諸葛亮





 彼は彼女に一度だけ、救われたことがある。

 けれどもそれは彼女にとって、記憶に留まることも無い塵芥の出来事でしかなかっただろう。
 いや、それ以前に彼女が彼を意識の中で認識していたかも分からない。
 あの無機質な青と赤。
 そこに、自分は確かに映り込んでいた。その更に奥の領域に、果たして自分の存在は浸透していったのか。

 そうであれば良いと、彼は後に幾度となく思う。

 彼は彼女のことをことあるごとに思い出した。
 彼女の存在は、何年経っても色褪せること無く彼の中で確かに息づいていた。名も知らぬ色違いの――――四凶の娘。
 年は自分とほぼ同じ。
 秀麗なかんばせには感情が無く、人形よりもずっと無機質で――――彼はその異質な様に恐ろしく思いつつも強く強く惹き付けられた。

 彼女は今、何処で何をしているのだろうか。
 生きているのだろうか、死んでいるのだろうか。
 感情が無いままなのか、笑えるようになったのか。
 何処かで、誰かに自分も聞いたことの無い声を聞かせているのだろうか。

 彼女に会いたい、と思い出す都度願った。
 ただ思い出して思いを馳せるより、彼女をこの目で見て、確かめてみたい。

 それが、恋情に近い熱を孕んでいると知ったのは、彼が山中で遁世(とんせい)生活を始めた頃だ。

 叶わぬ恋だと分かり切っていた。
 だって、何処にいるのかも、生きているのかも分からない存在を想うのだ。

 排他される四凶であるなら、人目も当然避ける筈。
 不吉の象徴四凶であるなら、人間に見つかれば殺される筈。
 四凶である以外に素性も知らぬ女を求めてたとて、虚しいもの。

――――人との関わりを絶った彼は、次第に彼女への想いを胸の内に閉じ込める。

 されど、彼女の存在は頭から消えてはくれなかった。

 そんな彼のもとに、一つの情報が舞い込む。
 官渡の戦い――――その詳細と、結末。

 結末にて命を落としたという、幽谷という四凶の娘。

 その娘の目の色は、青と赤であったと言う――――……。



‡‡‡




 その女性を見た途端、諸葛亮は見えない剣に頭を貫かれたような衝撃を受けた。

 神の一族と名高い、お伽噺の存在と思われていた狐狸一族(フーリ)、幽谷。
 片目を眼帯で隠したその妙齢の娘は、名前も、容姿も、記憶に残る《彼女》に似ていた。
 けれども決定的に違うのはその耳だ。こめかみに生えたそれは人間の耳殻ではない。狐にも見える、獣の耳だ。

 狐狸一族の長の命で、兄と共に猫族と行動しているという幽谷は、諸葛亮を見ても何の反応もしなかった。
 やはり、似ているだけで全くの別人なのだ――――そう思った時、諸葛亮は自分でも予想していなかった程に落胆した。
 それは当然のことだ。
 なのに、彼女があの時の彼女であったなら、死んだという情報が嘘であったならば――――そんなささやかな望みを持ってしまっていた。

 官渡の戦いで死んだ四凶の娘、幽谷。
 その青と赤の瞳は記憶の彼女と合致していた。
 情報を得た時には、もう会いたいとも何も思わなかったのに。

 今更、狐狸一族の幽谷に何を期待する。
 確かに不自然な程に似てはいるけれど……耳が人間ではないのだと雄弁に物語っているではないか。

 想いは捨てた……つもりだった。
 だが往生際の悪いことに、未だに胸の奥に残ってくすぶっていたのだ。
 まだこんなにも彼女に焦がれていたとは、我がことながらなんと未練がましいと呆れ果てる。

――――知らず、溜息が漏れた。
 その直後に鼓膜を擽った声に意識が現実に引き戻される。


「諸葛亮殿? 如何なさいました」

「……いや」


 ……いつの間にか、凝視していたらしい。
 諸葛亮は顔を逸らし、小さく謝罪した。

 猫族が劉表に与えられた博望坡。
 そこに作られた小さな村。
 諸葛亮の暮らす家屋には、幽谷や彼女の兄周泰も暮らしている。万が一の事態の時、その方が指示を出しやすいからだ。それに、同居していれば頻繁に出入りしていても、不審がられることも無い。

