夏侯惇
この、中途半端に蘇った熱は、一体何なのか。
身体を苛むそれはしかし、もどかしさを生み、もどかしさから不思議と快感を得る。このままでいて良い、いや良くない――――そんなジレンマすら心地良い。
熱の正体が何であるのか、幽谷には分からなかった。
ただ彼の――――夏侯惇がこちらに激情を向けるのに反応して、胸の奥底から彼へ向く引力が生じた。
傍にいたい。
彼の傍にいれば、本当の自分に戻れるのではないかと、そんな不確実な可能性を見出した幽谷は、一族の制止を振り切って夏侯惇のもとへ単身向かう。
勿論、歓迎したのは夏侯惇だけ。彼以外の武将からは間者だ罠だなどと騒ぎ立てられた。
が、そんなことどうでも良かった。
ただただ、幽谷はこの熱の正体を知りたかった。
熱に身を委ねると、夏侯惇への恐怖は不思議と緩和される。
記憶を取り戻したい幽谷は、周囲の言など全て受け流しつつ、彼の傍を離れなかった。
身体を求めてくる夏侯惇に応じた。同じ部屋で毎夜毎夜激情を受け止めた。もどかしさが強まっても、嫌だと、怖いと思う時があっても記憶を取り戻す為に我慢した。
されど、一向に記憶は戻らない。
どうして……。
思い過ごしだったのだろうか。いいや、そんな筈はない。
思い過ごしであってはならないのだ。
思い過ごしであったら――――私はどうして一族を捨ててまでここに来たの?
ここで思い出せなければ、大事にしてくれた家族を放り捨ててまで夏侯惇のもとに来た意味が無いじゃない。
記憶を戻せずに苦悩する幽谷を気遣う夏侯惇に、曹操はふと、李典と夏侯淵に幽谷を夏侯惇から距離を取らせるようにと命じた。
二人に、彼女を連れて北へ向かい、郭嘉と合流しろと彼は言った。
これを、夏侯惇がすぐに受け入れる筈がない。夏侯淵達が幽谷をよく思っていないと分かっている彼は、二人に任せるくらいなら自分が行くと言って聞かなかった。二人が幽谷を殺すかも知れないと――――夏侯惇らしくない猜疑(さいぎ)の言葉を言い放った。
幽谷一人に対しての異常なまでの執着に、彼らは驚く。同時に、夏侯惇をよくよく知る者はその異常さに一抹の恐怖を抱いた。その場で幽谷を貶す者疑う者に対して、彼はどうするだろう。その異常さからは、夏侯淵や曹操すらも予想出来なかった。
しかし、そんな夏侯惇も、呉攻めの大きな要(かなめ)。
今彼が抜けることにより、現在編成中の軍に、大幅な士気低下の恐れがあった。
曹操としては、現在猫族と同盟を結んだ呉を相手に万全を期したいところ。夏侯惇の離脱は手痛かった。
それが分からない夏侯惇でもあるまいに、今の彼は完全に曹操軍よりも幽谷を優先していた。
あんなに忠誠心も責任感も強い彼が、何故――――とは、あの張遼さえ思ったことだ。
このまま幽谷と引き離して、彼はどうなる?
……分からない。
曹操にとってこれは苦渋の決断だっただろう。
熟考の果てに、曹操は夏侯惇と李典に同行させることとした。ただし、郭嘉と合流した後は速やかに軍に戻るようにと強く命じて。
夏侯惇は、結局はずっと共にいられないことに不満を表しつつも、曹操がこれ以上折れてはくれないと知るや神妙に頷いた。
かくして、幽谷は李典と夏侯惇に連れられ、遙か北の地へ向かうこととなる。
幽谷は、長旅は苦ではなかった。
ただ、李典の視線が痛い。尊敬する夏侯惇を幽谷に歪められたと思っているのだ。
幽谷が関係しているとは分かっているが、全て幽谷が悪いのか、そこまでは分からなかった。
刺々しい態度を夏侯惇に咎められようとも、李典は変わらなかった。夏侯惇との衝突も、日を追うごとに増えた。
そうなると、段々と幽谷も居たたまれなくなって。
本当にこの選択が良かったのか、分からなくなった。
記憶は一向に戻る気配を見せず、夏侯惇の激情をただただ受け止めるだけの毎日。
もしかしたら――――歓喜に沸いた心も、その頃には戻ってきた恐怖にすでに塗り替えられていた。
次第に夏侯惇を拒絶するようにもなり、逃げ出したいと思うようになる。
夏侯惇も幽谷の変化を悟り、目に見えて苛立つようになった。
幽谷の意思も問わずに木陰で犯すことも増えた。彼も未だその激情の正体が分かっておらず、更には歩み寄ってきた幽谷にも拒絶されるようになり、自暴自棄になりかけてもいた。
そして――――郭嘉の駐屯する城に着いた後。
幽谷は、李典と共に謁見の間の扉の外で待たされた。
気まずい沈黙に耐えていると、扉が開かれ、無表情の夏侯惇が姿を現す。その影を帯びた瞳に薄ら寒いモノを感じた。
一歩離れたのは、幽谷も李典も同じだった。
「夏侯惇殿……?」
「……郭嘉に部屋を用意させた。行こう」
「……はい」
「李典はこの後について郭嘉と話せ」
「……分かりました」
李典は不服そうだ。
だが、逆らいはせずに謁見の間に入っていく。険悪な仲となった今、夏侯惇に拱手もしない。
彼を見送っていると、痛いくらいに手首を掴まれ引き寄せられた。
郭嘉という人物に与えられた部屋へと向かい、到着するや扉を開け、寝台に押し倒した。
一瞬双眼に見えた狂気に竦み上がった彼女の両手を縄でキツく縛り柱に結びつける。
あっと声を上げた時にはもう遅かった。
容易く千切られないように何重にも巻き付け、複雑に編み込んで結ばれている。
幽谷は青ざめた。
「な、にを……っ」
「逃げられては困る。俺は、明日には曹操様のもとに戻らねばならん。郭嘉にもよくよく頼んである故に、逃げだそうと思わぬことだ。あいつには、死ななければ何もしても構わないと言ってある。拷問も、やむを得ない状況であれば許す」
「そんな……!」
これでは監禁ではないか!
