藻に目を付けられたのか。
そう問いたいのだろう華佗に利天は肩をすくめて見せた。
その答えは明白だ。
利天は、ずっと龍脈にたゆたっていた。
玉藻もまた、解けかけた封印の中澱んだ龍脈へ手を差し込むことが出来た。そうして、澱みに混ざり自我を保つ利天の魂を見いだしたのだった。
この大陸では、死した人は誰であろうとも魂魄が分裂する。魂は天上へ昇って神となり、魄は地上に留まり《鬼(き)》となる。
死者の霊を言う鬼は、その死、その後の扱いによって悪鬼と変わり人々に害を為すことがある。余談だが、今日まで日本に伝わる鬼(おに)とは異なる。
利天は死後、骸を底無しの沼に打ち捨てられた。その下の果てが、たまたま龍脈であったのだ。
辛うじて悪鬼に転じること無く自我を保っていた利天は無理矢理に引きずり上げられ生まれたばかりの李典の身体に入れられた。その時点で、玉藻は封印の外へ復活の伏線を敷くことが出来ていたのだ。
李典が選ばれたのも、利天が入れられたのも、偶然に過ぎなかった。
けれども利天は、これは兄が己に助けを求めたのだと思い込むこととした。そうして、李典を玉藻から守り抜こうと堅く堅く誓った。
だからこそ、利天は華佗の問いに答えず、己の要求を突きつけた。
「関羽を返す代わりに幽谷を渡せ。俺達には甘寧の作ったあの器が必要だ」
あの女の身体だけは、狐狸一族の中でも特殊なのだ。あれ以上に、李典を救う計画の軸となるに相応しい器は無い。
彼女の身体ならば、絶対に仕損じない。確実に李典を救うことが出来る。
華佗が怪訝に顔を歪めた。
「訳を話せ」
「言えばお前は絶対に応じねえ」
「なら応じねえ」
「なら関羽がどうなろうが知ったことじゃねえぞ」
華佗ははっと鼻で笑う。
「曹操のことなら、どうとでも出来る。夏侯惇や夏侯淵がいたとしても、俺には勝てねえよ」
「……確かにそうだな。曹操軍は、お前相手ならとんと役に立たねえ雑魚ばかりだ」
だが、俺もいるのだ。
俺は華佗と肩を並べ戦っていた。李典を指導する中で勘は取り戻しつつある。
華佗はそれでも強気な姿勢を崩さなかった。
「無理無理。俺お前より強いから」
「へえ? 減らず口が相変わらずだな。俺の方が強いに決まってるだろ」
「は? 馬鹿だろ。偏執狂に俺が負ける訳ねえだろ」
「誰が偏執狂だ。変態医者が」
「俺は変態じゃねえ」
口調こそは薙いだもの。けれどもお互い、何とも悪い笑みである。賊であったが故、似つかわしくない容姿でも、なかなか様になっている。
暫く沈黙を置き、華佗は長々と嘆息した。ちらりと廊下を見やり、利天に目配せする。
利天は瞬きで応じ、
「だから! あの十三支の部屋にかけた術を解けと言ってるんだ!」
李典を装い声を荒げた。
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