 自然と接触の多くなった幽谷とは、こうして二人きりで過ごすことも多くなった。

 それなりに親しくもなったようで、幽谷は諸葛亮にも分かる程度には表情に変化が現れるようになった。

 そんな幽谷は不思議そうに首を傾け、赤い隻眼で緩く瞬いた。


「あの……狐狸一族がそんなに珍しいのですか?」

「珍しいに決まっているだろう。狐狸一族が現実に存在しているなど……誰もが思っていなかった。呉を除いてな」

「そうなのですか?」

「そうだ。猫族とは違い、神聖な力を備えた神の一族。その一族に四凶――――いや、四霊がいるとも思わなかった」


 諸葛亮は手を伸ばし、幽谷の耳に触れる。ぴくりと痙攣するそれは、敏感らしい。隻眼を細めて身を引く彼女に諸葛亮は手を下げた。

 見れば見る程、記憶にある彼女の面影が見えてくる。
 だが、彼女は違うのだ。
 諸葛亮は幽谷に背を向け、竹簡を手に取る。

 それに集中する素振りを見せれば、幽谷は部屋の隅へと移動する。端座し、気配を殺した。

 しかし、


「幽谷。お前に、小さい頃の記憶はあるか」

「……え?」

「子供の頃、お前は何をして遊んでいた。狐狸一族にも、子供の遊びは存在するのか」


 振り返らずとも分かる。
 彼女は、困惑している。
 唐突にこんな問いを投げかけられ、意味が分からないでいるだろう。

 それでも訊くのは、いい加減この浮ついた心に諦めを付けさせたかったのだった。
 私の知る幽谷は、官渡の戦いで死んだのだと。
 ここにいる彼女は、ただ似ているだけの別人なのだと。二度と会えはしないのだと。
 自分自身に分からせたかった。

 けれども、幽谷はそんな諸葛亮の意図などいざ知らず。


「……申し訳ありません」


 私には、記憶がありませんので分かりません。
 そう、答えてしまったのだ。

 諸葛亮は眉間に皺を寄せ、幽谷を振り返った。


「記憶が無いだと?」


 幽谷は首肯する。


「はい。私は、死にかけていたところを長に拾われ、今の身体に作り替えられたのだと教えられました。それ以前の記憶は、全くありません」

「――――」


――――何だ、それは。
 何だ、その答えは。

 そんな返答をしてくれるな。
 そんな返答を、私は望んでいなかった。

 死にかけていた。
 身体を作り替えられた。
 それ以前の記憶が無い。
 なんて都合の良い身の上だろう。
 それでは、こちらの良いように考えてしまえるではないか。

 止めろ――――。
 理性の制止は、力を失った。

 諸葛亮の胸中、その奥底で沸き上がる感情は、歓喜だ。
 違うと否定する声を押し潰し、自分に都合の良いように断定してしまおうとする。
 まだ、確証が無いではないか。

 諸葛亮は沈黙し、「……そうか」とやや震えた声で竹簡に視線を戻した。だが、集中しようにも集中出来ない。

 それを不審に思ったのだろう。
 幽谷が横に移動してくる。


「あの……何か、気に障ることでも?」

「……」


 首を巡らせれば、そこに幽谷がいる。
 その眼帯の下は――――まさか。
 諸葛亮はほぼ無意識のうちに手を伸ばしかけた。

 が、不意に戸口の方で物音がし、咄嗟に下ろす。


「どうも、すみませんねぇ。諸葛亮殿。少々よろしいですか」


 引き戸を開いて入ってきたのは恒浪牙だ。
 諸葛亮は安堵すると同時に名残惜しさと苛立ちを感じ、竹簡を戻すフリをして深呼吸を繰り返す。


「如何なされたか」

「大したことじゃないんですよ。ちょっと薬草摘みに幽谷を貸していただきたくてですねー」


 ほんわりと、柔和で食えない笑みを浮かべながら、恒浪牙は幽谷を見やる。

 諸葛亮は快諾した。幽谷に目配せすれば、頷いて恒浪牙へと近付く。


「いやぁ、すみませんねぇ、本当に」

「いえ。構いません。今のところは、まだ曹操軍もまだ現れますまい。恒浪牙殿には、戦の前に薬などの準備をお願いしたい」

「ええ。心得ておりますよ〜。では」


 恒浪牙は一瞬だけ目に鋭利な光をよぎらせ、諸葛亮に会釈する。そのまま幽谷を連れて外へ出た。

 引き戸が閉められ、諸葛亮は長々と息を吐いた。
 恒浪牙には、きっと諸葛亮の愚かな心の移ろいなど悟られているだろう。それ故に、ああやって、諸葛亮を牽制する――――いや、してくれる。

 そうやって、誰かに否定してもらわなければ、勝手に解釈して真実だと決めてしまうだろう。
 ああ、愚かだ。私は。
 あの日出会った彼女は死んだのだ。

 半年も前に。
 猫族や曹操軍だけでなく。諸葛亮を除くあらゆる人間の記憶からも、抹消された。


 あの狐狸一族の幽谷は、全くの別人。
 そう、思わなければならないのだ。



○●○

 幼少時に二人が出会っていたらのif。
 ここでは本編とは違い、客観的に考えられず、夢主が同一人物か断定出来ずにいます。

 そしてこれを書きながら私、もしかしたら途中から夢主の眼帯の位置を勘違いしていたかもしれないと不安が……。ちまちま確認して修正しておきます……。


.

- 32 -


[*前] | [次#]

ページ:32/50