幽谷は唇を戦慄(わなな)かせ、自身にのし掛かってくる彼を見上げた。
太腿を撫で、その付け根へと降りてくる。
性急な行為に幽谷は身を捩った。
それも拒絶と取られ、首筋に噛みついた。噛み痕、鬱血痕に埋め尽くされた痛々しい肌に歯を立てられ、舌を這わされる。
順応したのもあるだろうが、防衛本能が働いているのかも知れない。
幽谷の身体は助かる為に快楽を求め始める。
ぎりぎりと痛む手首に呻きつつ、拾う快楽に喘ぎつつ――――全てが終わるのを待った。
幽谷はただ、記憶を取り戻したかっただけだ。
熱の向かう先にいた夏侯惇の傍にいれば、思い出せるかもしれないと思ったのだ。
それが――――こんなことになるなんて。
まるで、思い出してはいけないと、誰かに責め立てられているかのようだ。
責められて、思い出すなと責められて……胸が痛くなる。
思い出したいのに。
どうして、駄目なのだろう。
どうして記憶を失ったのか分からないから、不安なのだ。
だのに――――。
「――――無様だな。夏侯惇」
不意に、声が落ちてくる。
幽谷の身体を犯す夏侯惇の手が止まり、落ちてくる。覆い被さる彼の身体は、第三者によってぞんざいに寝台から下ろされた。
幽谷は茫然と、第三者を見上げる。
「李典……殿……?」
「……」
冷たい顔をした彼は、確かに李典。
だが、雰囲気も口調も別人のようになっていた。
困惑して固まっていると、李典は舌打ちして短刀を取り出し、拘束する縄を斬る。そして、幽谷に何かを投げて寄越した。
服だ。男用の。
幽谷は、それを抱え、李典を見上げた。
「あの、これは一体……」
「ここを出る。さっさと用意しろ」
「出る……?」
「郭嘉はお前を理由を作って拷問するつもりだ。お前の身体が使い物にならなくなると俺が困る。バレねえうちにさっさと逃げるぞ。……これ以上いても、記憶は戻らねえんだろ」
幽谷は俯いた。
確かに、記憶は戻らない。ここにいても、無理。
李典は気絶した夏侯惇の身体を細身にも拘(かか)わらず軽々と担ぐと、そのまま部屋を出ていった。
「外で待つ。用意が出来ればすぐに出てこい」
幽谷の返答を、彼は待たなかった。
‡‡‡
「……あの、」
城外に出てきた幽谷は、《利天》の与えた服をまといっていた。
くるぶしから首まですっぽりと覆う、ゆったりとしたその衣服では動きにくそうだ。
利天は鼻を鳴らし、幽谷の手を掴んだ。
「行くぞ」
「あ……夏侯惇殿は……」
「その辺の部屋に寝かせた。問題は無いだろ」
突っ慳貪に返せば、ほ、と吐息を漏らす。
あんだけ酷い目に遭わされてまだ気を遣うか……。
記憶の残滓故とは言え、物知らずで人が好いにも程がある。
……まあ、別に良いか。
利天は幽谷の手を引っ張って歩き出した。
どうせ、彼女はこのまま《 》のだから。
悲しげに城を振り返る幽谷を肩越しに一瞥し、利天はほうと吐息を漏らした。
これで、李典が助けられる。
●○●
まさかのバッドエンドでした。
この話でなら分岐みたいな形で郭嘉の話も書けそうですね……と書きながら思ってました。
ネタが固まったら書きます。……ネタが固まったら。(・_・|
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